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第2話 日ノ本(ヒノモト)の火種

刻まれた文字は、今も掌の中で脈打っている。

先ほど石塊に触れた際、鋭利な岩肌で切り裂かれた掌からは、鮮血が流れていた。

無数の真空の刃が迫る中、キザムは恐怖のあまり拳を握りしめ、泥の中で必死にもがく。

(死ぬ……! 何でもいい、何でもいいから!)

荒く握りしめた拳の中で、流れた血が掌の溝を伝う。

傷口から溢れた赤は、まるで導かれるように焼印の紋様をなぞり、掌の上で『火』の形を縁取っていく。

あまりに無意識に、あまりに偶然に。

刻印が完全に血で満たされたその瞬間、掌が焼け付くような熱を帯びた。

男は冷酷な笑みを浮かべ、指を突き出したままだ。真空の刃が、キザムの身体を切り裂こうと加速する。

「終わりだ」

死の恐怖を振り払うため、キザムは男に向かって真っ直ぐに顔を上げ、喉の底から叫びを絞り出した。

「俺は……俺はここで死ねない! 俺は、ヒノモトのキザムだ――ッ!!」

その瞬間、頭の中に『火』という文字が鮮烈に焼き付く感覚があった。

叫びの中に込められた『ヒ』の響きが、血で濡れた掌の刻印と重なり、回路を繋ぐ。

――ドォォォォォォンッ!!

叫びと同時に、血で満たされた掌から、黄金の奔流が爆発的に弾け飛んだ。

それは男の放った真空の刃を、風すらも焼き尽くす圧倒的な熱量となって荒野を塗り替える。

直撃を受けた男は、その暴威に抗う術もなく、断末魔の叫びも上げられないまま遥か彼方へと吹き飛ばされていった。

荒野に静寂が戻る。

キザムは自分の左掌を見つめた。そこには、赤く焼き切れたような『火』の字が、脈打つように残っている。

「……何、だ……これ……」

燃え上がるような高揚感は、一瞬にして冷たい虚脱感へと塗り替えられた。

身体中の力が根こそぎ抜けていくような感覚。

キザムは炎の残滓が揺らめく中、糸が切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

砂丘に顔を伏せ、キザムの意識は急速に闇の中へと沈んでいった。


暗転。

意識が浮上する。瞼の裏に焼き付いた黄金色の残像が、ゆっくりと消えていく。

鼻孔をくすぐる、微かな薬草の匂い。硬い砂の上ではなく、柔らかい毛布に包まれていることに気づく。視界がぼやける中、目の前にいくつか重なった人影が見えた。

「……よかった、やっと目を覚ました」

耳元で聞こえたのは、安堵に震えるクノの声だ。

キザムがふらりと意識を戻すと、クノが両手でキザムの左手を握りしめているのがわかった。彼女の華奢な肩には、明らかに自分を背負って運んできた際についたであろう泥と砂がこびりついている。

「クノ……?」

掠れた声で名前を呼ぶと、クノの背後にいた大人たちが、雪崩を打つように顔を寄せた。

心配そうな表情を浮かべるクノの両親。そして、その奥からこの里の古薬師こくすりしが、眼鏡の奥の鋭い眼光でキザムの左掌を凝視している。

「ほう、生きているか。大火傷どころの騒ぎじゃねえ……」

キザムは自分の左掌に目をやった。包帯が巻かれているが、先ほどまで掌に刻まれていたはずの『火』の文字は、影も形もなく消え失せている。そこにはただ、少し赤らんだ火傷の痕だけがあった。

「あの『石塊』の力かと思ったが、何一つ残っていないとはな」

古薬師の呟きに、クノの両親が顔を見合わせる。

キザムは包帯の上から、依然として残る奇妙な「熱さ」を握りしめた。文字は消えた。だが、あの時の叫びと奔流の感覚だけは、今も魂の奥底で消えずに熱を持っている。

「キザム、あんた……一体何をしたの?」

クノの問いかけに、答えられるはずもなかった。

あの荒野で何が起きたのか。消えた文字は、一体どこへ行ってしまったのか。

キザムはただ、震える左手を握りしめ、言葉を探すことしかできなかった。

その沈黙を破ったのは、古薬師の重々しい声だった。

「……娘さん。すまないが、キザムを預からせてくれ」

古薬師はキザムの目を真っ直ぐに見据えた。

「里の西、外れの湿地帯にある『古びた建物』へ行け。あそこには、あの文字の『意味』を知るノバラと云う者が住んでいる。お前のその『火傷』の正体……あの女なら、喜んで教えてくれるだろうよ」

湿地帯の霧を抜け、キザムは辿り着いた。

木造の古びた建物。入り口の看板には、歪な筆致で『古代文字研究所』と書かれていた。キザムにはそれが何と読めるのかすら分からない。

扉を叩いても、返事はない。不気味なほどの静寂。キザムは意を決し、軋む扉をそっと押し開けた。

「……誰か、いませんか?」

内部は古文書と酒の匂いが混ざり合った、独特の空気に満ちていた。

奥へ進むと、そこには無数の空き瓶に囲まれて眠る影があった。

30代後半と思しき女は、昼間だというのにひどく無防備に古文書の山に突っ伏している。薄着の衣ははだけ、露わになった肢体には、まるで呪いのように禍々しい黒い茨が二の腕とふくらはぎに巻きついていた。その艶めかしい曲線とは裏腹に、寝息にはあからさまな二日酔いの気配が混ざっている。

キザムは呆然と立ち尽くした。これが、古薬師の言っていた者なのか。

「……あの、すみません」

キザムが近づいて肩を揺らそうとした時、女がピクリと反応した。

瞳は閉じたまま、女はとろんとした声で寝言を零す。

「……んー……もう一本……持ってきなさいよ……。文字なんて、酔ってなきゃ読めたもんじゃないわ……」

キザムは自分の左手に残る熱を思い出した。だが、その時だった。女の二の腕に巻きついた黒い茨が、キザムの接近を察知したかのように、まるで生き物のように禍々しく脈動した。

女は薄目を開け、焦点の定まらない瞳でキザムを見上げる。妖艶だが、どこか濁った瞳。

「あら……。なんだ、死にぞこないのガキか。随分と、熱を纏ってきたわね」

女は気だるげに腰を上げ、酒瓶を放り捨てた。その動作一つ一つが蠱惑的だが、彼女の視線はキザム自身ではなく、その左手に執拗に注がれている。

「……私の研究所は、暇人の遊び場じゃないわよ。……それとも何? あんたもその『火種』を、私に燃え移らせたいわけ?」

キザムは包帯を解き始めた。

「……古薬師さんに言われたんだ。この火傷の正体を知る者がいると。教えてくれ、コレがなんなのかを……!」

包帯が解かれ、晒された左掌。そこに赤くただれた火傷の痕だけがあるはずだったが、キザムがその掌を彼女に向けた瞬間、摩擦と熱に呼応するように、消えていたはずの『火』の文字が、浮かび上がるように皮膚を焼き直して出現したのだ。

それを見た瞬間、ノバラの表情が劇的に変貌した。

寝ぼけていた瞳からは妖艶さが消え、代わりに凍りつくような拒絶と、深い嫌悪が浮かび上がる。彼女は机を蹴倒して後ずさり、二の腕の茨をかばうように強く抱き締めた。

「――っ! ……出ていけ!」

ノバラの二の腕とふくらはぎに巻きつく黒い茨が、キザムの掌から放たれる熱に反応して激しく蠢く。彼女の表情は、怒りや恐怖を超えて、ただひたすらにその文字を拒絶する者の硬質な決意に満ちていた。

「今すぐその掌を隠して、ここから消えな! 二度と私の前にその忌々しい文字を晒すんじゃないよ!」

鬼気迫る叫びに、キザムは息を呑む。さっきまでの妖艶さは影を潜め、そこには何かに取り憑かれたような、理解しがたい強固な拒絶があった。

「教えてくれだと? ……片腹痛いね。その文字はね、生半可な覚悟で纏うようなシロモノじゃないの」

ノバラは自分の茨が巻きつく腕を震わせ、キザムを追い払うように激しく手を振った。

「帰んな! 今すぐ里へ帰りな! あんたのような未熟なガキに割く時間も、教えてやる義理も、私には一切ないんだよ!」

彼女は周囲の古文書を投げつけてキザムを追い立てる。

「……あーあ、最悪。せっかく静かに暮らしてたのに。こんなものを持ち込むなつーの……。あの古薬師の老いぼれ、なんてものを寄越すの……」

彼女の拒絶は、文字を知る者ゆえの、言葉にできない深い「何か」に対する強い意志に根ざしていた。

「――二度と私の前にその面を見せないで。これ以上ここに居座るなら、その右足を茨で縛り上げて、湿地の泥人形にしてあげるわ。……わかったらさっさと失せな!」

ノバラの茨が威嚇するように空間を歪め、キザムは物理的に押し出された。閉ざされた扉の向こうで、彼女の荒い呼吸と、自分を保とうとして零す震える声が聞こえる。

「……あーあ、酒が不味くなったわね。全部消えちゃえばいいのよ、そんな文字なんて……」

凍える夜の湿地帯に取り残されたキザムは、閉ざされた扉を見つめた。

何なんだ、あの女は。出会った瞬間に人格が入れ替わったかのような豹変ぶり。左手の熱は依然として燻っているが、それ以上に、扉の向こうに潜む彼女の異常性が記憶に焼き付いて離れない。

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