第42話 気高き赤い薔薇 1
凍てつくような北風が木々を揺らす季節から、少しだけ空気が緩み始めた名も無き村の端――静まり返った小さな寺。
縁側に腰掛けたノバラは、手持ち無沙汰に一本の木刀を弄んでいた。もう何度目になるかも分からないため息が、白く淀んで空へ消えていく。
「……いつになったら帰ってくるんだよ、バカヒョウゲツ」
口をついて出たのは、いつもの悪態だ。
旅に出たきり、音沙汰もなく姿を消したヒョウゲツを待ち続けて、気づけば彼女は19歳になっていた。胸の奥に燻る焦燥と、どこか期待してしまう幼さが入り混じり、ノバラの機嫌は常に少しだけ尖っていた。
「いつまでも、この寺におることもあるまい」
背後からかけられた低く野太い声に、ノバラはビクリと肩を揺らす。振り返れば、師であるゴンベエが腕を組んでどっしりと立っていた。その瞳には、ヒョウゲツが帰らぬ現実と、それに囚われ続ける弟子への複雑な憂いが静かに宿っている。
「……なんだよ、ゴンベエ。そんなにアタシを追い出したいのか?」
「馬鹿モン。お前がいつまでも過去の影を追いかけて腐っておるのが見苦しいと言っとるのだ」
憎まれ口を叩き返すノバラだが、ゴンベエの本心がどこにあるのかは痛いほど分かっていた。この頑固な師もまた、ヒョウゲツの身を案じ、そしてノバラの不器用な恋心を心配してくれているのだと。
ノバラに与えられたチカラは、あまりにも特別だった。
ゴンベエによる過酷な修行の末に会得した『古代文字』の五大属性――『風遁、水遁、土遁、雷遁、木遁』のすべてを自在に操り、さらには生まれながらにして己の血肉に『薔薇』の呪印を宿すという天賦の才。
だが、彼女はその強大な力を、決して鼻にかけたりはしなかった。
時には村の子供達に突っかかられて「んだよ!」と眉を吊り上げながらも、裏では『木遁』の術で崩れかけた橋を瞬く間に補修してやり、笑顔で駆け寄ってくる子供たちには、手すさびに生み出した見事な『薔薇』の華をひょいと手渡してやる。
ぶっきらぼうだが面倒見の良いその生き様は、いつしかこの村に暮らす者たちの日常に溶け込み、誰もがノバラを深く慕っていた。そんな穏やかな日々に、彼女自身も居心地の悪さを覚えていなかった。
――だが、平穏の糸は、あまりにもあっけなく断ち切られた。
その日の昼下がり、日ノ本の里の方角から、風に乗るように不穏な噂が流れ込んできた。
『近隣の里で、連続子供誘拐が起きている。なにやら「古代文字」が深く関わっている様だ……』
「『古代文字』……?」
その単語が出た瞬間、寺の空気が凍りついた。
強大な力を持ち、里の管理下から外れて暮らす者にとって、その言葉はそのまま「疑念」の免罪符となる。噂はあっという間に形を変え、名も無き村に住むノバラとゴンベエにすべての嫌疑が向けられるのは、そう時間はかからなかった。
村人たちは「あいつらがそんな真似をするはずがない!」と必死に無実を訴えてくれた。だが、権力者たちの耳にその声が届くことはない。
ある日の夕暮れ、突如として寺の周囲が日ノ本の里長直轄護衛部隊の黒い影に包まれた。
「動くな! ノバラ、ゴンベエ、お前たちを連続子供誘拐の容疑で拘束する!」
「ふざけんな!! アタシらがそんなことするわけないだろ!」
喚き散らすノバラの腕を、部隊の屈強な男たちが容赦なく拘束し、術式の縛鎖を打ち込む。ゴンベエは無言のまま静かに目を閉じ、その処遇を受け入れた。抵抗すれば、この村ごと焼き払われると察しての判断だった。
日ノ本の里へと連行された二人は、冷たい石造りの尋問室へと放り込まれた。
幾重もの結界が張られた部屋で、冷徹な取調官が次々と詰問を浴びせてくる。
「シラを切る気か。お前たちの持つ古代文字の術こそが、今回の事件の要件に合致している」
「だから、何も知らないって言ってるだろ! 目を皿のようにしてよく見やがれ、アタシらのどこにそんな暇があるってんだ!」
赤く爛々とした目を剥き出しにして怒鳴り散らすノバラに対し、ゴンベエは別室の冷たい独房の中で、腕を組んだまま静かに壁にもたれていた。
やがて、里長が下した非情な裁定が告げられる。当時の里長は、感情を排したガチガチの合理主義者だった。
『証拠不十分だが、嫌疑は拭えない。よって、両名を無期限の独房投獄とする』
牢の格子越しに、ゴンベエは低い声でノバラを諭した。
「……騒ぐな、ノバラよ。ワシらがここに囚われている間に、真犯人が外で尻尾を出すかもしれん。事件が再び起これば、自ずとワシらの無実は証明され、釈放されるはずじゃ。それまでじっと待つ」
師の冷静な言葉に、ゴンベエの思惑を理解しながらも、ノバラの胸中は怒りと焦燥で煮えくり返っていた。
冷たい鉄格子の向こう、暗い天井を睨みつけながら、ノバラは唇を噛み締めて吐き捨てる。
「ふざけんな……!
……事件を待っていたら、また無関係な子供が一人、二人と殺されるかもしれないんだぞ……っ!」
誰もいない暗闇に向かって叫ぶその声には、理不尽な運命に対する怒りと、目の前の命を守れぬもどかしさが、痛いほどに滲んでいた。




