第85話 絶望の四面楚歌
冷たく湿った霧が立ち込める林の奥。
サンズイの意識が闇に飲まれかけたその時、焦燥に満ちた足音が泥を蹴った。
「サンズイはん……。こないに血にまみれて……。無茶しない約束やったのに……」
息を切らし、涙を滲ませながら駆け寄ってきたのはトウコだった。
その美しい着物は泥と血飛沫で汚れ、彼女自身も限界を迎えているのは一目瞭然だった。
サンズイはぼやける視界のなか、かすれた声を絞り出す。
「トウコ……。俺はまだ行かなくてはならない……。向こうでキザム達が……」
サンズイはおぼつかない足取りで、愛刀【緑葉】を杖代わりに一歩を踏み出そうとする。
しかし、肩と脇腹の傷口から再び鮮血が噴きだし、その場に崩れ落ちかけた。
トウコは慌ててサンズイの身体を抱え込み、必死に支える。
「そないボロボロになって、どないするんや。これ以上戦ったら死んでまう……!」
「それでも……。仲間が……。友がまだ戦っている……。俺は行かねばならん。トウコ……。よく来てくれた……。こうなったらアレをやるしかない……。協力してくれるか……?」
「アレはまだ修行でもうまくいっとらん……。それにそないなケガしとったら……」
「向こうにクノがいる……。トウコ……頼む……」
サンズイの瞳に宿る不屈の光を見たトウコは、夫の無謀さを嘆きつつも、その覚悟の重さを痛いほど理解していた。彼女は切なさに震える胸を押さえながら、静かに、そして力強くうなずいた。
「……しゃあないな、ウチがひとっ走り、連れて来たる! 少しの間待っときや!」
トウコはサンズイを近くの太い木の幹へと優しく寄りかからせると、クノを探すため、【古代文字研究所】の方角へ猛然と駆け出した。
その頃、【古代文字研究所】の周辺は、悪夢のような沈黙と殺意に支配されていた。
キザムは迫り来る脅威を前に、全神経を研ぎ澄ませている。
「クノっ!ここは俺が食い止める。サンズイを頼む」
「でも……ッ!」
クノの足がその場に張り付いたように動かない。
キザムを一人にしておく恐怖、そして先ほどヨルの暴走を止めるために身を挺したキザムの姿が脳裏をよぎる。
また彼が自分を犠牲にしてしまうのではないかという強い不安が、クノの胸を締め付けていていた。
「いいから行けっ!」
キザムの鬼気迫る叱責に、クノは息を呑む。
(…………)
苦渋の決断の末、クノは一瞥だけキザムに残し、サンズイの気配を追って湿地帯の方向へと走り出した。
(クノ、サンズイを頼んだぞ……)
背中を見送り、キザムは単騎で目の前の怪物に向き直る。
ツキノワは逃げるクノには一切興味を示さず、冷ややかな瞳でキザムだけを見据えていた。
「ようやく死ぬ覚悟ができたか?」
「死ぬつもりはねぇ!」
キザムは全身の血を沸騰させるように、拳の【煌炎】を激しく燃え上がらせた。
全霊の力を込めた一撃が、空間を焼き裂きながらツキノワの胴体を直撃する。
——ドゴンッ!!
手応えがあった。
キザムはなぜ自分の攻撃が当たったのか分らなかったが、あまりの直撃に、ついにこの理不尽な男にダメージを与えられたという小さな安堵を覚えた。
しかし、ツキノワは微動だにしない。
「ようやく、拳が届いて嬉しいか?」
冷徹な声とともに、ツキノワの口元が不敵に歪む。
拳は確かに胴体にめり込んでいるというのに、ツキノワの身体にはかすり傷一つついていなかった。
「一芸だけじゃ、詰まらないだろう? 今度はこういうのはどうだ?」
その瞬間。
キザムの拳を中心に、ツキノワの肢体がガラス細工のように四方へとパァンと弾け飛んだ。
「っ……!?」
驚愕するキザムの視界の端で、弾け飛んだはずの破片が泥と血肉の禍々しい塊へと変化していく。
それは瞬く間に異形のキメラと化したヨルの姿を形作り、気づけばキザムの四方八方を完全に包囲していた。
逃げ場など、どこにもない。
どこからともなく、ツキノワの嘲笑うような声が冷たく響き渡る。
「絶望的だろ? これは幻なんかじゃない。コイツらに囲まれて、一体いつまで生き延びられるかな?」
四方を取り囲む無数の巨獣たちが、一斉に殺意の牙を剥き出しにして低い唸り声をあげる。
あまりに現実離れした光景に、キザムの頭脳は完全に思考を停止しかけていた。
積み重なる疲労と圧倒的な無力感が、ジワジワと彼の精神を蝕んでいく。
逃げ道も、勝機も、光すらない。
完全なる絶望の闇が、キザムの小さな背中を容赦なく呑み込もうとしていた——。




