第84話 翡翠の盾と、反撃の狼煙
湿地帯の冷たく湿った空気の中、折れた木の枝が散乱する林の奥。
うずくまるようにして、一人の男がゆっくりと上半身を起こした。
サンズイだ。
ツキノワの放った凄まじい衝撃波が全身を襲い、吹き飛ばされた際に折れた木の枝が肩や脇腹を深く突き刺している。傷口からは鮮血が止めどなく流れ落ち、冷たい泥水と混ざり合って足元を赤く染めていていた。
「クソッ……。身体が重い……。それに、この頭の割れるような痛みは……脳震とうか……」
サンズイは右手で出血する額を押さえ、荒い息を整えながら、近くに落ちていた愛刀【緑葉】を力なく支えにして立ち上がる。
かすむ視界の先、木々の隙間から、先ほどまで戦っていたツキノワの気配が遠ざかっていくのがわかる。
(ヤツの術の正体は一体なんなんだ……。物理の攻撃も、風の軌道も、すべてをすり抜ける。あの『理』を打ち破る糸口が、どこかにあるはずだ……!)
頭部からの出血で意識が朦朧とする中、サンズイの瞳は微塵も曇っていなかった。
サンズイは痛む身体に鞭打ち、ふらつきながらも力強く一歩を踏み出す。
血に濡れた男の眼差しに映るのは絶望ではなかった。
だが、頭部の出血と激しい疲労で、サンズイの視界はひどくかすんでいた。
(……? 視界が……。前の方に、何か影が……?)
霞む意識のなか、遠くの景色がぼんやりと揺らめく。
敵か、それとも――。
はっきりと焦点を結ばない視界の向こうから、1人の足音が、必死に自分を呼ぶようにこちらへと駆け寄ってくるのが聞こえた。
向こうから誰かが駆け寄ってくる。
(……一体、誰だ……?)
サンズイが血まみれの眉間を寄せ、目を凝らそうとしたその時――。
遠く離れた日ノ本の里の方角で、地響きのような凄まじい轟音が轟いた。
その頃、日ノ本の中枢部では――。
黒煙と業火に包まれた戦場で、ジャミはボロボロになりながらも、変異したヨルの進路に立ちはだかった。
すでに何度、その巨躯から繰り出される人間離れした攻撃を受けたことだろう。全身の皮膚は裂け、至るところから血が溢れ出し、骨の軋む音が自分の耳にもはっきりと聞こえる。
それでも、ジャミの足は一歩も引かなかった。
ツキノワを追うキザムたちの背中を守るため。その一心だけで、砕けかけた身体を無理やり立たせ、ヨルの前に立ちはだかり続ける。
「ハァ……ハァ……っ……!」
咽せるような血の匂いの中、ジャミは濁った目を向ける目の前の怪物を見据えた。
「ヨル……。もしかしたら、僕とお前は逆だったかもしれないな……。あんなふうに改造されて、理不尽に理を奪われて……。僕自身、こんな身体に勝手に改造されたことを恨んでいる……」
ジャミの脳裏に、冷酷な実験室の記憶と、同じように理不尽な運命を背負わされた者たちの姿がフラッシュバックする。
「……だけど。それでも、こんな僕を仲間と呼び、温かく信じてくれる者たちがいるんだ。トウコも、チユも、ナナシも、そしてキザムやサンズイ、クノたち……! その人たちのために、この命が尽きようとも、お前をここから先に行かせるわけにはいかない……っ!」
既に、ジャミの手元にあったはずの短刀は跡形もなく砕け散っている。武器すらない丸腰の状態で、彼はヨルを見据えて両手を広げた。
「グルァアアアァッ……!!」
ヨルが喉の奥から殺意の雄叫びを上げ、常人ならざる跳躍で巨大な拳を振り下ろす。逃げる暇などない。
ジャミはそっと目を閉じ、心の中で仲間たちの名を呼んだ。
「すまない、みんな……。僕の足止めも、ここまでだ……。どうか、無事でいてくれよ……」
――ドオオオッ!!
世界が引き裂かれるような圧倒的な衝撃音と共に、猛烈な土煙が周囲の視界を真っ白に染め上げる。
ジャミの身体を、衝撃で弾き飛ばされた瓦礫の破片が幾重にもかすめ、パラパラと乾いた音を立てて足元へと落ちていった。
だが――予想していた激痛は、訪れなかった。
(…………?)
ジャミがゆっくりと、その蛇のような細い目を開く。
目の前で振り下ろされたヨルの巨大な拳は、ジャミの直前でピタリと停止していた。その拳とジャミの間の空間には、眩い翡翠の様に美しく輝く、分厚い障壁が展開されていたのだ。
「……一人でかっこいい遺言なんて残しちゃってさ。呆れちゃうね」
聞き慣れた、しかし今はこれ以上なく頼もしい声が響く。
「チユ……っ!?」
見れば、少し離れた瓦礫の陰から、チユが汗を拭いながら全霊の言霊をその障壁へと注ぎ込んでいていた。
「大丈夫かい、ジャミ?」
「援軍……か……っ!」
その言葉を最後に、極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたように、ジャミはそのまま意識を手放し、崩れるように地面へと倒れ込んでしまった。
「ジャミっ! おい、しっかりしなよ……!」
チユが叫ぶ。だが、目の前にはまだ暴走する最大の脅威がそびえ立っている。
「ミケ! すぐにジャミを安全な場所へ避難させて! ナナシ、ジャミを治癒するまでの数秒でいい、あの化け物を止めて!」
チユの的確な指示に、仲間たちが瞬時に動き出す。
「わかったニャ!」
ミケは愛らしい見た目からは信じられないほどの敏捷性でジャミの身体をひょいと抱え上げ、後方の安全圏へと弾丸のように駆け抜けていく。
一方、ナナシは舌打ちを一つしながらも、ギラリと冷徹な光を瞳に宿した。
「ふん……! アタシに指図するんじゃないよ!」
ナナシは右手の親指の皮を鋭い歯で自ら噛み切り、飛び散った血の雫で左手に素早く【茨】の古代文字を書き上げた。
ズガガガガッ!!
地面を突き破るようにして、無数の禍々しい黒い茨が奔流のごとく現れ、暴れるヨルの四肢と巨体を強烈に締め上げる。
その隙を逃さず、チユは障壁を解除し、光速でジャミの元へと駆け寄った。両手をかざし、最大出力の『高速治癒』の光を叩き込む。
「ぐっ……!」
みるみるうちにジャミの深い傷口が塞がり、失われていた体力が急速に満ちていく。しかし、それだけでは足りない。
「ジャミ、起きろ! ボケっとしてんじゃないよ、アンタのチカラもまだ絶対に必要なんだからねっ!」
チユが容赦なくジャミの頬をペシペシと叩く。
「..っ……!」
その痛みに顔をしかめながら、ジャミはゆっくりとまぶたを開け、現実の世界へと意識を浮上させた。
「すまない……助かったよ。……だが、援軍に来てくれたのなら、僕を助けるよりも、キザム達の方へ加勢に向かうべきじゃ……」
まだフラフラとする身体を無理やり起こしながら、ジャミが心配そうに周囲を見回す。
そんなジャミの懸念を払拭するように、ナナシは不敵で、どこか悪戯っぽい笑みをその口元に浮かべて言い放った。
「心配要らないよ、ジャミ。……既に強力な助っ人が鬼の様な形相で向かってる。」
ナナシの言葉を合図にしたかのように、遠くの森の奥から、すべてを切り裂くような凄まじい風の残滓が天高く突き上がった――。




