第86話 残された体温と、走り出す意思
冷たく湿った空気が立ち込める林の中。
クノが足を緩めず懸命に走っていると、前方の木々の間から風を切るような鋭い摩擦音が響いた。
「はあっ……! はあっ……!」
荒い息を弾ませながら、突如として目の前に現れたのはトウコだった。
その足元には、鮮やかな水色の【wind】の術式が深く浮かび上がり、彼女の身体を爆発的なスピードで前へと押し出している。
「トウコさん……っ!? どうしてこんなところに……!?」
クノは予想外の人物との遭遇に、驚きで両目を見開いた。
「話はあとや! それより、サンズイはんが……!」
トウコは言葉を継ぐ間もなく、クノの手をしっかりと引き、再び走り出す。
その切迫した声の響きに、クノの胸中は嫌な予感で激しくざわめいた。
ふたりが迷いなく林の奥を駆け抜けると、やがてその視界に、一本の太い木の幹にぐったりと寄りかかるサンズイの姿が飛び込んできた。
「サンズイはん! 約束通り連れて来たで……っ!」
トウコが声を張り上げながら駆け寄る。
しかし、サンズイからの反応は一切ない。
嫌な予感が確信へと変わりかけたトウコは、慌ててサンズイのそばに膝をつき、肩を強く揺すった。
「サンズイはん……? 嘘やろ……。サンズイはんっ……! サンズイはんっ……!!」
何度呼んでも、その身体は重く傾いたままで、微動だにしなかった。
絶望に染まったトウコの叫び声が、冷たい林の奥へと虚しく吸い込まれていく。
「トウコさん、私が診ます……っ!」
冷静さを失いかけるトウコを押し退けるように、クノは震える手でサンズイの身体へと飛びついた。
クノの掌から優しい光が放たれ、サンズイの傷口や出血量をすばやく確認しながら、渾身の『治癒』の術式が注ぎ込まれる。
——クノの温かなスペルが、かすかな脈を力強く引き戻していく。
「……っ……」
数秒の沈黙の後、サンズイがゆっくりとその瞼を押し開いた。
視界の端に映ったのは、青ざめた表情で自分を覗き込むトウコとクノの姿だった。
「……トウコ……。それに……クノ……」
サンズイが掠れた声で名前を紡いだ瞬間。
まるで今まで張り詰めていた糸がプツリと切れたかのように、トウコはサンズイの胸元へと勢いよく飛び込み、その身体を力いっぱい抱き締めた。
「サンズイはんっ……! この、どアホ……! 勝手に冷たくなって、ウチを置いていく気なんか……っ……!」
トウコの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が次々と溢れ出し、サンズイの衣服を濡らしていく。
その震える背中は、彼女がどれほど深い恐怖と戦いながらここまで走ってきたかを物語っていた。
「……すまない。少し……意識が持っていかれていたようだ……」
サンズイは痛む身体をかばいながらも、トウコの背中にそっと腕を回して優しく抱きしめ返す。
そして、かすかに体力が戻ると、その瞳に鋭い光を宿してクノへと視線を向けた。
「それよりクノ……! キザムはどうした……!」
サンズイの問いに、クノはハッと息を呑み、潤んだ瞳を揺らしながら必死に言葉を絞り出した。
「キザムが……サンズイを治癒してくれって、一人であの化け物と戦うって……! このままじゃキザムが……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、サンズイの表情が険しく引き締まる。
キザムの背負う覚悟と、迫り来る圧倒的な死の気配を直感した。
「クノ、落ち着け。……キザム、待っていろ……。すぐ行くぞ!」
サンズイは力強く立ち上がると、迷いのない足取りで【古代文字研究所】の方角へと走り出した。
その背中を追うように、トウコとクノもまた、それぞれの覚悟を胸に再び泥を蹴って駆け出す。
絶望の闇が広がる戦場へと、意志を継ぐ者たちの反撃の風が、今まさに吹き荒れようとしていた——。




