第59話 過去の傷痕、新たな進路
アメルイーストの中枢――その高くそびえる軍事施設は、もはや人の気配すらしない完全なもぬけの殻となっていた。
つい先ほどまでそこで猛威を振るっていた者たちの影はすでになく、ただ冷たい風だけが吹き抜けている。
黒い外套を纏った男たちは、この地に見切りをつけ、すでに冷徹に次なる標的――「日ノ本」へと狙いを定めて動き出していた。
そんな施設の片隅、頑丈な鉄格子の向こう側。
激しい麻痺毒の後遺症と深い絶望に囚われたミケは、暗い監獄の中に横たわっていた。
意識の戻らないミケをそこに収容したのはキザムたちだ。生き残っていたアメルイーストのわずかな住民に看守を任せると、彼らは日ノ本へ向けて急ぎ足でその場を去っていった。誰も顧みる者のない監獄で、ミケはただ冷たい石の床に静かに眠っている。
ところ変わって、日ノ本にあるサンズイの屋敷。
青空を縫うようにして一羽の伝書鳩が飛来し、庭木へと降り立った。
その足にくくりつけられた小さな手紙を回収したトウコは、書かれた文字に目を通し、息を呑む。
そこには、ミナストリアの研究施設の崩壊と、黒幕の正体が人体実験の被験者であるという残酷な真実が記されていた。
屋敷の一室。重く沈んだ空気の中で、チユが拳を強く握りしめ、堪えきれないといった様子で声を荒げた。
「弟子達があんな風に命がけで頑張っているのに……いつまでも過去のトラウマから抜け出せずにいるなんて、何やってんだよアタシらは!」
チユの瞳には、苛立ちと、それ以上に深い焦燥と恐怖が渦巻いていた。
クノの顔が脳裏に浮かぶ。可愛い妹分が、あんな危険な戦場に身を投じ、傷ついている。これ以上、あの少女が危険に晒されるところなんて見たくなかった。
「今すぐにあたしたちも手伝いに行こう! クノを、みんなを助けに行くんだよ!!」
そう叫ぶチユの横で、少女の様なか弱き姿のナナシとトウコは、ただじっと床を見つめたまま俯いていた。
かつて誘拐された上、人体実験の糧にされそうになった深い傷と恐怖が、その足を重く縛り付けている。悪夢のような記憶から、二人はまだ抜け出せずにいた。
そんな仲間たちの姿を見て、チユは胸を抉られるような思いで、真っ直ぐに言い放った。
「ノバラ様を失った時に、待ってるだけで何もしなかったことを後悔したでしょ……! アタシはもう、あんな思いしたくない!!」
その言葉が、部屋の空気を一変させた。
「ノバラ様」という名前、そしてあの時何もできなかった無力感と絶望の記憶が、ナナシとトウコの中心を激しく撃ち抜く。
ハッ、と息を呑んだナナシの肩が震え、トウコがゆっくりと顔を上げた。
二人の瞳に宿っていた恐怖の濁りが、後悔という痛みを経て、熱い決意の色へと変わっていく。
止まっていた時間が、再び動き出した。
一方その頃。
アメルイーストでの戦いを終え、日ノ本へ向けて険しい山道を急ぐキザムたちの足取りには、激闘の疲労と緊迫感が色濃く残っていた。
木々が鬱蒼と生い茂る山中。
先頭を歩いていたジャミがふと足を止め、鋭く周囲に視線を巡らせる。
「……待て。気配がする」
ジャミの警告に、キザムやサンズイが瞬時に身構えた。
次の瞬間、頭上の樹冠から、重苦しい圧力とともに一つの影が音もなく舞い降りる。
「――よくここまでたどり着いたねぇ、小僧ども」
低くハスキーな、しかし包容力と凄みのある声が響いた。
そこに立っていたのは、全身がフサフサとした濃い毛並みに覆われ、頭部には鋭い狼の耳と野性味溢れる相貌を持つ、姉御肌な雰囲気の狼獣人――『狼』の古代文字を左外腿に宿した女、ウルティだった。
さらに、その背後からガサリと草木を揺らし、不気味な気配を放つ別の影が姿を現す。
それは漆黒の毛並みと歪な筋肉を持ち、二足歩行の人型でありながらも、知性を感じさせず、狂暴にヨダレを垂らす『犬』の古代文字を宿した怪物たちだった。ウルティの絶対的な命令だけに忠実に従う、出来損ないの成れの果てである。
「アタシの可愛い子犬ども(リオン、ミケ)の邪魔をした代償……ここで骨の髄まで払ってもらうよ」
ウルティが不敵に牙を剥き、日ノ本へと急ぐキザムたちの進路を完全に塞いだ。




