第40話 砕けた偽りと、灯る煌炎
「キザムっ――!」
クノの悲鳴が、凍てついた謁見の間にむなしく響き渡る。
クノが弾かれたようにキザムの許へと駆け寄るが、強烈な一撃に上の段の壁へと打ち付けられていたキザムの体は、力なく脱力したまま、見上げるほどの高さから階下の冷たい石床へと、ぐらりと傾ぐようにして転がり落ちた。
腹部を深く貫いた漆黒の茨からはおびただしい血が流れ出し、鮮血の赤が純白の雪と石畳を痛々しく染め上げていく。キザムは完全に意識を失い、ピクリとも動かない。
「キザムっ……キザムー!」
震える手でクノが高速治癒ヒールの淡い光を幾重にも浴びせかける。だが、傷口が塞がろうともキザムの呼吸は戻らず、彼の意識の灯火は暗闇の底へと沈んだまま浮上してこない。
焦りと絶望がクノの体力を猛烈な勢いで削り取っていく。
「どうして……どうしてなの……!」
クノの瞳から大粒の涙がポロポロと零れ落ち、キザムの胸元を濡らした。それでも「治さなきゃ」という一心で、クノは必死にヒールを重ね続ける。
その横で、サンズイは一瞬だけキザムの方へ視線を走らせたが、すぐに血走った目をヒョウゲツへと戻した。これ以上仲間を傷つけさせないため、満身創痍の体で単騎、再びその前に立ち塞がる。
「……これ以上、好き勝手はさせない!」
サンズイはボロボロに裂けた服のまま、限界を超えた『結合リンク』の青い輝きを全身にみなぎらせた。愛用の木刀を中段に構え、己のすべてを乗せた渾身の連撃をヒョウゲツへと叩き込む。
風を切り裂く神速の連続突き、死角を狙う変幻自在の軌道。満身創痍でありながら、その一撃一撃には仲間を守るための確固たる意志と、剣士としての誇りが燃え盛っていた。
だが、ヒョウゲツは冷徹な眼差しのまま、ただ悠然と腕を組む――いや、片手すら抜かない。
「無駄だ。小細工をいくら重ねようとも、雑魚の足掻きに価値はない」
ヒョウゲツがわずかに肩を揺らしたその瞬間、圧倒的な質量を誇る漆黒の茨の群れが、見えないほどの神速でサンズイへと炸裂した。
ドォンッ!!
激しい衝撃波が謁見の間の天井を揺らし、サンズイの放った渾身の剣技を木端微塵に粉砕する。防ぎきれなかった余波がサンズイを直撃し、彼の体は弾き飛ばされるように宙を舞った。
ズザァァァッと、サンズイはクノのすぐ傍の床へと激しく滑り込んできた。全身が血まみれとなり、木刀を手にしたまま気絶するように昏倒する。
「たった一人で挑んでくるなんて、無謀もいいとこだな。残るはお前一人だ」
ヒョウゲツが、冷酷な足取りで静かにクノへと近づいてくる。逃げ場のない絶望の重圧が、謁見の間を支配した。
(ノバラ様……助けて……)
恐怖に震えるクノの脳裏に、かつてノバラから告げられた言葉が鮮やかに蘇る。
「さあな。試してみればいい。あのガキなら、あんたのその心尽くしの治癒に、素直に従うだろうよ。……そうすれば、あんたの治癒はもっと力を持つ。傷を癒やすだけでなく、相手の魂の芯までをあんたの毒で塗りつぶし、まるごと包み込むことができるようになる」
ノバラ様に教わった『癒しの奥義』――使うなら、今しかない。
クノは涙に濡れた顔をぐっと上げると、その瞳に静かな覚悟の光を宿した。ふわりと髪を揺らしながら、クノは倒れているキザムの顔へとそっと歩み寄り、その唇に自身のそれを重ね合わせた。
それは、一生涯にただ一度だけ、心から愛する者を救うために己の全てを捧げる禁忌の術――『癒しの奥義』としての口づけ。
瞬間、キザムの体が太陽のように眩い神秘の光に包み込まれた。
たちまち腹部の恐ろしい傷口が完全に塞がり、閉ざされていたキザムの瞼が、ゆっくりと重たげに開く。
「クノ……?」
何が起きたのか理解できず、虚ろな声を漏らすキザム。その首に、安心と歓喜で堰を切ったクノがたまらず泣きつきながら、力いっぱい抱きついた。
ふと、キザムが正気を取り戻して隣に目をやると、そこには血塗れで動かなくなったサンズイの姿があった。
「……ヒョウゲツ……!」
怒りのあまり、キザムは己の左手に自らの手で『炎』の古代文字を強く叩き込むように綴り付ける。だが、今のキザムの怒りは理性を焦がし、文字は清らかな煌炎ではなく、禍々しい漆黒の業火へと変貌して左手に纏わりついた。消えることのない呪縛のような炎が、キザムの肉体を内側から容赦なく蝕んでいく。
そのままキザムは狂乱の獣のごとく、ヒョウゲツの懐へと飛び出した。
「ウオオオッ――!!」
魂の底から絞り出すような獣の雄叫びとともに、地獄の業火が解き放たれる。左、右と凄まじい勢いで拳を繰り出すたびに、キザムの両手に業火が爆ぜる。
ヒョウゲツに確かなダメージを与えているものの、その代償としてキザム自身の肉体もまた、自らの黒い炎によって激しく焼き裂かれていく。
「なに……アレ……?」
クノは目の前で繰り広げられる異様な光景に息を呑んだ。それは彼女の知らないチカラ。己の生命力を削り、自分自身を焼き焦がしながら繰り出す破滅の拳だった。
しかし、ボーッとしている暇はない。クノはすぐさま這うようにサンズイの許へ寄り、高速治癒ヒールを全開で施して無理やり意識を浮上させると、既に限界を迎えたふらつく足取りで再びキザムの背中へと歩み寄った。
キザムの底知れぬ怒りに呼応し、黒い炎はさらに肥大化していく。
その拳の一撃一撃は尋常ではない重さを持ち、ヒョウゲツが両腕で強固に防御しても、その防御の上から凄まじい衝撃で砕かれていく。
ゴンッ! バキャッ!
圧倒的な暴力の連打に、ついにあの冷酷無比なヒョウゲツがガクンと両膝をついた。
「ハァ、ハァ……!」
トドメを刺そうと、さらに黒い炎を燃え上がらせるキザム。その背中に、クノが後ろから必死にしがみついた。
「キザム……もう止めて……! お願いだから……!」
クノの腕の中で、キザムの両手は自らの炎によって酷い火傷を負い、皮膚がただれ始めていた。それでもキザムの黒い炎は鎮まらない。
そこへ、クノの治癒によって辛うじて起き上がったサンズイが、フラフラと歩み寄り、静かにキザムへと木刀を向けた。
「そのチカラ……それが、お前が目指したチカラか……? 違うだろ。それには『想い』が宿っていない……。ノバラの教えとは違うはずだ」
「師匠の……教え……」
ハッと息を呑むキザムに、クノが涙を拭いながら強く言い聞かせる。
「刃に、想いを重ねて戦うの……!」
その言葉が、キザムの心の奥底に深く染み渡った。
スーッと、キザムの体を狂わせていた黒い炎が嘘のように消えていく。
すかさず、クノがキザムのただれた両手にそっと手を当て、最後の力を振り絞ってヒールを施した。
「これが、私の最後の治癒だから……」
そう呟くと、クノは糸が切れたようにその場に膝から崩れ落ち、小さく息を整えた。
キザムは優しい目でクノとサンズイを見つめ、静かに頷いた。
「クノ、サンズイ……ありがとう」
キザムは自分の左手に、再び真っ直ぐな『炎』の文字を刻み込む。それは先ほどまでの黒い呪いではなく、透き通るような純白の光を帯びた、かつての師の『煌炎』へと昇華していた。
さらに、キザムはその煌炎を宿した左手に、そっと右手を重ね合わせる――まるで祈りを捧げるかのような、完璧な合掌の構え。
キザムの両手の間で、煌炎が太陽の如くまばゆく、そして温かく輝きを放つ。
「これが……俺の想いだぁっ!!」
キザムの叫びと共に、放たれた煌炎の拳がヒョウゲツの正面へと叩き込まれる。
その刹那、サンズイが背後から滑り込むように完璧な納刀の構えを取り、居合の極限の閃光を放った。
「一刀両断……!」
ザシュッ――!!
キザムの煌炎とサンズイの研ぎ澄まされた抜刀術が完全に重なり合い、ヒョウゲツを直撃する。圧倒的なコンビネーションの前に、ついにヒョウゲツは崩れ落ちるように床へと倒れ込んだ。
「俺は……なんて事を……この手で、ノバラを……」
バタリと伏せったヒョウゲツの表情が、これまでの冷酷な仮面が剥がれ落ちたように、苦悶と後悔の色に染まっていた。
「どういう事だ……?」
サンズイは鋭い眼光のまま、木刀の切っ先をヒョウゲツの首元にピタリと突き付ける。
「あの日……俺は……ゴンベエ師匠の寺の買い出しに出かけた……あの時だ……」
ヒョウゲツは血を吐きながら、うわごとのように呟く。
「あの日以来、俺の意識は奥底に閉じ込められ、まるで誰かに操られているかのように……自分の体なのに、自分の意志じゃなかった……」
「何を言っているんだ……?」
戸惑うサンズイの視線の先、ヒョウゲツの背中には、禍々しい『蝕』の文字が暗く刻まれていた。
「これ以上、俺の体を使って被害を出したくない……。ノバラの意志を継ぐ煌炎の少年、頼む……ノバラの『古代文字』を、俺の中から受け取ってくれないか……?」
「師匠の想い……」
キザムが言葉を失ったその瞬間、ヒョウゲツは周囲の制止も聞かず、自らの体から突如として禍々しい『黒い茨』を無数に生み出し、その鋭利な先端で自らの胸を容赦なく貫いた。
「ヒョウゲツ……っ!」
キザム、サンズイ、クノの三人が思わず声を失い、目を見開いて立ち尽くす。
ガクッ、と力が抜け、ヒョウゲツはそのまま静かに息絶えた。
その瞬間、ヒョウゲツの亡骸から、まるで1匹の美しい蝶のように眩い光の粒子がふわりと舞い上がり、キザムの体へと吸い込まれるようにスーッと向かっていく。温かい光は、キザムの胸の奥へと優しく溶け込んでいった。
「――ヒョウゲツはっ……!?」
そこへ、意識を失ったジャミを背中にしっかりと負ぶさったガジュマルをはじめ、ナナシ、トウコ、チユの『百合の花束』の面々が息を切らせて謁見の間に飛び込んできた。
戦いの終わりとヒョウゲツの亡骸を目の当たりにした瞬間、ナナシは自身の意思とは全く裏腹に、大粒の涙をポロポロと零し始めた。それはノバラとしての記憶と感情が、コピーを通じて勝手に溢れ出したものだった。
「ヒョウゲツ……」
愛する者を自らの手から失った、あまりにも深く、複雑な悲しみ。言葉にならない切なさに震えながら、ナナシはヒョウゲツの冷たくなった亡骸の傍らに膝をつき、その額にそっと口づけをした。
その直後、ナナシの体に奇妙な変化が起きる。彼女の『模倣』が何かに反応するように強制解除され、その表情は一変した。
「えっ……あれ……なんで、私……?」
ナナシの顔からノバラの面影がスッと消え去り、元の気弱な少女の姿に戻る。自分の意図せぬ行動に頭が真っ白になったナナシは、慌てふためきながら「あわわわ……!」とチユの背中へとコソコソ隠れ込んだ。チユは優しく微笑みながら、その小さな体をそっと庇うように抱き寄せる。
その傍らで、満身創痍のサンズイを見つけたトウコがハッと息を呑み、駆け寄ってきた。
「サンズイはん……!」
トウコはボロボロになったサンズイの胸元に飛び込み、「サンズイはん心配したんやで……!」と涙をこぼしながら強く抱きついた。サンズイは気恥ずかしそうにしながらも、痛む体をこらえてトウコの背中をそっと優しく撫でるのだった。
「まったく、騒がしい連中だな。さっさと帰るぞお前たち」
ガジュマルが豪快に肩をすくめて言った。その広い背中では、激しい戦いの疲れからか、ジャミが意識のないままスースーと穏やかな寝息を立てて眠っている。
ふと、背中を覗き込んだチユが、ジャミの寝顔に視線を落とした。
(あれ……この顔、どこかで……?)
胸の奥に引っかかる微かな既視感を覚えたが、チユは首を小さく横に振ると、思考をそっと押し隠して笑顔に戻った。
それに、遅れて日ノ本の忍衆の本体が重々しい足音を立てて謁見の間に到着した。
キザムたちの健闘を称えつつも、里の許可なく勝手に行動を起こしたことについて、厳しく叱咤する声が飛ぶ。
しかし、その空気もどこ吹く風。ガジュマルは眠るジャミをひょいと持ち上げ、日ノ本の忍衆の男の背中へと器用に預けると、「じゃあな、達者でやれよ!」と爽やかに手を振って、妻たちと共に自分たちの拠点へと引き上げていった。
残されたキザム達は、極寒の門出を見送りに来てくれたツララ達ロゼリアの民に深く頭を下げ、温かい見送りを受けながら、日ノ本の忍衆と『百合の花束』と共に、それぞれの故郷である日ノ本への帰還の路へと歩き出すのだった。




