第1話 砂丘の焼印
ここは、はるか昔に「日本」と呼ばれた島国、日ノ本。
かつての海は干上がり、200近くあった国々は、今やわずか5つに集約されていた。
この世界において、「術」とはアルファベットを高速で綴る現代呪式『Spell』を指す。
蛇口をひねるように、灯りを点すように、誰もが日常的にスペルを綴り、利便を享受する。それは衣食住と変わらぬ、当たり前の「日常」だった。
忍術学校に通う少年・キザムは、ごくありふれたスペルの綴りすら覚えられない、誰もが呆れるクラスの問題児だ。
――みんなは器用にやってるけど、俺にはどうも肌に合わないらしい。
校舎裏の広場は、年に一度の『術式運用能力試験』の熱気に包まれていた。
「次、サンズイ。『水生成』だ。記述開始」
教師が短く告げると、サンズイが涼しげな足取りで前へ出た。彼が空中に指を走らせる速度は、他の生徒とは次元が違った。
『W・A・T・E・R』
刹那、彼の掌からあふれ出したのは、宝石のように輝く清らかな水流だった。その水は重力に逆らうように美しい輪を描き、周囲の空気を涼やかに潤す。
「すごっ……! 水の純度、高すぎじゃない?」
「さすがサンズイ! 完璧な綴り……!」
生徒たちの黄色い歓声と、教師の満足げな頷きが交差する。
「素晴らしい。完璧な術式だ。基礎の『水』を、ここまで芸術的な魔力構成に昇華させるとは」
称賛に包まれる広場の中、サンズイは涼しい顔で列に戻る。そして、教師の冷淡な声が、次なるターゲットを呼び止めた。
「次、キザム。お前だ。……『水生成』だ。記述開始」
周囲の華やかな余韻が、一気に凍りつく。キザムは皆の視線が集中する中央へ、堂々と歩み出た。
頭の中では『W・A・T・E・R』の綴りが回っている。指先が宙をなぞる速度だけは、サンズイにも負けていない。
W……A……T……E……。
最後の一文字、Rと書くべきところを、勢い余って派手な『A』を描いてしまった。
『W・A・T・E・A』――術式構成の誤認。
「――ッ!」
完成したはずの術式が、空間を裂くような不快な破裂音を立てて弾け飛ぶ。本来なら清らかな水が溢れるはずの掌から、どろりとした濁流が噴出し、キザムの全身を容赦なく黒く染め上げた。
「またか、キザム。こんな簡単なスペルも覚えられないのか」
教師の冷ややかな宣告に、周囲からクスクスという嘲笑が漏れる。
しかし、キザムは顔面に付着した泥を指でぬぐうと、少し苦笑いしながら肩をすくめた。
「わりぃわりぃ。最後、また力んじまったみたいだ」
「……試験はここまでだ」
重々しい鐘の音が校舎に響き渡り、教師が淡々と告げる。
「本学期の授業は終了だ。明日からは長期休暇に入る。各々、次学期に向けてしっかりと準備しておくこと」
教師が足早に去っていくと、生徒たちも口々に夏休みの予定を話しながら散っていく。広場には、泥だらけのまま座り込むキザムだけが残された。
と、視界にハンカチが放り投げられる。
顔を上げると、幼なじみのクノが、呆れた顔で腰に手を当てて立っていた。
「……はいよ。顔、ひどいことになってる」
「おっ、サンキュークノ! いやー、見たかよ? 今の暴発、威力だけはサンズイに負けてなかっただろ!」
キザムが明るく笑ってそれを受け取ると、クノはわざとらしく視線を逸らし、小さく溜息をついた。
「……はぁ。あんたってば、ホント学習しないよね。威力があったところで、術として成立してなきゃ意味ないでしょ。休みだからって油断してると、一生そのままだよ。少しはマジメにやってくれないと、こっちまで付き合わされる身にもなってよ」
突き放すようでありながら、幼い頃からずっと傍らにいた彼女だからこその「腐れ縁の情」が滲む。
キザムは受け取ったハンカチで顔を拭い、クシャリと笑った。
「へへ、善処するよ。……まあ、俺なりのやり方ってやつを、もう少し探してみるよ」
クノの小言を背中で聞き流しながら、キザムは立ち上がった。二人は並んで、学校の門をくぐる。家までの道筋は同じだ。
夕暮れに染まる帰り道、クノの家の前を通りかかると、ちょうど庭先でクノの父親が野菜の世話をしていた。
「お、キザムか。今日も学校で何かやらかした顔してるな」
クノの父親が、笑いながら立派な大根を一本差し出してくる。
「おう、おっちゃん! すまん、また暴発させちまってさ」
「はは、懲りないねえ。ほら、これ持ってけ。栄養つけねえと術も組めねえぞ」
「……お父さん、甘やかしすぎ」とクノが呆れた声を出す横から、今度は家の中から母親がひょっこりと顔を出した。
「あら、キザムちゃん。ちょうど今夜は多めに煮物作ったのよ。寄っていきなさい。一人で寂しく食べるんでしょ?」
「いいのかおばちゃん! ……じゃあ、遠慮なく食わせてくれ!」
クノは「……アンタ、図々しい」と呆れ顔を見せつつも、キザムの背中を家の中へと促す。
キザムにとって、この家は自分の家よりもずっと「温かい場所」だった。両親を早くに亡くし、古びた一軒家で一人暮らしをしているキザムにとって、クノの両親の優しさは、唯一自分を子供として扱ってくれる場所なのだ。
賑やかな食卓を囲みながら、キザムはふと考える。
――また、明日からもこの繰り返しだ。
周囲がスペルという理屈で世界を固める中、自分だけが取り残されているような日々。けれど、この温かい食卓が、キザムの日常をなんとか支えていた。
翌朝、キザムは誰にも告げず、里の外れに広がる広大な砂丘へと足を踏み入れた。
ここは管理外の不毛な地。キザムは誰の目も気にせず、自分の有り余る魔力を制御する練習に打ち込んでいた。
砂丘の尾根に立った時、ふいに背後からひょろりとした、高い声が響いた。
「いやぁ、こんな砂だらけの場所に、まさか先客がいらっしゃるとはねぇ」
振り返ると、里の者とは明らかに違う装束を纏った男が立っていた。細身で、いかにも神経質そうな男だ。
「あんた、どこの里の奴だ。こんなところで何やってる」
男はキザムを値踏みするように細め、ヒヒッと薄ら笑いを漏らした。
「教える義理なんてないでしょ? ま、僕らは『石碑』を探してるだけさ。君みたいな……そう、いわゆる『場違いな子』に構ってる時間はないんだけどねぇ」
「石碑? あいにくだが、俺はただの通りすがりだ。……で、目的がそれだけならさっさと失せな。ここは俺の修行場だ」
男はキザムの不遜な態度に、やれやれと大げさに肩をすくめた。
「やだなぁ、そんなに尖らなくたって。……まあいいや。君が『石碑』を持ってないなら、僕にとってはただの『掃除対象』だ。任務だから仕方ないよねぇ?」
次の瞬間、男が指を軽く振るう。『wind』
ヒュン、と風を切り裂く鋭い音。直後、キザムの足元にあった砂が、まるで巨大な刃物で削り取られたかのように爆散した。
「――っ、ひっ!?」
情けない声が喉から出た。反射的に横へ跳んだが、着地は不格好に砂を掘り、顔から地面に突っ込む。
里の演習場で受けてきた、安全なルールの上で交わされる訓練とは訳が違う。殺意を持って放たれる術は、容赦なく肉を狙ってくる。
「あーあ、避けんなよ。めんどくせえなぁ。さっさと片付けて、次のポイントへ行かないと、上司に嫌味を言われちゃうんだよねぇ」
男は空中で優雅に旋回しながら、次々と真空の刃を放ってくる。
キザムは立ち上がる暇すら与えられない。右に、左に、必死になって砂の上を転がり、駆け回る。
(速い……! どこへ逃げても追ってくる!)
頬を刃が掠め、熱い血が滴った。痛みを噛みしめながら、キザムはただひたすら砂丘を走った。逃げ場のない荒野で、男の放つ風が耳元でヒュンヒュンと唸りを上げる。
「逃げ回るのがそんなに楽しい? あはは、いいねぇ、その必死な顔!」
男は作業のように、淡々と追い詰める。
男が指を高く掲げ、今度こそ心臓を射抜かんとする鋭い刃を形成する。
キザムは逃げ場を失い、砂の上で立ち尽くした。
「おっと、そこは行き止まりだよ。……さようなら」
男が指を振り下ろした瞬間、生成された真空の刃がキザムの胸を容赦なく直撃した。
「――がっ!」
硬い衝撃が突き抜ける。キザムの身体は凧のように空を舞い、数十メートル先まで弾き飛ばされた。
逃げ場などなかった。砂の上を無様に転がる最中、キザムの左腕は防衛本能で前に突き出されたまま、地面に埋もれていた硬い何かに激しく打ち付けられた。
砂が舞い上がり、静寂が訪れる。
視界が酷く揺れる中、キザムは砂まみれの顔を上げた。左手に走る焼けつくような痛み。見れば、左掌は地面に埋もれた石の塊に深く押し付けられていた。
「しぶといねぇ。でも、これで最後だよ」
空中から冷淡に見下ろす男の指先で、今までとは比較にならないほどの高密度の風が編まれていく。
キザムは激痛に顔を歪めながら、左手を引き抜こうとした。だが、掌はまるで吸い付いたようにその石塊から離れない。
その時、掌を通して、石塊に刻まれた未知の「何か」が、キザムの腕を伝い、体内へと逆流してきた。
「――っ、何だ、これ……!」
ズンッ、と大地が低く唸る。
己の中にあったものと石塊の力が混ざり合い、キザムの掌から奔流となって弾け出す。その衝撃で、掌には石塊に刻まれていた古代文字が、まるで焼印のように赤く、深く刻み込まれた。
砂が激しく弾け飛び、地中から巨大な石塊がその全貌を現した。
荒い息を吐きながら、キザムは自分の掌に浮かび上がった光る「跡」と、目の前の石塊を交互に見つめる。




