第49話 薔薇の導き、駆け抜ける恋心
日ノ本の里の奥、鬱蒼と茂る木々に囲まれた湿地帯の一角に、その建物はひっそりと佇んでいた。【古代文字研究所】。
ノバラが世を去ってから、ここを管理する者は誰もいない。かつてはサンズイやクノと共に訪れ、あーだこーだと言い合いながら書物の整理や清掃をした場所だが、キザムがこの足を踏み入れるのは、戦争が始まって以来、実に久しぶりだった。
重い木製の出入口には無数の蜘蛛の巣が張り巡らされ、室内もすっかり埃っぽくなっている。
「……師匠、ただいま。今回の任務も、無事遂行してきたよ」
キザムは、かつてノバラが好んで座っていた机の前に歩み寄り、静かに両手を合わせた。その表情には、日々の戦火ですり減った疲労と、拭えぬ孤独の色が滲んでいる。
「サンズイも、クノも……お陰様で、なんとか元気にやってるよ。……まあ、俺のせいで色々心配かけちまってるけどさ」
ノバラが遺した膨大な資料は、かつてサンズイやクノと一緒にアルファベット順に美しく整理した書物棚に、行儀よく並べられている。
「そういや、『古代文字』について、師匠もゴンベエ師匠も使い方や成り立ちは厳しく教えてくれたけど……。他に、どんな文字が世界に存在しているかなんて、一度もまともに調べたことがなかったな」
呟きながら、キザムは書物棚から一冊の古い資料を引き抜き、パラパラとページをめくった。
だが――。
何気なく落とした視線の先で、キザムの手がピタリと止まる。
「……っ!?」
驚愕に、キザムの目が見開かれた。
そのページに記されていたのは、かつてノバラが命を懸けて解決に導いた、あの連続子供誘拐事件の際に行われていた『人体実験』に関する詳細な記録だった。
「人体実験……。まさか、そんな馬鹿な……」
背筋に冷たいものが走る。その事実から目を逸らすようにふと顔を上げたキザムは、部屋の隅に目をやって息を呑んだ。
そこには、ノバラが生前大切に育てていた、あの棘のある植物が植えられていた。そして、いつの間に咲いたのか、薄暗い室内にあって異彩を放つほどに、鮮烈な赤い花をつけている。
「この花って……師匠の大好きだった、『薔薇』の花……。いつの間に、こんなところで咲いてたんだよ」
研究所の埃っぽい空気とは無縁のように、気高く、そしてどこか優しく咲き誇る深紅の花。キザムはそっとその花に歩み寄り、膝をついた。
花びらの向こう側に、まるで今そこにノバラが立っているかのような、温かくも厳しい気配を感じる。荒んだ心に、師の幻影がそっと重なった。
「師匠……。俺、これからどうしたらいいんだろう……」
キザムは目の前の『薔薇』に語りかける。
傷つき、汚れた手で人を殺め、自分の心まで黒い炎で焼き焦がしていた。「俺の手はもう二度と綺麗にならない」と絶望し、大切なクノにすら顔を向けられなかった臆病な自分。
だが、その鮮やかな赤を見つめていると、かつて師が背中で語ってくれた教えが、冷え切った胸の奥にじわりと染み渡ってくる。
――刃に、想いを重ねて戦う。
思い出すのは、あの日の言葉だ。
今の自分の刃に宿っているのは、護るための意志ではない。ただ生き残るためだけの執念であり、怯えと怒りに狂った醜い暴力だ。それは師の教えとはあまりにも遠い、ただの破滅への道だった。
ハッと、キザムの中で何かが音を立てて崩れ、そして生まれ変わった。
自分の現在地がどこにあるのか、自分がどれほど愚かな道に迷い込んでいたのかが、痛いほどによく分かった。
「……っ!」
キザムは力強く顔を上げると、潤んだ瞳で真っ直ぐに『薔薇』を見つめた。その表情から迷いが消え、代わりに強い決意の光が灯る。
「師匠! 俺、間違ってた……! 自分の弱さと怖さに負けて、師匠に教わった大事な道からすっかり外れてたよ……! 気付かせてくれて、ありがとう……師匠……!」
『薔薇』の花が、まるで教え子の成長を穏やかに認めるかのように、一瞬だけ柔らかく揺れた気がした。
キザムは深々と一礼すると、ノバラの残した重要な資料をしっかりと胸に抱き締め、再び走り出すようにして【古代文字研究所】を飛び出した。
その頃――。
日ノ本の里にあるサンズイの屋敷には、激務が続く救護部隊の合間を縫って、ようやく非番の許しを得て一時帰還を命じられたクノの姿があった。
「済まないな、クノ。さっきまでキザムもここに顔を出していたんだが……どうやら何か手掛かりを探しに、【古代文字研究所】へ向かった後でね」
サンズイが申し訳なさそうに告げると、クノは驚いたように目をパチクリとさせた。
「そうなの……」
傍らで温かいお茶の準備をしていたトウコが、クノの緊張をほぐすように柔らかく声をかける。
「クノはん、ここではもう気ぃ使わんでええんやで。そんな硬くならんと、もっと肩の力抜きなはれ」
「あっ……ううん、大丈夫……。大丈夫だから……」
クノは気丈に微笑んでみせるが、その手は目の前にある湯のみを痛いくらいにギュッと両手で握りしめたまま、震えていた。
「まさか、お前がタイミング悪く入れ違いになるとは思っていなかったからな。もう少しここで引き止めておけばよかったな」とサンズイが苦笑する。
「ううん……キザムだって、きっと何か理由があって動いてるんだし……」
そう言いつつも、クノの瞳には切なさと、会えなかった寂しさが湖面のように揺れていた。3年という過酷な歳月は、彼女を少女から、深く人を愛することを知る大人の女性へと変えていた。戦火の中でいつ命が散るか分からないからこそ、募る想いは日増しに重く、切実さを増している。
その様子をじっと見つめていたトウコが、ふっと表情を引き締め、ガツンと力強い口調で言った。
「なにボケッとしてるんよ、クノはん!」
「えっ……?」
「今からでも遅くはないわ。すぐそこにキザムはんが居るんやない、その足で【古代文字研究所】にいきなはれ! ……行って、アンタのその胸の内に溜まってる本当の気持ち、ぜんぶキザムはんにぶつけてきぃや!」
トウコのエールに、クノはハッと息を呑んだ。
そうだ――。
いつ帰らぬ人になるか分からないからこそ、自分の気持ちを伝えずに後悔したくない。それは分かっていたはずなのに、いつも一歩引いて「無事でいて」と願うだけで、本当の想いから逃げていたのは自分の方だ。
あの時、ちゃんと想いをぶつけていればよかったと、取り返しのつかない後悔を抱くことだけは絶対に嫌だ。
胸の奥で燻っていた恐怖が、キザムを失いたくないという強い切なさと結びつき、一気に熱い覚悟へと変わる。
「サンズイ、トウコさん……っ、ありがとう!」
クノは深い感謝の言葉を残すと、椅子から飛び出し、キザムの待つ【古代文字研究所】へ向かって一直線に走り出した。
冷たい夜風が頬を打つのも気にならない。
今度こそ、ただの「無事でいて」の言葉の先へ。この戦火の中で懸命に生きる彼の背中に、自分の全てを懸けた想いを届けるために――。




