第3話 冷徹なる指南
里の中心部、ひときわ高くそびえる豪邸の門を、キザムは悪びれもせず叩いた。
『サンズイ』。この里でも指折りの家系に生まれ、綴りの技において若くして天才と謳われる同級生だ。住む世界こそ違うが、彼ならこの理不尽なまでの不発の原因を知っているかもしれない――そんな気安さもあっての訪問だった。
重厚な門が開くと、手入れの行き届いた庭園で、サンズイは無表情に木刀を振っていた。左手で鋭く振るわれる木刀が、一振りごとに空気を裂く。
「……何だよ、キザム。学舎で顔を合わせるだけじゃ飽き足らず、わざわざ俺の屋敷まで足を運ぶとはな」
サンズイは木刀を収めることもなく、キザムに背を向けたまま淡々と言い放つ。その背中からは、修行を中断された苛立ちというよりは、キザムという異物が自分の平穏な領域に侵入してきたことへの冷ややかな困惑が漂っていた。
タオルで汗を拭い、ようやくこちらを向いた時、彼の表情には一切の乱れがなかった。整えられた髪に、静寂を湛えた瞳。その冷徹なまでの冷静さが、今のキザムにはひどく遠く感じられた。
「いやー、サンズイ。ちょっと相談があってさ。綴りを使おうとしてるんだけど、どうも上手くいかなくてよー」
キザムの軽い調子に、サンズイは小さく溜息をついた。また面倒なことに巻き込まれるという、彼らしい呆れたような諦念が混じっている。
「綴りのコツ、か。……まあいい。対価なんていらないし、少しは付き合ってやるよ。ただ、甘い考えは捨てろよ」
サンズイは冷めた瞳のまま、庭の石机を指差した。
「術の発動には、綴りの正確な配列が不可欠だ。……キザム、お前が使おうとしているそれを書いてみろ」
キザムは少し肩をすくめ、左手の掌を右指でなぞり始めた。薄く切った傷跡から滲み出る血を、丁寧になぞり『FIRE』を描く。
完璧な配列。描き上げた血文字からは微かな熱が立ち上るが、それ以上は何も起こらない。サンズイは眉をひそめ、冷徹な眼差しでその血文字を凝視した。
「……配列は合っているな。誤字もないし、形も整っている。おかしいな。術式としては完璧だ。何一つ間違っていない……なのに、なぜだ?」
サンズイは迷いなく自身の右掌を左指でなぞり、鮮やかな血で同じ「FIRE」を書き上げた。彼が描き終えた瞬間、その掌から力強い炎の奔流が立ち上り、周囲の空気が熱波で歪む。
「俺がやれば、この通りだ。キザム、もう一度やれ。今度はもっと深く……配列を叩き込むように」
キザムは再び掌の血をなぞり直す。先ほど以上に集中し、文字の形を一画ずつ、正確に、丹念に刻み込む。しかし、サンズイの目の前で仕上げたその血文字も、やはり何も反応を示さない。赤黒い跡が残るだけだった。
「……あー、やっぱりダメだ。配列は完璧なのになぁ。なんでサンズイのは成功して、俺のはダメなんだ?」
キザムが力なく肩を落とすと、サンズイは腕を組み、不思議そうにその血の文字を見つめた。天才である彼にとって、「失敗の理由がわからない」という状況自体が、どうやら許しがたい不快感のようだった。
「……解せんな。構造に欠陥はない。出力が足りないわけでもない。術の定石通りだ。……お前のその『綴り』、何かが根本的に噛み合っていないのか?」
サンズイは困ったような、それでいてどこか獲物を狙うような興味深げな瞳でキザムを見た。
「今日はこれまでだ。……何か『理屈じゃない理由』が隠れているのかもしれないな」
冷たく言い捨て、サンズイは屋敷の中へ消えていく。
サンズイの屋敷を後にしたキザムは、焦燥感を抱えたまま夜の路地を彷徨っていた。
「サンズイにも解らないなんてな……」
キザムが独り言を呟き、足を止めたその時、背後の闇から気配が近づいてきた。振り返ると、そこにはクノがいた。まるで偶然通りがかったかのように、しかし、その瞳は鋭くキザムの顔色を捉えている。
「……随分と暗い顔ね。サンズイのところで何か言われた?」
キザムが問い返すより先に、クノはふんと鼻を鳴らした。
「あの完璧主義の理屈が通用しないなら、あんたはもう、別のルートでやるしかないでしょ」
「別のルート?」
「あんたの不発は、術式以前に『術への入り方』が他の奴らとズレてるのよ。……ほら、あそこなら誰にも邪魔されない。サンズイにはない、あんただけの力のかけ方、探してみるよ」
キザムを連れ出されたのは、あの日、キザムが正体不明の男に襲撃された、里外れの砂丘だった。キザムはクノの補佐を受けながら、ひたすらに術式を綴った。サンズイの精密さとは違う、キザムの荒々しい魔力を、クノがリズムに乗せる。
「そう、今! ……やっぱり、あんたの魔力は綴るっていうより、内側から何かを叩き出そうとしてる感じがする」
クノの言葉に、キザムはふと閃く。自分の掌の中に眠る、あの熱い何か。
だが、その平穏は唐突に破られた。
砂丘の影から、見覚えのある男がひらりと姿を現した。あの時、キザムの火で負わされた無数の火傷の跡を顔と腕に刻み込んだ、神経質な男だ。
「やぁ。しぶといねぇ、掃除対象。……まだ生きてたんだ」
「……お前、またか!」
男は冷ややかに笑い、掌に鋭利な『WIND』の術式を渦巻かせた。
「その掌にある『火』。石碑の力を奪うには、その持ち主を殺して、力を引きずり出すのが一番手っ取り早くてね」
男が指を突き出す。風が真空の刃となって襲いかかる。クノが即座に反応し、『WALL』の術式を空間に展開する。正確に配列された文字の綴りが光の障壁となり、男の風を相殺するが、威力はあくまで弱く、男を押し返すには至らない。
「クノッ、下がってろ!」
キザムが前に出る。必死に掌へ『FIRE』の術式を刻み込み、整った綴りとして放つ。術式は発動すること無く無惨にも飛び散ってしまった。
「あはは! それが君の全力かい? 到底、その『漢字』を扱う器じゃないね」
男の嘲笑に、キザムは眉をひそめる。
「……カンジ? 何の話だ、それは」
キザムの困惑など意に介さず、男は余裕の笑みを浮かべて圧倒的な風の圧を放つ。クノが盾を張るが、力押しで吹き飛ばされ、彼女の腕に深い傷が走った。
「――っ!」
「クノッ!」
キザムが駆け寄ろうとするが、男は容赦なく追撃を繰り出す。キザムは必死に術式を連射するが、どれも正確に綴ってはいるものの、発動する事は無かった。
「大人しく殺されれば楽だよ。君が持ってるその力は、使い方を間違えれば世界を焼き尽くす……そんな無自覚な火種、僕らが管理してあげるからさ」
キザムは拳を握りしめ、掌の『FIRE』をなんとか形にしようとあがくが、極度の緊張と恐怖で呼吸さえままならない。敵はキザムの迷いと未熟さを見逃さず、心臓を狙って決定的な一撃を放った。
刹那――。
「……てめぇら、うるせぇんだよ」
冷え切った怒声が戦場に響いた。
黒い茨が、まるで大地から這い上がる毒蛇のように、キザムと男の間に分厚い壁として立ちふさがる。男が放った鋭い風の刃は、茨に触れた瞬間に粉々に砕け散った。
霧の中から、酒瓶を放り捨てたノバラが歩いてくる。その表情は、冷酷な殺意に塗りつぶされていた。
「ノバラさん……!」
「……下がってろ、ガキ。その掌の『漢字』、アンタみたいな馬鹿が適当に暴発させたら、この子もろとも里ごと消し飛ぶんだよ」
ノバラはキザムを背後に突き飛ばすと、右腕の茨を鞭のようにしならせた。
「……何者か知らねぇが、そのガキが持ってる『漢字』は、アンタらが一番触っちゃいけねぇ禁忌だ。そんな危なっかしいモノに命賭けるなんて、どいつもこいつも頭が湧いてやがる」
ノバラが一歩踏み出すだけで、周囲の砂が茨の呪力で黒く濁る。
「――消え失せろ」
ノバラの茨が、男の四肢を正確に絡め取り、地面へと叩きつける。圧倒的。サンズイの「美しさ」とは対極にある、凄惨で理不尽なまでの「強さ」。
男が悲鳴を上げて逃げ去った後、静寂が戻る。キザムは荒い息を吐きながら、自分の掌に残る赤黒い『火』の痕跡をぼんやりと見つめていた。
サンズイの屋敷で見た、あの完璧な炎の奔流。
そして今、ノバラが目の前で振るった、理屈など微塵も感じさせない漆黒の茨。
(……サンズイの術式は、誰がどう見ても完璧だった)
配列も、魔力の練度も、美しさも。教科書に載せるべき至高の術式だった。
だが、今、ノバラの背中を見て、キザムははっきりと理解してしまった。
「……完璧主義の理屈とは、違うな」
キザムは自嘲気味に、ポツリと呟いた。
サンズイの術式は、平和な教室で映える『芸術』だ。だが、この荒野で、死の淵で、世界を滅ぼすような力と対峙する時、サンズイの理屈など砂粒ほども役に立たない。
「おい、何を見惚れてやがる」
不機嫌そうな声に、キザムが顔を上げると、酒瓶を捨てたノバラが冷ややかな視線を向けていた。二の腕の茨が激しく明滅し、彼女の顔色は先ほどよりさらに悪い。
「……アンタ、本当に手間のかかるガキだな」
ノバラはキザムの掌を無理やり掴むと、火傷の痕を吐き捨てるように睨みつけた。
「……こんな出どころの知れねぇ力を抱えて、厄介な連中に狙われるなんてな。これじゃあ、遠からずアンタが死ぬ前に、その『漢字』で世界が跡形もなく消し飛ぶわ」
ノバラの瞳の奥に、隠しきれない焦燥と、かすかな苛立ちが混ざる。
「……チッ。仕方ねぇな。このまま放置して、私まで巻き添えにされるのは御免だ」
彼女はキザムの襟首を掴み、呆れ果てた声で吐き捨てた。
「明日から死ぬ気でその文字の扱いを叩き込んでやる。世界を焼く前に、その『漢字』の熱を私の茨で無理やりねじ伏せてやるからよ」
「……ありがとう」
「……勘違いすんな。死なない程度に、文字の『書き方』を教えてやるだけだ。……それとそこの子、アンタも立ち聞きしてんだろ。明日からはこのガキの馬鹿なところを、たっぷり冷やかしに来な」
闇の中からクノが、ホッとしたような、それでいて少し複雑そうな顔で姿を現した。
星明かりの下、砂丘には奇妙な「師弟」の影が重なっていた。




