第9話 言霊の毒花 ―奈落の講義―
湿り気を帯びた密林の奥深く、ノバラは緩やかな身のこなしで木に背を預け、キザムを値踏みするように見下ろしていた。薄衣の着物は、乱れた襟元から滑り落ちそうなほど危うげにその肌を覆っている。白く滑らかな二の腕と、しなやかなふくらはぎには、まるで呪いか宝飾品のように、黒い茨が肉に食い込むほどに締め付けられ、絡みついていた。その退廃的な美しさが、薄暗い密林の中で毒々しいほどに際立っている。
「いいか、キザム。漢字の術は甘っちょろい遊びじゃねえ。漢字には『部首』という理がある。これを見れば、その文字が内包する属性がひと目でわかる。……それを理解できなきゃ、ただの自殺志願者だ」
ノバラは地面に枝で円を描くと、吸い付くような指先で、五つの文字を書き記した。その一画一画は、神聖なまでの美しさを纏っている。ただの土の上だというのに、彼女が綴った『水』『風』『土』『雷』『木』の文字は、今にも意志を持って動き出しそうな妖艶な輝きを放っていた。
「これが『遁術』の基本だ。『水』なら水遁、『風』なら風遁。理屈は単純だろ? この五つの部首の形と書き順、それをあんたの指先が、アタシの指先を求めるくらいに覚え込みな。……一度でも間違えたら、その時は自分の術に食い殺されて、無様に消えな」
ノバラは喉の奥で低く笑うと、妖艶な流し目でキザムを射抜いた。
「あんたの『火』はイレギュラーな業だ。理屈なき、泥臭い炎。……今のあんたの力は、かろうじて繋ぎ止めているだけの不安定な代物だぜ。そんな危うい火を扱う馬鹿が、基礎を疎かにすればどうなるか分かるよな? 術の均衡が崩れた瞬間、あんたは真っ先にその身を焼き尽くすだけだ。……さあ、始めな。吐くまで書きなよ」
キザムは「わかった!」と意気込み、自分の左掌を差し出した。皮膚の上に直接、文字を刻み込む。
「まずは『水』だ!」
直後、掌に刻みかけた字が歪み、制御を失って暴発した。ボフンという音と共に、高圧の冷水がキザムの顔面を容赦なく叩く。
「馬鹿が。水遁の書き順一つ狂わせる程度の集中力で、何ができる? 基本すら正確にトレースできねえ奴に、言霊が力を貸すわけねえだろうが。……術ってのはな、言葉を刻む側の『覚悟』を試してんだよ。そんな甘ったれた書き方で、文字がチカラを貸してくれるとでも思ってんのか? さっさと次を書きな。死にたくねえなら、もっと必死にアタシに縋り付いてきな」
キザムが顔を拭う間もなく失敗を繰り返す横で、サンズイが黙々と木刀を振るう。彼は一度足を止め、ノバラに向かって一歩踏み出した。
「ノバラ、俺にもその『漢字』の理を教えてくれ。……俺ももっと強くなりたい」
ノバラは酒瓶の端を舌先で舐めると、サンズイを嘲るように見下ろした。
「強くなりたい、か。良い目をしてる。だがな、サンズイ。あんたの戦い方は、漢字という『言霊の呪い』とは根本から相性が悪い。あんたのその冷徹なスペルには……アタシ好みの毒が足りねえんだよ」
ノバラはサンズイの木刀を、指先で愛撫するようにコツコツと叩く。
「漢字なんて追うのは時間の無駄だ。あんたには、そのガチガチのスペルを使い倒す方法を教えてやる。『結合』だ。術式をパズルのように重ねて、深みを持たせるのさ。あんたの計算の美学なら、それが一番強くなる道だぜ」
「……結合。」
サンズイは迷いを捨て、再び木刀と向き合う。ノバラはそんな彼らを眺めながら、緩やかに身体をくねらせて酒を煽った。
キザムが失敗するたびに冷淡な言葉を投げ、サンズイには厳しい指導を課す。その様は、まるで甘い蜜で誘い込み、そのまま奈落へ突き落とす毒花のようだった。
その時、静寂を裂いて密林の空気が歪んだ。
「……ゲスなネズミが沸いたな。掃除の時間だ」
黒装束の刺客たちが現れ、風の刃が迫る。
「キザム、回避して『火』で相殺しろ! 失敗したら、その掌ごと吹き飛ばしてやる!」
ノバラの鋭い叫び。キザムは突き出した左掌に、直接、朱い『火』の字を刻み込んだ。肉を焦がす激痛と共に、掌から炎が奔流となって溢れ出す。
「――『火遁』!!」
放たれた炎が爆風となって刺客を吹き飛ばす。
隣ではサンズイが木刀を振るう。彼は瞬時に木刀に刻んだ『ICE』のスペルに、『SLASH』の構文を連結させた。
「並列演算――主指定『ICE』、副次指定『SLASH』。結合……実行」
サンズイが冷徹に呟くと、氷のスペルが刃の軌道を凍てつかせて極限まで硬度を高め、同時に『SLASH』の加速術式が斬撃の速度を次元の彼方へ押し上げる。木刀が空を切った瞬間、そこには視認不可能なほどの速度で真空の氷刃が走り、刺客の放った風を根元から切り裂いた。氷の花弁のような破片が、密林の夜を鋭く切り裂いて舞う。
クノは周囲で流麗に左手に『String』を綴り、光の糸のような結界で敵の攻撃を遮断し、キザムの背後を完璧に守り抜いた。
「……見たか! できたぜ!!」
キザムの満面の笑みに、ノバラは酒瓶を片手に、とろけるような笑みを浮かべた。その眼差しはどこまでも冷たく、底知れない。
「……へえ、サンズイ。初めてのリンクにしては上出来だ。その理論、アタシの毒とも意外と悪くない組み合わせかもしれないね」
ノバラは満足げに目を細めると、再び酒を煽った。
「せいぜい頑張りな。五属性を掌握した先で、あんたたちがどんな無様な死に様を見せてくれるのか……楽しみで仕方ねえよ」
密林の空気に漂っていた焦げ臭い炎の残り香と、凍てつくような氷の残滓が、ノバラの吐き出した酒の甘い香りに溶けていく。彼女は空になった酒瓶を無造作に足元の泥へと放り投げると、茨の絡みつく脚を優雅に組み替え、再び木へと体重を預けた。
「……ま、初戦としては及第点だ。死体掃除の必要もなさそうだしな」
ノバラは冷酷な美しさを湛えたまま、月明かりすら届かぬ頭上の枝葉を見上げた。その瞳には、この先の過酷な道のりが何よりも愉悦であるかのように、昏い光が宿っている。
「いいか、今の勝利で満足してるようなら、すぐにその喉元を掻っ切られることになる。……明日からは、もっと深く、もっと毒を含んだ地獄を見せてやるよ」
彼女が指先を軽く鳴らすと、地面に刻まれていた五つの漢字が、霧のように夜気へと溶けて消えた。ノバラは満足げに唇の端を吊り上げ、闇の中へとその背を隠していく。
「せいぜい震えて待ってな。あんたたちが一番望む『力』と、その対価となる『死』を、アタシが骨の髄まで教えてやるからよ」
木々の隙間から落ちる冷たい月光が、ノバラが消えた後の何もない闇を照らしていた。キザム、サンズイ、クノ。三人の少年少女は、未だヒリつくような戦いの余韻の中で、自分たちを縛り付けるその『毒花』の影を、ただ静かに見つめることしかできなかった。




