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第45話 気高き赤い薔薇 4

冷え切ったダクトの中を、二人は音もなく進んでいく。

先頭を這うようにして進むノバラの耳に、ふと、微かだが紛れもない子供の泣き声が届いた。

息をのんだノバラは、声の発信源である通気口の格子へと慎重ににじり寄り、その隙間から下を覗き込んだ。

「……っ」

広大な実験室のような部屋には、何人もの子供たちが冷たい床に無造作に並ばされている。その先頭では、冷酷な目を光らせた白衣の男が、子供たちの腕に怪しげな液体が入った注射器を次々と突き立てていた。

周囲には屈強な見張りの男たちが立ちふさがり、子供たちが逃げ出さないよう目を光らせている。

注射を打たれた子供たちは、痙攣しながらバタバタと床に倒れ込んでいった。

「……ダメだ。また、適合する者はいないな。……次!」

白衣の男が吐き捨てるように冷たく言い放つ。

その非人道的な光景を目の当たりにした瞬間、ノバラの中で理性のタガが音を立てて弾け飛んだ。潜入のルールも、状況の冷静な分析も、怒りの炎にかき消されていく。

いてもたってもいられなくなったノバラは、通気口の格子を蹴破り、迷うことなく真下の部屋へと飛び降りた。

「やれやれ……。頭に血が上ると、前しか見えなくなる女だな」

ガジュマルは小さく呆れたように息をつくと、音もなくその後に続いた。

「なっ、何者だ!」

白衣の男の叫び声が響く。

「答える義理はないね……ッ!」

床に着地した勢いのまま、ノバラは肉薄する見張りの男たちへ矢継ぎ早に跳び蹴りと手刀を叩き込んだ。

無駄のない、しかし怒りに満ちた一撃一撃が、屈強な男たちを次々と昏倒させていく。その後方では、ガジュマルが抜き放った青龍刀を鮮やかに振ルい、隙を突こうとした残りの見張りを一瞬で薙ぎ払った。二人の圧倒的な連携の前には、見張りたちは瞬く間に全滅した。

残されたのは、白衣の男一人となった。

恐怖に顔を引きつらせる男の前で、子供たちは巻き込まれないよう、慌てて部屋の隅へと這いずり逃れていく。

その一角に、恐怖に震えながら身を寄せ合う3人の女児がいた。

恐怖で縮こまる彼女たちの前に、ノバラがサッと歩み寄り、優しく、しかし力強い声で包み込む。

「もう大丈夫だ。アタシがついてる、絶対に守ってやる!」

その凛とした横顔と、揺るぎない強さを宿した瞳を見た瞬間、3人の少女たちの胸にあった恐怖がスルスルと消えていく。

――これほどまでに美しく、そして頼もしい女性が、この世にいるだろうか。

絶望の淵にあったナナシ、トウコ、チユの三人は、このとき幼い心にノバラという絶対的な光を焼き付けられた。それはいつか彼女たちの運命を大きく動かす、最初の一歩でもあった。

その様子を、数歩離れた物陰の暗がりから、じっと見つめる少年がいた。

蛇のように細く鋭い目が、静かに暗闇の中で光っている。その少年は誰にも気づかれることなく、ただ息を潜めてその光景を見つめていた。

「さて、残るはお前一人という訳だが……ここで、一体何を企んでいた?」

ガジュマルが青龍刀の切先を向けながら、白衣の男にゆっくりと詰め寄る。

追い詰められた男は狂気を帯びた笑みを浮かべると、背後の壁に取り付けられた禍々しい赤いレバーを、狂ったように力任せに引き下げた。

ゴゴゴゴゴ……ッ!

地鳴りのような重い音を立てて、部屋の奥にあった分厚い鉄の扉がゆっくりと上昇していく。

その暗黒の扉の奥から現れたのは、もはや人間とは呼べない、異形の巨体を持つ化け物だった。その醜く膨れ上がった巨体の腹部には、無残にも『象』の文字が焼き付けられている。

「ははは! 見ろ、ワシの最高傑作よ! あの侵入者どもを跡形もなく排除せよ!」

白衣の男が勝ち誇ったように命じる。

しかし、化け物は男の言葉に反応を示さなかった。虚ろな目を据えたまま、ただ不気味な足取りで男の方へとゆっくりと歩み寄っていく。

「なっ、おい、何を……っ!」

化け物の腕が、音もなく振り下ろされた。

次の瞬間、圧倒的な腕力に捉えられた白衣の男は、まるで完熟したトマトのように一瞬で握り潰され、血飛沫とともに床へと崩れ落ちた。

「ガッ……ぐぁ……」

断末魔の叫びすら上げる暇もなかった。

化け物は、凄まじい殺気を纏ったまま、今度はノバラたちの方へと標的を定め、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。

ノバラの後ろには、怯える3人の少女たちがいる。

ガジュマルは迷うことなくスッと一歩前に踏み出し、ノバラと子供たちを背後へと庇うようにして構えを取った。

「ケテ……タス……ケテ……」

巨体の化け物は、掠れた、しかし確かに人間のものだった声を絞り出す。

その言葉に、少女の一人がはっと息を呑んだ。

「あっ……あの化け物、この間……ここに連れてこられて、実験をされた子と同じだ……あの子と同じケガをしてる……!」

その言葉を聞いた瞬間、ノバラの頭の中ですべての点が線で繋がった。

――人体実験。

連れ去られた子供たちに無理やり『古代文字』の力を肉体に刻み込み、その凄まじい負荷と拒絶反応の成れの果てを研究していたのだ。

許しがたい外道所業に、ノバラの美しい眉間が深く、深く歪み、殺意に満ちた怒りの皺が刻まれる。

「……残念だが、もう元の人間には戻れねぇ。手の施しようがないな」

ガジュマルが低く、覚悟を決めた声音で呟く。

「ノバラ、子供たち……俺がいいと言うまで、しっかり目を瞑っていろ!」

ノバラは頷き、背後の3人の少女たちの目を優しく手で覆った。

ガジュマルが踏み込み、一閃。

迷いを断ち切った一太刀が、人体実験の悲惨な成れの果てを両断する。音もなく、巨体の化け物はサラサラと黒い砂のように崩れ去り、虚空へと消えていった。

ガジュマルにとっても、決して気分のいいものではなかった。しかし、大人の男としての、そして人としての責任を彼は全うしたのだった。

静寂が戻った実験室に、突如として黒衣の忍衆が影のように現れた。

先頭に立つ忍頭が、静かに一礼する。

「この度の働き、ご苦労だった。一部始終を外で見させてもらった。……ノバラ、ゴンベエの二人の罪を免除し、正式に釈放するよう、里長に直々に報告させてもらう。それと……この施設に関してだが、秘密裏にすべての設備を灰燼に帰すため、まもなく爆破の起爆が作動する。急いでここから脱出するがいい」

そう言い残すと、忍頭は風のように姿を消した。

「何を偉そうに……! 言いたいことだけ言っていきやがって!」

悪態をつくノバラだったが、ガジュマルが鋭く促す。

「文句は後にしろ! 施設が爆破されるぞ、子供たちを連れて急いでここから脱出する!」

ノバラは動揺する3人の少女たちのうち2人を両腕に抱き上げ、もう1人をガジュマルが抱え、崩れ始める通路へと走り出した。

その背後、崩落する実験室の暗がりから、ひとりの少年が静かに立ち上がっていた。

先ほどまで物陰に身を潜めていたため、ノバラたちの視界には入らなかった「蛇のような細い目の少年」だ。

彼は瓦礫に足を阻まれ、一歩が出なかった。

「ボクも……」

少年の小さな声は、轟音を立てて崩れ落ちる爆発音にかき消された。

彼は、その場に一人取り残されてしまったのだった――。

背後で次々と起爆する爆薬が建物を飲み込み、猛烈な爆風と崩壊が二人を追いかけてくる。

「ちょっとは足並み揃えられねぇのかよ!」

ガジュマルが叫びながら瓦礫を飛び越える。

崩壊と爆発の嵐を間一髪で抜け出し、ノバラたちはどうにか施設の外部へと脱出した。

荒い息を整えながら、ガジュマルが問う。

「……で、これからどうするんだ?」

「ゴンベエの元に戻るよ。……それから、落ち着いたら……アンタの里にあるっていう『古代文字』を見に行ってもいいか?」

「あぁ……。いつ来ても、俺が待ってるさ」

救い出した3人の少女たちのうち、2人は家族の元へと送り届けることにした。しかし、残りの1人は両親もすでに他界し、帰るべき家を失っていた。

その身寄りのない境遇を深く不かつぎに感じたノバラは、かつて自分がゴンベエに拾われたように、その少女を連れて自身の寺へと帰ることにした。

残る2人の少女は、ガジュマルが責任を持ってそれぞれの故郷へと送り届けていく。

別れ際、ノバラは少女を背負い、振り返って笑った。

「それじゃあ、またな、ガジュマル!」

ガジュマルは少女たちを優しく抱き上げながら、力強く頷く。

「あぁ!」

こうして日ノ本へと戻ったノバラは、里長へこれまでの経緯を正式に報告した。

里長は二人の無実を認め、投獄の非を深く詫びた。そして、連続子供誘拐事件を根本から解決へと導いたその絶大な功績を称え、ノバラに『日ノ本最強のくノ一』という、比類なき誉れの称号を授けたのだった。


『日ノ本最強のくノ一』。

その誉れ高き称号の裏で、彼女が背負ったものはあまりにも大きく、そして熱かった。

理不尽な運命に抗い、孤独な闇を切り裂いて手に入れた「光」。

だがその光の届かない場所で、静かに牙を研ぎ澄ます「影」もまた、確かに生まれ落ちていた。

救うべき命を抱きしめ、それぞれの未来へと歩み出す者たちと、

絶望の底で消えない刻印をその身に宿した者たち。

交錯する運命の歯車は、まだ誰も知らない明日へと、静かに、そして確実に回り始めていく。

――気高き赤き薔薇が残した軌跡は、やがて世界を揺るがす嵐の、鮮烈な序章に過ぎなかった。

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