第88話 呪縛の闇、蘇る影
冷徹な空気が立ち込める戦場。サンズイは脳裏であらゆる可能性を高速で分析し、思考を巡らせていた。しかし、どれも仮説の域を出ず、決定打には欠ける。
(幻術にしては妙だ。なぜ俺にだけ視え、トウコには視えない……? いや、視える場所と視えない場所の「境界」があるとしたら——)
思考を中断させ、サンズイは即座に決断を下す。
「トウコ! こっちに来てくれ!」
トウコは言われるがままに歩き出す。一歩、二歩と踏み出したその瞬間、彼女の背筋にゾクリと凍りつくような悪寒が走った。ふとサンズイの姿を捉えたとき、その目の前には、不気味に佇むツキノワの姿がはっきりと浮かび上がっていた。
「サンズイはんっ! 目の前にっ!」
トウコが血の引くような声で叫ぶ。しかし、当のサンズイは微動だにせず、冷静にその場に立っている。
「大丈夫だ。トウコ、後ろに下がれ!」
言われた通りトウコが後ずさり、一歩、また一歩と距離を取ると、不思議なことにサンズイの前にいたはずのツキノワの姿がスッと霧散するように消えてしまった。
「トウコ、そこからヤツの姿は見えるか?」
「……ううん。こっからやと、サンズイはんしか見えんよ」
「そうか……。なるほどな」
サンズイは一人、すべてのピースが噛み合ったように静かに納得の表情を浮かべる。
その様子を遠巻きに見ていたツキノワの眉間が、わずかにピクリと動いた。
(まさか、カラクリに気づいたのか……? だが、気づいたところで、この絶対的な絶望の空間の前では無力だ。何もできまい)
ツキノワは冷笑を浮かべると、静かに片足を引いて、右足首に刻まれた【能】の文字を禍々しくなぞった。
瞬間、サンズイの周囲の光が嘘のように掻き消え、世界が底なしの闇へと飲み込まれる。足元の泥の感触が消え、辺りの景色が一変した。
「……っ!」
「俺の能力を見極めたつもりでいるようだが、本当にそうかな?」
闇の底から響いてきたツキノワの声とともに、本人が姿を現す。彼は冷酷な瞳のまま、その右手を容赦なく地面へと突き立てた。
——ドゴォォォンッ!!
激しい地鳴りと共に地面が大きく盛り上がり、ひび割れた大地から、おびただしい数の「影」が這い出てくる。
そこに立っていたのは、かつてサンズイが死闘の末に打ち破った強敵たち、共に切磋琢磨した同期の忍たち、そしてサンズイの両親だった。
サカキ、ウツロ、ドグマ、ヒョウゲツ、カイライ、ウツツ、カゲマル、クチナシ、ハヤト、リオン——。彼らは生前の痛々しい傷痕や底知れぬ威圧感を纏ったまま、禍々しく立ち上がってくる。
怒りと哀しみが入り交じり、サンズイの声音が震える。だが、迷っている暇はない。彼は愛刀【緑葉】を力強く構え直した。
「使える者は全て使う。さぁ、行け! 死者共よ!」
ツキノワの冷酷な号令が響き渡ると同時に、蘇った死者たちが狂気的な殺意を宿し、一斉にサンズイへと襲いかかってきた。
「クソッ……!」
サンズイは、襲い来るかつての強敵や仲間たちを愛刀で次々と両断する。しかし、斬っても斬っても、彼らの身体は泥のように瞬時に再生し、再び牙を剥いて迫ってくる。終わりなき無限の泥沼。サンズイは何かを叫びながら必死に抵抗を続けるが、その声は音のない閉ざされた空間に阻まれ、外にいるトウコたちの耳には一切届かない。
その頃、湿地帯、林の入口では——。
「キザム……! お願い、死なないで……っ! しっかりしてよ……!」
クノの頬を伝う大粒の涙が、冷たい泥の地面を濡らしていた。彼女の手から放たれる『治癒』の光は限界を超え、かすかに揺らぐキザムの心臓の鼓動をどうにか繋ぎ止めている。
闇の中で孤独な戦いを強いられるサンズイ。
そして、現実の世界で生死の境をさまようキザム。
完全なる絶望の闇に包まれた戦場で、意志を継ぐ者たちの魂の反撃が、今、静かに始まろうとしていた——。




