第5話 泥と酒と、書き順の狂騒曲
ある日の夕暮れ。湿地特有の、重くまとわりつくような霧が立ち込めていた。キザムが湿地の植物を煮込んだ質素な雑炊を、ノバラが酒の合間に無造作に口へ運んでいる。この重苦しい霧の中で、ただ二人だけが食事をしているという現実に、キザムは言いようのない気恥ずかしさと、かすかな温もりを覚えていた。
「……なぁ。家族って……母ちゃんって、こんな感じなのか?」
キザムの何気ない、しかし確信を突くような呟き。ノバラは酒瓶を煽る動作をピタリと止めた。彼女の鋭い眼差しが、ジロリとキザムを射抜く。
「……はぁ? あんた、いい度胸だね。自分より少しばかり年上だからって、アネキでもなく『母ちゃん』呼ばわりか。……随分と老け込ませてくれるじゃないか」
ノバラは冷笑を浮かべると、キザムの頭に容赦のない拳骨を叩き込んだ。
「痛っ! ……だって、飯食って、酒飲んで……こうして誰かといるのが妙に暖かくてさ。親父もお袋も物心つく前に死んじまったから、こういうのが家族ってやつなのかなって……」
ノバラは言葉を詰まらせた。先ほどまでの呆れ返ったような瞳から、ふっと嘲笑の光が消える。彼女は冷笑を浮かべ直すと、わざとらしく大きく息を吐いた。
「……親もいない孤独な身の上だってことか。道理で、妙に懐っこいわけだ」
ノバラは吐き捨てるように言い放ち、再び酒を煽る。
「いいかい、勘違いするな。これは共同生活なんかじゃない。あんたが私の言霊を継げるまで、ここで飼い殺すだけの……ただの監禁だ。二度とそんな『ガキみたいな甘え』を出すんじゃないよ」
突き放す言葉には、いつも通りの棘がある。しかし、その瞳の奥にある濁りの中に、キザムの孤独を知ってしまったことによる、微かな困惑と――自分を「母」ではなく「アネキ」として意識させたいという、年上女性特有の妙なプライドが垣間見えていた。
「……いつまでそこにいるつもりだい。湿気で髪が死ぬよ」
ノバラの声に、茂みからクノが飛び出してきた。クノは慣れた足取りでキザムに近づき、持参した小包を足元に置いた。干し肉と新鮮な果物。湿地の澱んだ空気の中では場違いなほど鮮やかな「外の世界」の品々。
「キザム……修行ばかりで、まともに食べてないんでしょう。……ここでの生活、私には分からないことばかりだけど、あんたの雰囲気が毎日ここに来るたびに変わっていく気がして、なんだか……落ち着かないの」
クノはノバラの様子を伺いつつ、遠慮がちに小声で続ける。
「ノバラ様、いつもキザムを指導してくださりありがとうございます。……でも、こうして二人でいるところを見ると、あんたの隣にいるキザムが、まるで私の知らない誰かみたいで。……どこか遠くへ消えてしまいそうで、すごく怖いの」
(どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう)
クノは自分でも理由のわからない焦燥感に戸惑っていた。ただキザムが心配なだけなのか。それとも、二人の距離感に割り込めないことが悔しいのか。その正体に気づかぬまま、彼女はノバラとキザムの空気に拒絶されたような寂しさを感じていた。
「……キザム、その肉を片付けたら修行だ。次は『風』。……少しでも手が震えたら、容赦なくその掌を冷やしてやるよ」
ノバラはクノの言葉を無視するように、キザムの肩を強引に引き寄せた。師匠としての冷徹な態度に、クノはそれ以上言葉を重ねることを諦める。二人の密室のような距離感と、自分よりもノバラの言葉を優先して動き出すキザムの背中。
「……また、明日来るね」
そう言って立ち去るクノの背中には、置いていかれる幼なじみの、未成熟で切実な想いが痛いほど混じっていた。
クノの姿が霧の向こうへ消えると、その場には再び、重苦しい湿地の静寂が戻った。キザムはしばらくの間、クノが去った方向をぼんやりと見つめていた。
「……なぁ、師匠。あいつ、最後なんであんな悲しそうな顔してたんだ?」
「……はぁ。あんた、本当に救いようのない鈍感だね」
「え? なんだよ、何か悪いことでもしたか?」
「……さぁね。他人の心なんて、言霊を綴るより余程ややこしいパズルだよ。そんなこと考えてる暇があるなら、自分の指先を磨きな」
ノバラは冷たく突き放す。キザムの疑問など端から興味がないとでも言うように。
しかし、ノバラが先ほどまでキザムの肩に置いていた手は、心なしかさっきよりも強く、彼を自分の世界へと引き寄せていた。クノが置いていった干し肉の小包は、二人にとっての日常の匂いを纏ったまま、泥の中で湿っぽく沈み始めている。
キザムはクノの表情の理由を考え続けることを諦め、自分の左掌へと視線を落とした。
「……『風』。一画目は重く、二画目で空気を裂け。……キザム、どうした。指が迷っているぞ」
ノバラの声が響く。キザムは震える右手の指を、泥で汚れた左の掌に押し当てた。だが、意識はどうしても霧の向こうへ消えていったクノの、あの悲しげな表情へと引き戻される。
(……あいつが言った『知らない誰か』って、どういう意味だ? 俺はただ、言霊を継ぎたいだけなのに……)
「キザム! 集中しろ。言霊は媒体だ。お前の内側にある、ドロドロした未熟な感情をそのまま垂れ流す場所じゃない!」
ノバラの指先が、キザムの震える右手を強引に上書きする。左の掌に刻まれた『風』の言霊がノバラの魔力を吸い、嫌な熱を帯びて発光する。その熱さにキザムは思わず息を呑んだ。
「……ッ!」
掌の皮が焼けるような痛みが走る。
「……迷いがあるなら書き直しな。最初からだ」
何度も繰り返される書き直し。ノバラの厳しい指導は、キザムが湿地外の世界へ意識を向けるたびに、より厳しく、より強引に彼の思考を縛り付けていった。キザムの左掌は、掌を焼く言霊の熱と摩擦で赤く腫れ上がり、皮膚の表面が薄く剥け始めている。
(……なんで、こんなにうまくいかないんだ)
キザムの指が、再びわずかに揺れた。その一瞬の澱みを、ノバラは見逃さなかった。
「――っ!?」
書き損じられた『風』の言霊が、左掌の上で制御を失って暴発する。キザムの身体を起点として、湿地の空気を無差別に攪拌し始めた。
突風が狭い湿地内で狂ったように渦巻く。跳ねた泥がキザムの頬を切り、近くの枯れ木がバキバキと音を立ててへし折れた。衝撃に耐えきれず、キザムは泥の中に尻餅をつく。
「……はぁ、はぁ……っ!」
突風が収まり、不気味な静寂が戻る。ノバラは跳ねた泥を顔で受けながらも、表情一つ変えず、冷ややかな視線をキザムに突き刺す。
「あんた、今何を見た。言霊の形か? それとも、外から持ち込まれた余計な情念か?」
「……っ、そんなんじゃ……!」
「嘘をつくな。指先に伝わる迷いが、言霊をただの凶器に変えたんだ。……さっきの小娘のことか」
ノバラは呆れたように肩をすくめると、キザムの目の前まで歩み寄る。彼女の瞳には、先ほどまでの「アネキ」のようなプライドの影は消え、冷徹な師匠の顔だけが浮かんでいた。
「あんたが湿地の外の空気を引きずって泥をかき回している間に、私はあんたのその鈍い指先をへし折っても良かったんだよ。……言霊に私情は禁物だと言ったはずだ」
「……ごめん。でも、あいつが……」
「言い訳は聞かないよ」
ノバラは冷たく言い放つと、泥を払うこともしないまま、背中を向けた。
「今日はもういい。……そんな心持ちで私のそばにいても、あんたを潰すだけだ。頭を冷やしてきな」
「師匠……」
「……二度言わせるな。少し一人になってきな」
ノバラはそれ以上何も言わず、湿地の霧の深淵へと歩み去っていく。残されたキザムの手元には、自分が暴発させた言霊の熱で赤く爛れ、泥に塗れた左掌だけが残っていた。
キザムはその背中を、ただぼんやりと見つめることしかできなかった。
空はすでに深く沈み、湿地の冷気がキザムの肌を刺す。自分の中に残り続ける「クノ」というノイズと、ノバラが求める「完成された言霊」の狭間で、キザムは痛む左掌を強く握りしめた。
このままノバラの言う通りに染まっていけば、いつかクノの顔さえも思い出せなくなるのだろうか。そんな予感が、キザムの胸を湿地よりも深く暗い絶望で満たしていく。
湿地の夜が、いっそう濃く、冷たくなろうとしていた。――長期休暇が開けるまで、この閉鎖された場所でキザムがどう自分を保つのか、それは誰にも分からないまま、時だけが過ぎていく。




