第7話 殺しの理(ことわり)
湿地帯の霧の中で、ウツロの纏う風の刃がジャミを切り裂く。ジャミは三日月のように目を細め、軽やかに跳躍してそれを回避した。
「君の風は鋭いけれど、少しばかり単調だねぇ」
ジャミが短剣を翻し、風の隙間を縫うように切り込む。ウツロは薄ら笑いを浮かべ、全身の風を増幅させてジャミを弾き飛ばした。
その背後で、巨漢ドグマが地面を粉砕しながら突進する。
「キザム、サンズイ! あいつを止めろ!」
サカキの怒号が森に響く。サカキに率いられた他の生徒たちも、緊張の面持ちでその攻防を見つめている。
サンズイが地面を強く踏みしめ、木刀から冷気を解き放つ。
「『ICE』!」
爆発的な冷気がドグマの足元を凍てつかせ、地面ごと動きを縛り付ける。だが、ドグマは咆哮と共にその氷塊を筋肉の力だけで粉砕した。
「甘い!」
ドグマの拳がサンズイを襲う。サンズイは紙一重で回避し、木刀の柄でドグマの脇腹を打ち抜くが、岩のような硬さに弾かれる。
キザムは右の人差し指を突き立て、自身の左掌へ鋭く書き込む。熱が宿る『火』の理。それが発動の合図だ。
「させるか!」
ドグマが両腕を振り上げ、衝撃波でキザムの熱源をかき消そうとする。圧倒的な暴力に対し、二人は防戦一方で、徐々に追い詰められていく。
キザムは焦燥に駆られた。このままではサンズイが潰される。
キザムは覚悟を決め、右の人差し指で左掌を深く切り裂いた。溢れ出した鮮血を指先に絡め取り、改めてその掌に『火』の文字を叩きつける。
「――『火』!!」
血を纏った『火』の刻印は、先ほどまでとは別次元の熱量を放った。赤黒い炎がキザムの左掌から爆ぜ、ドグマの足元を溶岩のように焼き払う。ドグマが熱さに悶絶し、一瞬の隙を見せる。
サンズイがその隙を見逃さない。木刀に『ICE』を極限まで圧縮し、ドグマの胸板を強打した。
「……っ!」
完璧な連携。二人はドグマを完全に無力化し、泥の中に伏せさせた。
その光景を見ていたジャミが、ウツロを短剣で仕留めた直後、こちらへ歩み寄る。
「……殺せ」
ジャミは血濡れの短剣を手に、ドグマの首元へゆっくりと歩み寄る。
「なぜ止まる? 君たちの木刀も、その掌の『火』も、本来は薪を割るための道具じゃない。……敵の肉を断ち、骨を砕き、魂を刈り取るために研ぎ澄まされた――『殺しの術』だ」
ジャミの言葉が終わるか終わらないかの刹那、彼の姿が風のように消えた。
「――ッ!」
ドグマの心臓が冷酷な短剣の一撃に貫かれる。続いて、隙を見せたウツロの首筋が鮮血と共に跳ねた。
二人の断末魔が重なって森に響き、ジャミの殺意が周囲の空気を支配する。周囲の生徒たちはあまりの光景に顔を青ざめさせ、数人はその場で嘔吐した。サカキだけは表情一つ変えず、その惨状を見つめている。
ジャミは手慣れた手つきで短剣を振るい、血を散らした。
「良い『火』だったよ。でもね、君たちが毎日使っているその術は、薪を割るための道具じゃない。……敵の魂を刈り取るための『殺しの術』だ」
キザムは、目の前で命が消えたという事実に、手の熱が急激に冷めていくのを感じる。自分の放った術が、人を殺すための『理』であることを突きつけられ、指先がひどく汚れたような気分になる。
隣で、サンズイが木刀を取り落とす。硬質な音が、死の合図のように響いた。
クノは結界の境界線で立ち尽くしたまま、目の前の光景に息を呑んでいる。泥と鉄の臭いが鼻をつく。キザムが、ジャミという「殺戮者」の世界へ、決定的に引きずり込まれていく――その予感に、クノの心臓は締め付けられるような痛みを覚えていた。
「帰るよ。……死体片付けの『掃除屋』が来る前にね」
サカキが冷淡に指示を出し、生徒たちを促す。帰り道の森は、行きよりもずっと深く、暗く感じられた。
日ノ本の里の門をくぐる一行は、重い沈黙を保ったまま分かれていく。サカキとジャミはそのまま里長の屋敷へと向かった。キザムは泥と血を拭うこともままならないまま、足早に「古代文字研究所」へと直行した。
研究所に入った途端、鼻を突く強い酒の匂い。
ノバラは研究机に無造作に身体を預け、酒瓶を煽っていた。キザムの荒い足音にも動じず、ただアンニュイな仕草で喉へ酒を流し込む。乱れた襟元もそのままに、彼女は猫のような瞳をキザムへ向けた。
キザムが息を切らして駆け寄る。
「……師匠。演習で、刺客が現れた。……誰一人、死なずに済んだ。……だが、狙われているのは確かだ」
ノバラは酒瓶を乱暴に机へ置くと、キザムの掌にこびりついた鮮血を、冷めた目で見つめた。彼女の腕に巻かれた黒い茨が、生き物のように微かに蠢いている。
「……『風』の術は使ってないだろうな」
「……使ってない。あれは、まだ制御できない……」
キザムが力なく首を振ると、ノバラは鼻を鳴らし、再び酒瓶を煽る。強い酒が喉を焼く刺激すら心地よさそうに、あざ笑うように口角を上げた。
「賢明だな。未完成の『風』なんて、使うそばから己の命を食い殺す毒だ。術が形になる前に、あんたの命の方が先に灰になるってもんだ!」
ノバラはしばらく酒瓶を回しながら、霧がかった瞳で宙を眺めていた。やがて短く溜息を吐くと、机に積み上げられた古代文字研究資料を、まるでゴミでも払うかのように無造作に鞄へ放り込む。
「内通者探しに精を出すなんざ、今のあんたには時間の無駄だ。……場所を変えるぞ。里を出て、石碑の手掛かりを追いながら術の完成を急ぐ」
「……里を、出る? だが、里の外へ出るには里長の許可が必要だ。勝手に動くなんて、掟に反するだろ」
「許可なんて待ってたら、お前はすぐに死ぬ」
ノバラはふらりと立ち上がると、キザムの顎を指先でクイと持ち上げた。冷たい指の感触と、酒と毒花の香りが鼻をくすぐる。彼女の瞳の奥には、彼には理解できない深い呪いと、師としての冷徹な執着が混じり合っていた。
「そうだよ。……あんたが一人前になって、その身の内に言霊を完全に飼い慣らすまで、私の視界から外れることを許可した覚えはない」
ノバラは空になった酒瓶を床に叩きつけ、カランと乾いた音を響かせた。
「……とっとと荷物をまとめな。飲み終わったら、すぐに発つよ」
それは彼女の荒んだ日常を背負い、言霊の真実を求めて奈落へと足を踏み入れる、死と隣り合わせの逃避行の始まりだった。キザムは、これから自分が直面するであろう世界の深淵に、背筋を凍らせながらも、前を行く師匠の背中を食い入るように見つめ続けた。
[暗転]
日ノ本の里から遠く離れた、1年中氷に包まれた北の里『氷華の里 ロゼリア』/ローズ・ヴァイン牙城。
深い霧の中に立つ頭領の前で、一人の男が静かに跪いていた。
「……引き続き任務を遂行せよ」
男は何も答えず、ただ深々と頭を下げる。その口元が微かに引き締まったのを確認し、男が指を組んで印を結ぶと、その姿は白い煙となって霧の中に溶け込んでいく。霧よりもなお濃い煙が視界を遮った瞬間、男の気配は、まるで最初からそこには誰もいなかったかのように、虚空へと消え去っていた。
[日ノ本の里、屋敷]
同じ頃、サカキとジャミは里長の部屋で報告を終えていた。
「……演習中、刺客の襲撃を受けました。明確な内通者の影を感じました」
里長は険しい顔で、届いたばかりの密書を握りつぶす。
「生徒を巻き込んだことは重罪だぞ」
「教えることが、彼らの防衛になります」
サカキの冷徹な言葉に、里長は深い溜息を吐いた。
里長は窓の外へと視線を移す。平穏に見える里の空気に、目には見えない亀裂が走り始めていた。何かが確実に動き出している。その予感に、屋敷内には重苦しい沈黙が満ちていた。




