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第6話 蛇は嗤い、鼓動の温度に痛みを知る

長期休暇の終わり。里の空気は、どこか落ち着かない緊張感を孕んでいた。キザムはノバラの研究所がある湿地から、毎朝のように里の険しい崖や沼地を駆け破って学校へ通っている。重い泥を纏い、肺を焼くような苦しみを呼吸に混ぜる。ノバラが課すその日課は、逃れられぬ呪縛だった。

休み明け。学期初めの実技テストは、校舎の裏手に広がる「学校演習場」で行われた。

「キザム、前へ出ろ」

担任のサカキが、冷淡な眼差しでキザムを呼ぶ。集まった生徒たちの間には、以前の失態――キザムが『WATER』を唱えて校舎の一部を水浸しにした一件を覚えている者たちがいた。「今度は何をやってくれるんだ?」という下劣な期待と嘲笑が混じり合う。

サカキは演習場の教卓前に立ち、無表情に命じた。

「……綴り開始。FIRE、出力限界でだ」

キザムは演習場の硬い土を踏みしめる。彼は右の人差し指を突き立てると、自身の左掌に向けて深く、鋭く、空書きを始めた。それはただの空間への描画ではない。指先が皮膚をなぞるたび、目に見えぬ熱源が掌の表皮を焦がし、焼き付けていく。皮膚が裂け、赤黒い熱が内側から溢れ出す。一画ずつ、文字の理を己の肉体に直接刻み込むように、キザムは狂気的なまでの集中力で運筆を完遂した。

その熱は、単なる熱さではない。皮膚の下で血液が沸騰し、魂が焼けるような代償を伴う感覚だ。キザムは完成した『火』の刻印が踊る掌を、焼けるような熱を抱えたまま、力任せに握りしめた。

「――火!!」

叩きつけた左掌から、黄金の業火が演習場を飲み込む。岩盤が溶け、草地が瞬時に灰と化し、衝撃で校舎の窓が激しく震えた。

「――ッ!?」

サンズイが息を呑み、生徒たちが悲鳴を上げて散る。暴発を期待していた者たちは、目の前で起きた圧倒的な破壊力に思考が停止し、ただ呆然と立ち尽くしていた。サカキはその破壊力を前にしても表情一つ変えず、ただ静かに記録帳へ筆を走らせるだけだった。

その日の放課後、サカキは里長さとおさの「屋敷」を訪れていた。

「今期のカリキュラムを大幅に変更し、クラス全員参加の野外演習を取り入れたい」

里長は書類に判を押し、ジャミという名の研修生を同行させるよう告げた。ジャミは三日月のように目を細め、ニタァと笑う。

翌日の野外演習。移動中もジャミは、常に最後尾から生徒たちの動向を伺っていた。

「キザムさんでしたっけ? 湿地の泥の匂い……珍しい。泥は隠すのには良い素材ですよ」

蛇のような声に、サンズイが木刀を握る手に力を込める。クノは、自分には踏み込めないノバラの世界へ入り込んだキザムの背中を、焦燥感と共に眺めていた。久しぶりに会えたというのに、キザムの纏う空気はどこか遠く、自分を拒絶しているようにも感じる。自分たちだけが知るはずのキザムが、いつの間にか「他人」のように遠ざかっていく事実に、クノは胸を焼くような焦燥を覚えていた。


集落に到着しても、ジャミの挙動は不可解だった。

結界の修復作業中、サカキとジャミは時折二人きりで話し込んでいる。サカキが淡々と地図を指し示し、ジャミがニタァと笑う様子は、どこか奇妙な調和を保っていた。

日が傾きかけ、湖面が赤く染まる頃、静寂を破って「風」が吹き荒れた。

木々の影から、二人の人影がヌッと姿を現す。獲物を値踏みする、細く冷徹な瞳のウツロと、異様な威圧感を放つ大男のドグマだ。彼らは迷いなく、キザムが立つその一点へと視線を据えた。

ウツロは薄く、そして薄気味悪く唇を吊り上げる。

「……おや。久しぶりだねぇ。また君と相まみえることになるとは思わなかったよ。……いや、今回ばかりは『予定調和』かな?」

ウツロは、自身の両腕と両脚に淡い翠色の風を纏わせた。それは大気を切り裂く刃の風――『WIND』のスペルを全身に定着させた証だ。風が空気を震わせ、彼が立っているだけで周囲の草木が千切れていく。

「悪いね、キザム君。君の持つ古代文字をどうしても手に入れろと、上から厳命されていてね。……ご丁寧な手引きもあったことだし、君を逃がす選択肢は僕らにはないんだ」

その言葉が落ちた瞬間、空気が凍りついた。

「……手引き?」

サンズイが木刀を構えたまま、眉をひそめる。彼は持ち前の直感で、刺客の言葉に潜む「何か」を嗅ぎ取っていた。

「誰が……あんたたちに、俺たちがここにいることを教えたっていうんだ?」

サンズイの鋭い問いかけ。しかし、ジャミは三日月のように目を細めたまま、いつものようにニタァと笑みを深めただけだった。

「おや、サンズイ君。君は相変わらず勘が鋭いねぇ」

ジャミは短剣を弄びながら、まるで道端の噂話でもするように軽い調子で返した。

「でもね、そんなことを考えている間に、君たちの首は飛んでしまうよ。刺客がどこから嗅ぎつけたかなんて……そんなものは、結界の乱れに群がる虫の気まぐれと同じじゃないかな?」

その答えは否定でありながら、同時に肯定でもあった。ジャミの飄々とした態度は、かえってサンズイの疑念を濃くする。

生徒たちに凍りつくような緊張が走る。サンズイが木刀を構え、クノ素早く震える左手に『WALL』を綴り、障壁ウォールを張るが、放たれる殺気は訓練とは次元が違った。ドグマが不意に地を蹴る。その踏み込みだけで結界が歪むほどの圧力が放たれた。

「……キザム、逃げろ!」

サンズイの叫びを背に、キザムは踏み止まった。左掌に宿る『火』を握りしめ、ウツロを見据える。大男ドグマの拳が空気を切り裂き、キザムを襲う。障壁ウォールが一瞬で砕け、地面が大きく陥没した。

その衝撃の余波が、背後にいたクノを容赦なく襲う。吹き飛ばされ、地面に叩きつけられそうになったクノの体を、泥だらけの腕が抱きとめた。

「……っ!」

キザムの腕の中に収まった瞬間、クノの心臓が異常なほど激しく跳ねた。

目の前には殺意の化身である敵、耳元には大地の鳴動。本来なら恐怖で凍りつくはずの極限状態なのに、耳の奥で鳴り響くのは自分の心臓の音だけだった。

これは、死への恐怖なのか。それとも、泥に塗れ、かつて自分たちが見た姿とはまるで別人のようになってしまったキザムの体温を、至近距離で感じているからなのか。クノはその高鳴りの正体を見極められないまま、ただキザムの荒い呼吸をすぐそばに感じていた。

「離れろ……っ!」

砂煙を切り裂いて飛び込んできたのは、研修生のジャミだった。彼は悲鳴に近い焦燥を滲ませた表情で、短剣を手に刺客とキザムたちの間に割り込む。

「危ないじゃないか! 君たち、下がっていてくれ! 先生、ここは僕が……っ!」

遠くでサカキが、眉間に深い皺を寄せて駆け寄ってくる。その表情は生徒を危険に晒した憤怒と、事態を収拾しようとする教師のそれだった。

「生徒を後ろへ! サンズイ、キザム!クノを連れて下がれ!」

ジャミは短剣を抜き放ち、必死の形相で刺客たちを牽制する。実習生という立場を超えた必死の守りだったが、その剣筋にはどこか余裕が見え隠れする。

ジャミは背後のキザムを一瞥することなく、刺客のウツロを鋭く睨みつけた。サカキが傍らに並び、教鞭を構えて結界を再構築する。二人の教員は、生徒たちを背に守るという完璧な「盾」の陣形を敷いていた。

「キザム、結界の内側へ退避しろ!」

サカキが厳しい口調で叱責する。その声は教師としての威厳に満ちており、生徒たちにはそれが「生徒を守るための叱咤」にしか聞こえない。だが、サカキとジャミの間で一瞬だけ視線が交差する。

「残りの生徒は俺が守る!」

サカキの怒号が響く。他の生徒たちが蜘蛛の子を散らすように結界の内側へ駆け込み、サンズイとクノもそれに続く……はずだった。

「……ッ!?」

先頭を走っていたキザムが、見えない壁に弾かれるように立ち止まる。

結界の膜に手を触れた瞬間、激しい放電のような衝撃が走り、キザムの体を冷たく突き放したのだ。サンズイも、クノも同様だった。彼らが結界の境界線に足を踏み入れようとするたび、まるで磁石の同極同士が反発するように、その領域だけが彼らを拒絶し、戦場の中央へ押し戻す。

「どういうことだ……!? キザム、結界に入れないのか!?」

サンズイが焦燥に駆られ、何度も境界を叩くが、弾かれる衝撃音だけが虚しく響く。

その様子を、数メートル先で短剣を構えるジャミが見ていた。

彼は背後の光景を一瞥すると、口元を三日月のように歪め、ニタァと笑った。

「おい、研修生! お前が何かしたのか!?」

サンズイの叫びに対し、ジャミは刺客のウツロと打ち合いながら、吐き捨てるように言い放つ。

「僕が!? 冗談を言わないでくれ! 僕は今、こいつの相手で手一杯だよ! ……ただ、この結界は先生が張ったものだ。先生に文句があるなら、生き残って直接聞くんだな!」

ジャミの言葉は荒っぽく、冷たく響いた。

今の彼にとって重要なのは、目の前の刺客を叩き斬ることだけだ。しかし、その突き放すような物言いは、結界から弾き出されたキザムたちにとって、自分たちを見捨てて戦いを優先している――と誤解させるのに十分だった。

「ふふ、なるほど。そういうことか」

ウツロが愉悦を深め、翠色の風を腕に収束させる。

「逃げ場なし、か。実に気の利いた『舞台』を作ってくれるねぇ」

ウツロの言葉に、ジャミは眉をひそめる。

ジャミは即座にウツロへと飛びかかり、生徒たちから刺客を引き離そうと必死に刃を振るう。しかし、その必死な剣閃さえも、今のキザムたちには「殺し合いの舞台に自分たちを釘付けにするための茶番」のように見えていた。

結界の境界線で弾かれ、行き場を失った三人。背後からは逃げ場を奪う障壁の放電音、目の前には死の風を纏った刺客たち。混乱を加速させる研修生の姿。

三人の周囲に、逃げ場はどこにもない。

ウツロが指先で風の刃を弾き、ドグマが地面を割るような咆哮を上げる。死の予感が、冷たい霧のように湖畔に満ちていた。

サンズイは木刀を握りしめる手を真っ白にさせ、迎撃の構えをとる。

対してクノは、泥と土の匂いを纏ったキザムの背中を、ただ見つめることしかできなかった。以前のキザムとは違う。死線を潜り抜け、痛みを焼き付けたその背中は、あまりに遠く、そして痛々しいほどに頼もしい。

迫り来るドグマの巨影を前に、キザムがクノを背に庇うように一歩前に出た。

「……クノ、離れるな」

その掠れた声が耳に届いた瞬間、クノの心臓が異常なほど激しく跳ねた。極限の殺気の中で、キザムの泥に塗れた腕の熱が、クノの肌に伝わる。

死への恐怖か、あるいはこの場に及んでなお、彼に触れていることに胸を締め付けられるような甘い痛みを感じているのか。クノは自分の高鳴る鼓動が、彼に悟られないよう息を潜めることしかできない。

夕闇が、戦場を深紅に塗り潰していく。

助けを求めた結界の内側は、あまりに遠く、冷たい。

剥離していく日常の中で、ただ一つ確かなのは――今、この場所で、彼らは世界の敵と相対しているという事実だけだった。


風が、鳴る。

この痛いほどの熱が、自分を狂わせていく。

殺戮の幕は、すでに上がっていた。

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