第33話 蛇の眼、惑の宴
掴みかかってきたサンズイの腕を冷酷に振り払い、ジャミは一歩、クノたちの方へと歩み出た。
背後でキザムとサンズイが息を呑む気配がする。彼らの目には、ジャミがクノを容赦なく切り捨てる冷血漢に映っているのだろう。だが、ジャミはそんな彼らの視線など一切気にする様子もなかった。
「もう一人の術は……さしずめ幻覚といったところかな?」
ジャミは蛇のような細い目で周囲を見渡し、ニタァ、と不気味な笑みを浮かべる。その直後、蛇の如き細い目がカッと開き、紅く変色した。
キザムはジャミを制止しようと叫んだが、一歩遅かった。ジャミは流れるような動作でクノたちを次々と短刀で切り裂いていく。だが、切り裂かれたはずのクノの幻影は霧のように消え、最後に本物のクノ一人だけがその場に残された。
ジャミはクノの頭上を空を切るように一閃する。その刃はクノの体に巻きついていた不可視の「糸」を断ち切り、彼女に自由をもたらした。
「どうして……私が本物だと……?」
クノが震える声で問う。ジャミは手応えのない虚空を軽く払うと、短刀を鞘に収め、冷ややかに告げた。
「僕の目は少し特殊でね。生物の体温を感知できるんだ。だから、幻覚と本物の区別は容易い。……それに」
ジャミは言葉を終える前に、背後の木の影へ向かって短刀を投擲した。
「――隠れている人間も感知できるって訳さ」
木の影から『操』の刺青を刻んだカイライが飛び出し、すぐさま別の木へと逃げ込む。彼は両手を小刻みに動かし、再びクノを標的に定めた。
今度はクノの意識がはっきりしたまま、体だけの自由が奪われる。クノは自身の意思に反して地面に視線を落とし、先ほど戦いの最中に落としていた短刀を拾い上げた。そのまま、キザムへと突き出す。
「キザム、避けて!」
キザムはクノの両手首を掴み動きを封じるが、操られたクノの怪力は想像以上だった。
その隙を突き、サンズイが先ほどジャミが投げた短刀を回収し、それをジャミへと投げ返す。
「ジャミ、もう一人はどこだ!? 俺がやる!」
「いや、もう一人は僕が追う。サンズイ、キミはその男を!」
サンズイは近くの木影に潜むカイライを見つけると、足元から水色の術式が浮かび上がる。木刀に『wind』を宿らせた神速の踏み込みが、カイライの懐へ直撃する。不意を突かれたカイライは激しく吹き飛び、意識が途切れた瞬間、クノを縛っていた術が霧散した。
自由を取り戻したクノは、そのままキザムに抱きついた。
「よかった……キザムを傷つけなくて……」
恐怖よりも先に安堵がこみ上げる。我に返ったクノは、乱れた衣服に気づき、顔を真っ赤にして身を正した。
「……見た?」
キザムは見ていないと慌てて否定したが、クノの耳まで赤い。二人の間に気まずい沈黙が流れる。
一方、ジャミは森の奥で『惑』を操るウツツと対峙していた。
「体温感知とは珍しい目だね」
「そっちこそ。こんなに五感に深く作用する幻覚なんて聞いたことがない」
ウツツは右掌の『惑』の刺青を誇示する。
「答えはコレだよ」
ジャミは冷ややかな目を向け、言い放った。
「どいつもこいつも『古代文字』か……ローズ・ヴァインは景気よく使うね。でも、これで終わりだ」
ジャミは素早く飛び込み、ウツツの喉元へ短刀を突き立てる。しかしウツツは消えた。
「何のために見せたと思う? この文字を見るだけで幻覚を見せることができるのさ」
再び幻覚でキザムたちを襲おうと、ウツツが掌の文字に血を垂らしたその刹那――ジャミの短刀が、その心臓を正確に貫いていた。
「な、ぜ……?」
「何度も同じ説明するのは好きじゃないんだが、冥土の土産だ。体温感知で幻覚には惑わされないし、居場所も丸見えだ」
ウツツが絶命すると、ジャミは目を押さえ、苦悶の表情を浮かべた。
「……あまり、この力は使いたくないんだがな」
その頃、サンズイはカイライを制圧していた。サンズイは『water』を器用に操り、周囲の水分を集めて粘度のある水流へと変えると、カイライの腕を背後で強固に縛り上げた。
「目的はキザムか? 全て吐け!」
「ヒヒッ……あの娘、最高だったろ? あのおもちゃを操って、キザムをクノの手で殺させる……想像しただけで笑いが止まらねぇよ。……どうだ、お前もヒョウゲツ様に忠誠を誓わないか? そうすれば、もっと極上の『悲劇』を見せてやるぜ」
「話にならないな……!」
サンズイがトドメを刺そうと木刀を構えた瞬間、ジャミが現れ、サンズイの腕を制した。
「待ってくれ、ここは僕が」
ジャミは短刀を一閃させ、カイライの首を跳ねた。
長い夜が明けた。
朝日が差し込むと、そこには温泉など存在しない、ただの寂れた森が広がっていた。クノが求めた安らぎすらも、ウツツが見せた幻影に過ぎなかったのだ。
「森を抜ければ、今度こそ本物の温泉街だ。明日は約束通り休息としよう」
ジャミの言葉に、クノは昨夜の恐怖を思い出し、複雑な表情を浮かべる。
一行が温泉街へ到着すると、看板には「滋養強壮」「外傷回復力向上」「体力回復」と、旅人には垂涎の効能が並んでいた。
「温泉……今はそんな気分になれない……」
そうこぼしたクノだったが、宿に入り、立ち上る湯気を目の当たりにすると、急速に心がほぐれていくのを感じた。
宿へ泊まると、クノは真っ先に「待ってました」と言わんばかりに大浴場へと向かった。
湯船に浸かり、湯気に包まれる。張り詰めていた心がほどけ、クノは心底ホッとしたような溜息を漏らす。温かな湯が、身体の芯まで染み渡り、昨夜の凍りつくような恐怖を少しずつ溶かしてくれていた。
一方、男湯では。
サンズイが湯船に浸かっていると、遅れてジャミが入ってきた。湯気の中でジャミが羽織を脱ぎ、ゆっくりと湯船へ足を滑り込ませる。その時、サンズイの視線が不自然に巻かれた白い布に釘付けになった。
ジャミの左肩から腕にかけて、厳重な包帯が巻かれている。
ケガをしたという話は聞いていない。入浴時ですら外すことのないその包帯は、濡れて肌に張り付いてもなお、中の皮膚を一切見せまいとする異様な執着を宿していた。
ジャミは自らの腕を庇うように、湯船の縁から遠ざけて座る。その動作からは、傷の痛みを隠しているというよりも、自らの身体の一部を誰にも見せまいとする、拒絶に近い気配が漂っていた。
サンズイは湯気の中で、ジャミの横顔をじっと見つめる。
あれは何なのだ――。サンズイの心の中に、消えない疑念の棘が深く突き刺さった。ジャミが隠し続ける「それ」が何であれ、それは彼がこの旅路で最後まで決して見せようとしない、最も触れられたくない領域のように思えた。
夜が深まり、みんなが寝静まった頃。
部屋の隅で、キザムは一人、明かりを頼りに何かの文字を黙々と練習し続けていた。
一歩一歩、着実にロゼリアへと歩みを進める彼らの旅は、まだその深淵の入り口に過ぎなかった。




