第50話 駆け抜けた果ての誓い、動き出す過去の影
冷たい夜風を切り裂きながら、クノはただひた走っていた。
キザムに逢いたい。逢って、自分の胸にずっと燻っているこの想いを伝えたい。
応えなんて要らない。ただ、自分の本当の気持ちを彼に届けられればそれでいい――。
足がどうなろうと構わない。視界の端で、サンズイの屋敷から続く景色がめまぐるしく後方へと流れていく。
忍術学校の横を抜け、見慣れたクノ自身の家の前を過ぎ、そしてかつてキザムと他愛のない会話を交わしたキザムの家の前を通り過ぎる。そのまま足を緩めず、目的地である鬱蒼とした木々に囲まれた湿地帯の小道へと突入していく。
風景が目まぐるしく変わりゆく中、クノの胸にあるのはただ一人の若者――キザムの姿だけだった。
湿地帯の深い木立を抜けたその先で――ふと、前方からキザムが書物の束を持って走ってくる姿が見えた。
「キザムーッ!」
クノは大きく両手を振りながら、その名前を叫んでキザムの元へと駆け寄った。
突然の声に、キザムは足を止める。まさかこんな場所にクノがいるとは思っていなかったのだろう、目を見開いて硬直したが、すぐに彼女の姿を確認すると、応えるように駆け出した。
「クノ……! なんで、こんなところに……?」
目の前でピタリと足を止めたキザムに、クノは激しく上下する息を整えながら、必死に言葉を紡ぐ。
「どうしても……どうしても、伝えなきゃって……思ったから……!」
その真剣な瞳を見たキザムは、ハッとしたように息を呑み、そして苦しげに目を伏せた。
「……ごめん」
予想もしていなかった謝罪の言葉に、クノは驚きの表情を浮かべる。
「俺さ……今まで、この汚れた手で、荒みきった心で、どんな顔してクノに会えばいいのか分からなくて……怖かった。でも、逢いたかった。こうして、クノの無事な姿を自分の目で確認したかったんだ」
震える声でそう告げると、キザムは耐えきれなくなったように、目の前の少女を強く引き寄せた。
「っ……!」
突然の温もりに、クノはカァッと両頬を真っ赤に染めるが、その腕を拒むことなど出来なかった。むしろ、彼の背中にそっと手を回し、その震えを受け止めるようにしがみつく。
「キザム……。聞いてほしいことがあるの……。私、ずっと前からキザムが好き……。この命がいつまであるか分からない……だから、後悔したくなくて……!」
あふれそうな想いをすべて吐き出すクノを、キザムはさらに優しく、壊れ物を扱うようにしっかりと抱きしめ返した。
「俺もだ、クノ……。……この戦争が終わったら、一緒に暮らそう」
その言葉に、クノの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女はただ何度も首を縦に振り、嬉し涙を流しながらその胸に顔を埋めた。
やがて落ち着きを取り戻した二人は、繋いだ手をしっかりと握り締め、サンズイの屋敷へと並んで歩き出すのだった。
サンズイの屋敷の縁側に到着した二人の姿を見るなり、客間に控えていたサンズイとトウコは、その晴れやかな表情と繋がった手から、すべてを察したようにふっと笑みを浮かべた。
「おや、えらくスッキリした顔して帰ってきたやないか。どうやら無事に上手くいったみたいやねぇ」
トウコにからかわれ、クノは再び顔を真っ赤にして俯く。キザムは少し照れくさそうに頭を掻きながら、自分が【古代文字研究所】へ行ってノバラの資料を見つけてきたことなどを説明し始めた。
「――それで、師匠の研究所に行って……そこで資料を見つけて、色々と考え直して帰る途中で、クノと出会って……」
一通り話し終えたキザムに、トウコは腕を組み、ふと深刻そうな――いや、どこか面白がるような表情を浮かべて言った。
「ふぅん……。情報はええけど、キザムはん、今のセリフ……ちょっと危なかったんと違うか?」
「え? 何がだよ」
「ウチの故郷・西国に古くから伝わる言い伝えでな、『戦争が終わったら一緒に暮らそう』なんて言うたら、十中八九あかんことになるという、恐ろしい死の予兆というのがありましてな……」
飄々と語るトウコに、キザムは目を丸くする。
「えっ、マジか!? 俺、そんなつもりじゃ……!」
「まぁ、冗談や。でも、そうならんように、死なんようになんとしても生き残りなはれや」
クスリと笑うトウコに、キザムは冷や汗を拭う。すると、傍らで聞いていたサンズイが、スッと表情を引き締めて話を本筋へと戻した。
「まぁ、その話は一旦置いといてだ……キザム、【古代文字研究所】でなにを掴んできたのだ?」
サンズイの視線の先には、キザムがしっかりと抱えて持ち帰ってきたノバラの研究資料があった。
「あぁ……これなんだけど」
キザムはサンズイの屋敷の客間の机に、例のページを広げた。
覗き込んだサンズイの目が、わずかに見開かれる。
「コレは……。【ミナストリア】で行われていた、【古代文字の人体実験】の記録だと……!?」
その言葉が客間に響いた瞬間――。
傍らにいたトウコは激しく息を詰まらせ、スッと血の気が引いた顔のまま、その場に崩れ落ちた。
「いや……嫌や……っ、はぁ、はぁっ……!」
急激な過呼吸に襲われ、トウコは両手で胸元を押さえながら、呼吸困難のあまりガタガタと全身を震わせる。言葉にならない荒い息が、喉の奥から切なく漏れ出るばかりだった。
「トウコさん……っ! しっかりして!」
異変に気づいたクノがすぐさま駆け寄り、苦しそうにもがくトウコを支えて床に寝かせた。
「はぁ、はぁっ……息が……っ、できへん……っ……!」
「トウコさん、深く息を吸って……! 大丈夫、私がついてるから……っ!」
治癒部隊として修羅場をくぐり抜けてきたクノは、一瞬で事態を把握すると、冷静にトウコの背中に手を当て、呼吸を整えるための応急的な治癒を集中させる。しかし、あまりの精神的ショックからか、トウコの過呼吸と動悸はなかなか収まらない。
「くそっ、俺がこんな資料を持ち込んだばっかりに……!」
キザムが歯噛みする中、サンズイは苦渋に満ちた表情で立ち上がった。
「キザム、落ち着け! すぐに仲間を呼ぶ……!」
サンズイが急いで屋敷の外へ飛び出すと、ほどなくして、非番を終えて付近を通りかかっていたナナシと、救護部隊としての任務を終えて里に戻っていたチユの二人が、ただ事ではない気配を察して駆けつけてきた。
「どうしたの、こんな大声出して……って、トウコっ!?」
事情を察したチユが、クノと交代するように素早くトウコに寄り添い、その胸元に両手をかざして特殊な鎮静の治癒術を施す。ナナシは周囲の警戒を固めつつも、床に横たわるトウコの姿が視界に入ると、思わずぎゅっと目を固く閉じ、痛ましげにスッと顔を背けた。その記憶の蓋を無理やりこじ開けられるような拒絶の色が、ナナシの表情を険しく歪ませる。
チユの懸命な処置の甲斐あって、トウコの激しい過呼吸はようやく静まり、浅い呼吸を繰り返しながら昏睡状態へと落ちていった。
「……よかった、峠は越えたみたい」
額に汗を浮かべたチユが安堵の息をもらすと、クノは震えるトウコの手を優しく握り締めながら、絞り出すように言った。
「ありがとう、チユ、ナナシ……。どうしてトウコさんがここまで……」
その問いに、チユは静かに目を伏せ、痛ましげに唇を噛みしめた。その表情には、同じ痛みを深く知る者としての暗い影が落とされている。
傍らで、ナナシは痛々しく目を伏せ、ぐっと小さく俯いたまま、その言葉の続きを聞くまいとするように固く口を引き結んでいた。
「……アタシたちは、みんな同じ傷を抱えているわ。トウコも、アタシも、ナナシも……かつてあの忌まわしい連続子供誘拐事件に巻き込まれ、遠くミナストリアの地で、まさにその『人体実験』の犠牲になりかけた……。だからこそ、あの文字を見るだけで、当時の恐怖がフラッシュバックしてしまったのよ……」
「ミナストリアの……人体実験の犠牲に、トウコも……?」
チユの静かで重い口調から語られたあまりに過酷な真実に、クノもキザムも息を呑み、言葉を失うのだった。




