第4話 書き順の檻
霧の立ち込める湿地帯。昨夜の死闘が嘘のような静寂の中、キザムはノバラの目の前に座らされていた。
「さて、死にぞこない。その掌の忌々しい文字、一から叩き込んでやる」
ノバラが空いた酒瓶を放り捨てる。カラン、と乾いた音が湿地に響いた。彼女の腕に巻かれた黒い茨が、生き物のように微かに蠢いている。
キザムはきょとんとした表情を浮かべた。
「いやぁ、ノバラさん! 昨日はほんと助かったっす。」
キザムのあまりに危機感のない態度に、ノバラは深い溜息をついた。彼女はキザムの襟首を掴むと、そのまま自分の懐へと強引に引き寄せる。
鼻を突くのは、安酒の匂いと、湿った土、そしてどこか鼻をくすぐる毒花の香り。
キザムは至近距離で見る彼女の瞳に、吸い込まれそうな感覚を覚えた。泥に汚れた髪の間から覗く横顔は冷たく、それでいて異様なまでに美しい。
「……ノバラさん、だぁ? 随分と馴れ馴れしいねぇ」
「え? いや、だって……」
「あんたみたいな馬鹿に、その古ぼけた名前を気安く呼ばれる筋合いはないんだよ。今日からは、私のことを『師匠』と呼べ。……それが、あんたが生き延びるための唯一のルールだ」
ノバラの吐息が、キザムの頬にかかる。その距離の近さに、キザムは心臓が跳ね上がるのを止められない。しかしノバラの瞳には、異性への関心など微塵もなかった。彼女の眼差しは、ただ獲物を解体する獣のように冷徹で、そして何かを深く憎んでいるような、暗い濁りを湛えていた。
「し、師匠……?」
「そうだよ。……その掌にある『漢字』の正体も、使い方も、全部私が叩き込んでやる。それができないなら、今すぐその掌ごと切り落として、この湿地に沈めてやるからさ」
「……へい、師匠」
「……フン、最初からそう言えばいいものを」
ノバラは鼻を鳴らすと、キザムの顔面に鋭い拳を叩き込んだ。
ゴッ、と鈍い音が湿地に響く。
「いってぇぇ!! なにすんだよ師匠!」
「うるせぇ。……見せな、その掌」
キザムは鼻血を拭いながら、左手を差し出す。昨夜の曖昧な記憶を元に、適当に線を引いていく。
「たしか、こんな感じ……っと!」
最後の一画を叩き込んだ瞬間、掌の文字がグニャリと歪んだ。
ドォォン!
掌から火花が散り、キザムの顔が黒く汚れる。隣で見ていたノバラは、呆れたように目元を細めた。
「あんた、死にたいのか? さっきので掌が灰にならなかっただけ奇跡だね」
「いやー、爆発するなんて聞いてねぇよ!」
「誰がそんな順で書けと言った!」
ノバラはキザムの右手を強引に掴み取ると、彼自身の掌を指でガリガリとえぐるようになぞらせた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 師匠、なんで急に……。この間は『死ねばいい』とか言ってたのに、今日は随分と熱心じゃないか」
ノバラの手が止まる。
彼女はキザムに背を向け、湿地の冷たい霧の中に視線を投げた。彼女の二の腕で脈打つ茨が、夕闇の中で妖しく明滅している。
「……気まぐれさ」
短く吐き捨てた言葉には、一切の温もりがなかった。
「あんたが暴発して里ごと消し飛ぶのを、わざわざ見物する趣味はない。……それだけだよ」
それは彼女の本心ではなかったが、キザムが問いただす隙などなかった。彼女は再びキザムの掌に指を突き立てる。
「いいかい。書き順……これは『型』だよ。この国が『日本』と呼ばれていた頃、先人たちが命を削って編み出した呪いさ」
ノバラの指先が、キザムの皮膚をなぞるたび、焼けるような熱が全身を駆け巡る。
「文字はただの記号じゃない。言霊を『書き順』という名の檻で封じ込めたもの……それが漢字だ。正しい型でなぞり、その名を呼ぶことで初めて術式は開かれる。……美しく、淀みなく刻まれた文字ほど、言葉は世界を深く穿つ」
彼女は背後からキザムを抱き込むようにして、掌をなぞらせた。その吐息と茨の冷たさが肌を掠めるたび、キザムは激しい眩暈と高揚感に襲われる。
「さあ、もう一度。今度はその下手くそな書き癖を矯正しな。一画目から、丁寧に……美しく書け」
「……師匠、そんなに近くで見つめられたら、緊張して手が震えるって」
「震えればいいさ。その震えすら、文字の『歪み』としてあんたの身を焼き焦がすだけだからね」
ノバラは不敵に微笑む。その瞳の奥には、彼には理解できない深い呪いと、師としての冷徹な執着が混じり合っていた。
キザムは大きく息を吸い込み、意識を集中させる。先ほどまでの「なんとなく」ではなく、ノバラの指先が残した冷たい残像と、掌に刻まれた「道」をなぞることに全神経を注いだ。
――一画、左の点。
――二画、右の点。
――三画、左の払い。
キザムの指先が、最後に右へと滑る。
その瞬間。掌の『火』の文字が、淡く、透き通るような橙色の光を放った。
「……あれ」
爆発は起きなかった。代わりに、キザムの掌から溢れ出したのは、掌のひらに収まるほど小さな、しかし純度の高い火の玉だった。それは揺らめきながら、意志を持つかのようにキザムの指の間をすり抜けて消えていく。
キザムは呆然と自分の掌を見つめた。心臓の鼓動が、先ほどまでとは違う熱を持っている。
ノバラは、その小さな炎を見ていた。彼女の瞳から憎しみが消え、代わりに、あまりにも複雑な……慈しみとも、絶望とも取れる冷淡な光が宿る。彼女は掌をひらりと返し、キザムの淡い炎をかき消した。
「……随分と、筋のいい失敗だね」
「失敗? あんなに綺麗に出たのに?」
「出力が弱い。……あんたの命の燃やし方は、まだ足りないよ」
ノバラは突き放すように言って、再び酒瓶を煽った。だが、その背中はほんの少しだけ、以前よりも揺らぎが減っていた。
湿地の霧が、少しだけ晴れた。ノバラは空の酒瓶を地面に叩きつけ、腰帯から新しいものを引き抜くと、栓を抜いて喉に流し込んだ。琥珀色の液体が喉を伝う。その細い首筋の動きすら、この荒れた場所では不釣り合いなほど艶めかしく見えた。
「師匠、すげぇな……。火だけでもこんなに大変なのに、他にも漢字ってあるのか?」
キザムの問いに、ノバラは酒を含んだまま、冷ややかな視線を向けた。その瞳は、何かを嘲笑うかのように細められている。
「欲深だね、死にぞこない。……あるよ。あんたの掌一つで満足できるはずがないだろ」
彼女は泥の上に指でさらさらと、幾つかの線を引いた。
「『風』。……気まぐれで掴みどころがない。
『水』。……底なしで、全てを飲み込む。
『雷』。……一瞬で全てを焼き払う」
ノバラが指を動かすたび、その文字が地面の上で微かに明滅した。文字そのものが意志を持ち、蠢いているかのようだ。
「それらは世界中に散らばる『石碑』に刻まれている。だが、ただ見つければいいってもんじゃない。言霊には『所有権』があるのさ。所有者、あるいはその身内として認められた者しか、その言霊の力を引き出すことはできない」
「所有権……? じゃあ、俺が他の言霊を欲しがったら?」
ノバラはクツクツと喉を鳴らして笑った。それは、獲物を弄ぶような、底冷えするほど甘い笑みだった。
「簡単だよ。持ち主を殺せばいい。……所有者が死ねば、言霊の回路は切り離され、次にその文字をその身に宿した者に所有権が引き継がれる。あんたがもっと強くなりたきゃ、世界中の所有者を狩り歩くことだね」
「そんな……それじゃあ、殺し合いじゃないか」
「当たり前だろ。言霊とは、命を賭して引き出す呪いの言葉だよ」
ノバラは立ち上がり、キザムの顎を指先でクイと持ち上げた。冷たい指の感触と、酒と毒花の香りがキザムの感覚を麻痺させる。彼女の妖艶な瞳の奥には、残酷なまでの真実が宿っていた。
「……北の方角にある里には、そんな連中が集まっているよ。言霊を食らい、言霊に食い殺される亡者たちの集落さ。あんたみたいな青二才がのこのこ行けば、一瞬で漢字を取られて終わりだ」
「自分の火すら完璧に扱えない今のあんたを、外に放り出すわけにはいかないね。……いいかい、今日からあんたはここを出るまで、私の『飼い犬』になるんだ」
「飼い犬……? ってことは、住み込みかよ!」
「当然だ。私の視界から外れることを許可した覚えはない。あんたが一人前になって、その身の内に言霊を完全に飼い慣らすまで、この湿地から一歩も出すつもりはないよ」
彼女は満足そうに微笑むと、キザムの顎を突き放した。
「酒瓶の補充から、茨の養分となる泥の調達まで。……死ぬまで働いて、死ぬまで書け。さあ、甘ったれた顔はやめな。次は『風』の言霊について教えてやる。……私の酒が尽きるまで、休憩はお預けだ」
(ノバラは空になった酒瓶を足元に放り出すと、眉間に鋭い皺を寄せた。彼女の細い指が、二の腕に食い込む黒い茨を無意識に強く掻きむしる。一瞬、冷徹な仮面の下から、耐えがたい痛みに喘ぐ女の素顔が零れ落ちた――が、次の瞬間には、いつもの冷ややかな瞳へと戻っていた。)
湿地の風が、二人の間を通り抜ける。その風はどこか、遠い誰かの叫び声を含んでいるかのように冷たかった。キザムは、これから自分が足を踏み入れようとしている世界の深淵に、背筋を凍らせながらも、その師匠の背中を食い入るように見つめ続けた。
湿地の霧の中に、キザムの悲鳴とノバラの冷酷な罵倒だけが吸い込まれていく。
それは、世界を焼くための言霊を、ただの『道具』としてねじ伏せるための、あまりにも過激で、あまりにも尊い修行の始まりだった。




