第80話 紅の嘘と、獣の咆哮
パリンッ……!
澄んだ破壊音と共に、蒼く眩い障壁が砕け散った。ヨルの繰り出した剛腕が、その絶対的な防御をいとも簡単にかち割る。
だが、仲間が繋いだそのコンマ数秒の隙を、キザムもサンズイも決して見逃しはしなかった。
障壁に衝突した衝撃で、ヨルの拳の勢いはわずかに軽減されている。
その破片が舞い散る中、ジャミは瞬時にクノを両腕でしっかりと抱え上げると、強烈に大地を蹴り飛ばして近くの民家の屋根へと飛び乗った。
同時に、キザムとサンズイは地を抉るような踏み込みで、変異したヨルの懐へと真っ直ぐに肉薄する。
キザムの拳が唸りを上げ、サンズイの愛刀【緑葉】が冷たく煌めく。
――ガツオオオッ……!!
凄まじい地響きが日ノ本の里を揺るがした。
暴走するヨルは、常人ならざる反射神経で、キザムの拳とサンズイの斬撃をなんと片腕ずつでガッチリと受け止めてしまった。
「ぐっ……! これでもダメか……っ!」
押し返される重圧に顔を歪めながら、キザムが歯を食いしばる。
その隣で、サンズイは血走りながらも一歩も引かず、愛刀に全神経を集中させて叫んだ。
「諦めるな……! ここで引けば終わりだ、絶対に勝機はある……っ!」
二人は圧倒的な膂力の化け物と化したヨルに食らいつき、死闘の火花を散らし続ける。
その背後で、戦闘の喧騒をよそに、ツキノワは冷ややかに鼻を鳴らした。
「ムダだよ、ムダ! ……さて、ここはヨルに任せて、俺は本来の目的地に行かせてもらうよ」
興味を失ったと言わんばかりに、ツキノワはキザムたちに背を向け、悠然と歩き出す。その背中には、余裕すら見えた。
「本来の目的地……?」
屋根の上に降ろされたクノが、ハッと息を呑んでその背中を見つめる。
ジャミもまた、低い声で怪訝そうに呟いた。
「日ノ本でも里長でもない……? いったい、何を企んでいる……。」
ツキノワがどこを目指しているのかは分からない。だが、この状況でその男を野放しにすることなど、到底できるわけがなかった。
キザムとサンズイは、地を蹴り、空を駆け、この規格外の化け物を何とか足止めしようと絶え間なく剣と拳を交え続けている。
(後を追うべきか……。いや、キザム達だけであのヨルを相手にさせるわけにもいかない……)
ジャミの脳裏で激しい葛藤が渦巻く。しかし、次の瞬間、彼の決意は固まった。
ジャミは屋根から音もなく飛び降り、激しく交戦するキザムとサンズイの前へと躍り出た。
「ジャミ、加勢はありがたいが、ここは俺たちだけで何とかする! はやくツキノワを追えっ!」
キザムが叫ぶ。サンズイも言葉は発しないが、その鋭い横目で同じ思いであることを訴えていた。
だが、ジャミは静かに首を横に振る。
「そうはいかないな。キザム、サンズイ、そしてクノ……ここは僕に任せてくれ」
ジャミはスッと短刀を構え、眼前の巨躯を見据えた。
「コイツとは……。ヨルとは浅からぬ因縁があってね……。実は、僕の弟なんだ。だから、ここは僕が引き受ける。キミたちはツキノワを追ってくれ!」
その唐突すぎる衝撃の告白に、キザムたちは一瞬、言葉を失った。
しかし、ジャミの背中から放たれる気迫は、迷いのない凄まじい覚悟に満ちていた。
「いいんだな……ジャミ」
サンズイが、一筋の光る汗を拭いながら問う。
「あぁ……」
その揺るぎない返事を確認すると、キザム、サンズイ、そしてクノの3人は、これ以上迷うことなくツキノワが歩いていった方向へと全速力で走り出した。
「グルァアアアァ……ッ!」
ヨルが喉の奥から獣のような濁った唸り声を上げ、巨体を揺らして走り去るキザムたちの行く手を阻もうと巨大な腕を振り下ろす。
だがその軌道に、一筋の影が滑り込んだ。
ジャミがその鋭い短刀で、ヨルの凄まじい一撃を受け止めたのだ。
「お前の相手は、僕だ……。キザム達に、指一本触れさせないよ」
ジャミの静かな声が、戦場に響く。
キザムたちはその背中に背中を押されるように、風を切って駆けていった。
走りながら、キザムは息を荒らげて疑問を口にする。
「おい、ヨルがジャミの弟って、一体どういう……! あいつにそんな弟がいたなんて聞いたことねぇぞ!」
サンズイは呆れたように一瞥をくれる。
「キザム……お前は本当に察しが悪いな……」
クノもまた、切なそうに目を伏せながら言葉を継いだ。
「……今の、私たちを先に行かせるためのウソに決まってるじゃない」
「ウソ……!?」
キザムは純粋に驚き、足を止めそうになる。
「恐らく、ジャミは最初から自分が犠牲になるつもりだったんだ……。俺たちが束になってもあの怪物には敵わない、せめて俺たちがツキノワを追うための時間だけでも稼げれば……といったところか」
サンズイの重い言葉に、キザムは歯を噛みしめる。
「なら、戻って加勢しなきゃ! あんなの、1人で戦わせたら……!」
キザムが引き返そうとしたその瞬間、サンズイがガシッとその肩を掴んで強く制止した。
「ジャミの……あの男の覚悟を踏みにじるな……! 今は、奴らの野望を断つために、ツキノワを止めることだけに集中しろっ!」
サンズイの揺るぎない眼差しを受け、キザムはぐっと唇を噛み締めると、再び前を向いて力強く走り出した。
(ジャミ……! 絶対に、無事でいてくれよ……っ!)
一方、喧騒の遠ざかった里の中心部。
ジャミは眼前の狂暴な巨躯を睨み据えながら、ヨルの腕をギリギリの力で弾き飛ばした。
(――やっぱり、僕はウソが下手だな……あんなのすぐバレるか)
自嘲するような笑みを頬に浮かべ、ジャミは傷だらけの身体から最後の闘気を絞り出す。
(頼んだぞ、キザム。……うまくやってくれよ)
覚悟を定めた瞳に光を宿し、ジャミはたった一人で、言葉を失った怪物との死闘へ向けて短刀を片手に飛びかかっていった――。




