第90話 二刀の激流、そして終わらぬ悪夢
サンズイの目には、未だトウコの姿は映っていなかった。
目の前を覆うのは、果てしなく襲い来る死者たちの群れだけだ。激しい攻防のなか、サンズイは荒い息を整えながら歯噛みする。
「キリがない……! アレで一気にこの状態を打破したいが……。まずはなんとか、トウコと合流しないと……!」
サンズイはツキノワの術の範囲内にトウコが迷い込んでいることなど知る由もなく、ただ焦燥感を募らせて愛刀【緑葉】を振るい続けた。
「トウコッ——!」
その叫び声だけが、冷たい闇の空間に虚しく響き渡る。
一方、同じツキノワの術の範囲内にいながら、トウコの目に映る光景は全く違っていた。
彼女の周囲を取り囲んでいるのは、数え切れないほどの無数の「サンズイ」の姿だ。
(本物のサンズイはんは、一体どこにいるんや……)
どこを見渡してもサンズイがそこにいる。しかし、トウコには分かっていた。言葉や目では言い表せない、夫との確かな「心の繋がり」が、この世界のどこかに本物の存在を指し示していることを。
トウコは無数の幻影の間をすり抜けるようにして、その微かな、しかし鮮烈な気配だけを頼りにひたすら足を動かした。
その頃、戦場の外側で冷徹にすべてを見下ろしていたツキノワは、退屈そうに鼻を鳴らす。
「そろそろ、潮時だな」
ツキノワは足首に刻まれた【能】の文字を禍々しくなぞり上げた。
瞬間、サンズイの視界が歪む。
死者たちの群れの中から突如として現れたのは、仲間であるはずのキザム、クノ、ジャミの姿だった。
「クソッ……死者だけでなく、キザム達までも……っ!」
正気を失ったように襲い来る仲間たちの姿に、サンズイの動揺が走る。だが、容赦なく迫る刃を前に、彼は【緑葉】で応戦して斬り伏せるしかなかった。しかし、斬り倒しても彼らはすぐさま泥のように再生し、再び牙を剥く。
終わりの見えない激闘の末、極限の疲労がサンズイの肉体を蝕み、ついに彼はその場に膝をついた。
荒い息を吐きながら、朦朧とする意識の中でふと顔を上げたその時、目の前に一人の人影が立った。
(……トウコ……?)
そこにいたのは、愛しい妻の姿だった。
「トウコまで……。俺の妻を愚弄する気か……ッ!」
サンズイは怒りと絶望に突き動かされ、立ち上がろうと足に力を込める。しかし、蓄積したダメージと疲弊により、膝は笑い、もはや一歩も動かない。
「サンズイはん……」
聞こえてきたのは、紛れもなく本物の、切なくも温かい妻の声だった。
サンズイは驚愕に目を見張り、目の前の妻の姿を見上げる。
「おまえ……トウコなのか……? いや、間違いない、トウコ……! なぜ、ここに……っ!」
それはツキノワが最も好みそうな、悪辣な罠だった。仲間たちの姿でサンズイの心を抉り、最終的には本物のトウコすらも、その手で斬り捨てるように仕向けていたのだ。
だが、トウコの瞳に宿る光は、偽物などでは決してなかった。
「サンズイはん……よかった……。ホンマに、よかったわ……」
トウコは愛する夫が無事であったことに、心からの安堵の涙を零す。
「トウコ……すまない、心配かけたな……。だが、お前の力が必要だ」
サンズイのその言葉に、トウコは言葉を発さず、ただ静かに強く頷いた。
彼女には、夫が何を求めているのかが痛いほど分かっていた。
トウコは帯刀した愛刀【紅葉】を抜き放ち、サンズイへと差し出す。
サンズイはその柄をしっかりと握りしめた。
——右手に【紅葉】、左手に【緑葉】。二振りの刃が、暗闇の中で妖しくも美しく輝く。
「トウコ、【wind】を頼む! 俺は【water】を!」
「準備はええで!」
トウコは素早く【wind】のスペルを左手になぞり、その風の加護をサンズイへと付与する。同時に、サンズイ自身も【water】の術式を右手になぞり、己の肉体へと纏わせた。
風と水、二つの相反する属性の術式が複雑に混ざり合い、サンズイの全身を激しく、そして力強く包み込んでいく。
トウコは我が身の危険を忘れ、ただ祈るように顔の前で両手を合わせた。
(修行でも、まだうまく成功してへん……。どうか……サンズイはんに、チカラを……っ!)
その祈りに応えるように、サンズイが跳んだ。
放たれた斬撃は、すべてを飲み込む「激流」の如く猛り狂い、襲い来る死者たちの反撃は、すべて「流水」の如くしなやかに、華麗に受け流されていく。
トウコの目には、その戦いがもはや殺し合いではなく、残酷な闇夜を舞う神聖な「舞」のようにさえ映っていた。
轟音とともに、二刀の激流が周囲の空間を呑み込んでいく。
——ドォォォンッ!!
激流の奔流に押し潰され、死者たちの影は1人、また1人と悲鳴を上げる間もなく視界から消え去っていった。
すべての敵を殲滅し終えた瞬間、糸が切れたようにサンズイは息切れを漏らし、その場にガクリと膝をついた。
「ハァ……ハァ……。流石に……キツいか……」
「サンズイはん! よくやりはりました……!」
トウコはすぐさま駆け寄り、限界を迎えたサンズイの身体をしっかりと支え起こす。
夫婦がようやく辿り着いた、つかの間の安堵——しかし、それはあまりにも儚かった。
「……面白いものを見せてもらった。だが、今度はこちらの番だ」
冷徹で、逃げ場のない声が背筋を凍らせる。
顔を上げた二人の目の前には、虚空から現れたツキノワが佇んでいた。
しかもその足元の影から、おぞましい気配を纏った「ツキノワの分身」が次々と這い出し、二人の退路を完全に塞いでいく。
絶望を塗り替えたはずの空間に、さらなる悪夢が牙を剥く。
果たして、満身創痍のサンズイたちは、この圧倒的な理不尽を打ち破ることができるのか——。




