第89話 交錯する幻影と、意志の炎
サンズイの様子を伺うトウコの目には、やはり他の者の姿は映っていなかった。
目の前に広がるのは、冷たく静まり返った林の風景。そしてその中央で、サンズイが一人、何も存在しない虚空に向けて必死に刀を奮い続けている姿だけだ。
「サンズイはん……」
我が目を疑いながらも、トウコは自分の足がおかしいのか、それともサンズイが狂ってしまったのか、判断がつかなかった。ただ一つ確かなのは、目の前で命を削る愛する男の背中を見捨てられないという事実だけだった。
ただただその背中を信じて、トウコは震える足を一歩、また一歩と踏み出した。
背筋を氷のような冷たい風が撫で抜いた瞬間、世界の景色がガラリと歪む。
トウコの目に飛び込んできたのは、サンズイの視界に映っていたものとも、先ほどまでの風景とも全く異なる、悪夢のような光景だった。
トウコの周囲を取り囲んでいたのは、数え切れないほどの「サンズイの姿」だった。
そしてあろうことか、無数のサンズイ同士が互いに愛刀【緑葉】を抜き放ち、血肉を散らしながら殺し合っている。
「サンズイはん……!」
トウコが恐怖に震えながら声を漏らすと、その声に反応するように、周囲のすべてのサンズイが一斉に顔を向け、同時に叫んだ。
「トウコ!助けてくれ、そいつはニセモノだ!」
「騙されるな!ソイツこそが俺を殺そうとしている!」
「違う、俺がホンモノだ……!」
どれが夫で、どれが幻なのか。同じ顔、同じ声、同じ切実な瞳をしたサンズイたちが、一斉に助けを求めて手を伸ばしてくる。
「一体……何が起きとるんや……ッ!」
トウコの悲鳴が、終わらない鏡合わせの迷宮へと吸い込まれていった。
——暗転。
『キザムよ……。お前はなぜ、私の全ての力を引き出さんのだ……』
意識の底の、さらに深い闇。そこに響いたのは、キザムの魂に宿る『炎』の言霊の声だった。
「また、お前か……。あれから何度もその言葉の意味を考えたけど、俺にはわかんねぇよ……!」
キザムが歯噛みしながら心の中で叫ぶと、炎の声は静かに、しかし容赦なく紡ぎ続ける。
『【言霊】とは、お前達の込める想いに呼応する。わけも分からぬまま使ったところで、不完全な力しか引き出せん』
「だから!教えてくれ……! このままじゃサンズイも、クノも、ジャミだって死んじまうんだ……! 俺はもう、誰も失いたくない……!」
『……。護りたいのか?』
「当たり前だろっ!」
『それとも、ツキノワを滅したいのか?』
「滅したいって言われると、また違うんだけど……!」キザムは自分の胸に手を当て、心の底から湧き上がる熱を絞り出す。「里を、仲間を、こんなめちゃくちゃな目にあわせたヤツを……このままにはしておけねぇんだよ!」
『…………』
長い沈黙の後、炎の声は静かに告げた。
『——護る為の【煌炎】。死を呼ぶ【業火】。ふたつでひとつ……』
それだけを残すと、言霊の声は嘘のようにスッと消え去った。
(護る【煌炎】と、死を呼ぶ【業火】……。ふたつで、ひとつ……?)
キザムが脳内でその言葉を反芻した瞬間、ハッと現実の感覚が身体に戻ってくる。
視界を覆っていた真っ黒な闇が剥がれ落ち、耳の奥で、必死に自分の名前を呼ぶ切実な声が響いてきた。
——クノの声だ。
ゆっくりと重い瞼を開けると、そこには涙をハラハラと零しながら、懸命に蘇生術を繰り返すクノの姿があった。
「キザム……っ! よかった……本当によかった……!」
クノはもう二度と離さないと言い聞かせるように、ぐったりとしたキザムの身体を力いっぱい抱き締めた。その震える体温が、キザムを現実に引き戻す。
「クノ……。ありがと……。助かったよ」
「あんたはホントにっ……! なんでこう、いつも心配ばっかりかけるのよ……! このバカっ……!」
泣き腫らした顔で怒るクノに、キザムは痛む腹部を押さえながら苦笑を浮かべる。
だが、すぐにその表情は険しい緊張へと切り替わった。
「クノ……ゴメンな。けど、行かなきゃならねぇ。サンズイを……助けに行かねぇと……!」
その言葉に、クノはハッと息を呑む。
そうだ、サンズイは今、たった一人であの化け物と戦っている。慌てて周囲を見渡すと、先ほどまで一緒にいたはずのトウコの姿がどこにもなかった。
「トウコさんがいない……! まさか、サンズイの元へ……っ!」
キザムの治療に夢中で、トウコが危険を顧みず戦場へ走ったことに気付いていなかったクノの顔から、血の気が引いていく。
「クノ……あそこは危ねぇかもしれない。……一緒に来てくれるか?」
キザムが差し出した力強い手を見て、クノはしっかりとそれを握り返した。
「当たり前でしょ! 放っておいたらまたあんた、信じられない大怪我してくるんだから……! サンズイも、トウコさんも、絶対に助けるよ!」
二人の瞳に宿ったのは、恐怖を焼き払う確かな決意の炎だった。
キザムとクノは立ち上がり、仲間たちが待ち受ける【古代文字研究所】の奥へと言葉なく踏み出していく。
絶望の霧のなか、迷い込む者たちと、覚醒へと向かう者たち。
それぞれの想いを乗せた刃が、今、すべての理不尽を断ち切るために交錯しようとしていた——。




