第31話 朱き炎(あかきほのお)、凍てつく死線
里を背にしてから、幾日が過ぎただろうか。
深い密林に足を踏み入れてからも、ノバラの残滓はどこまでも彼らに付きまとっていた。踏み固められた土の匂い、湿った風。道端に点々と転がる酒瓶は、彼女がつい先ほどまでこの場所を闊歩していたかのような、生々しいまでの気配を放っている。
クノが一つ、草むらに捨てられた瓶を拾い上げる。鼻をかすめたのは、ノバラが纏っていた独特な——甘く、それでいて肌を刺すような毒を含んだ妖艶な香りだった。
「……ここでも、飲んでいたんだね」
「……師匠は、どこへ行っても酒と、あの毒気を撒き散らしていたからな」
キザムの苦笑には、ノバラに対する複雑な敬愛と嫌悪が混ざっていた。里を出てようやく自分たちの足で歩み始めたというのに、どこを向いても彼女の影ばかりが見える。サンズイは、トウコからの歪んだ求婚の事実を喉元まで出かかりながらも、必死に飲み込んでいた。今ここで口にすれば、二人は何の疑いもなく「おめでとう」などと囃し立てるだろう。祝福でも何でもない、ただ重く、不気味に張り付く呪縛。サンズイはそれを、誰にも触れさせたくなかった。
「——伏せろ!」
ジャミの怒声が密林の静寂を切り裂く。
闇から現れたのは、『ローズ・ヴァイン』の刺客たち。『古代文字』を求めて密林を侵食する彼らにとって、偶然居合わせたキザムたちは、ただ排除すべき『塵』に過ぎなかった。
無機質な連携。だが、極限まで研ぎ澄まされた彼らの身体能力は、刺客たちのそれを凌駕していた。里を出てからの過酷な行軍が、否応なく彼らを刃へと変えていたのだ。最短の軌道で敵の喉笛を裂き、瞬く間に戦場から静寂を取り戻す。
「……成長だな」
ジャミの短い言葉と同時に、森の空気が「死」の重圧へ変質した。
枝葉を押し分ける重量感。現れたのは、幹部『クチナシ』。両腕に深く刺青された『熊』の文字が、月明かりの下で異様な鈍光を放つ。
その文字が目に入った瞬間、ジャミの喉元が微かに引きつった。彼は眉間に深い皺を刻み、虫唾が走るものを見るような、あるいは忌々しい因縁を思い出したかのような冷酷な視線を、その刺青に向けていた。だが、その表情は一瞬で凪に戻る。
「……さて、厄介なのが出たな」
サンズイが前に出た。その動きは、かつての忍びのような音もなく流れるものとは違う。重心を低く保ち、大地をしっかりと踏みしめる、重厚な『サムライ』の構えだった。
サンズイが木刀を正眼に構えた瞬間。
彼が踏み込んだ密林の土が、突如として音を立てて陥没した。
――展開。
サンズイの足元を中心に、無機質な光を放つ幾何学的な術式陣が急速に広がっていく。それは、血文字を幾重にも重ねたような複雑な模様であり、その中心には、彼が師から教わった鋭利な現代の英字が、幾何学図形と重なり合うように刻まれていた。
サンズイが踏み込み、顎を打ち抜く。しかし骨の砕ける音はせず、サンズイの拳を、クチナシの肉体が「吸い込んだ」。
(——硬い。いや、これは肉体そのものが歪んでいる……!)
皮膚の下で何かが蠢いている。サンズイは戦慄しながらも、自身の腕や木刀、そして足元の術式陣に刻み込んだ血文字へと意識を集中させる。
「——結合リンク(CONNECT LINK)」
サンズイが短く呟くと同時に、彼が展開した足元の術式陣が水色に輝き、意識内で高速演算が走り出す。
(主指定:WIND、副次指定:POWER。リンク展開)
全身の血文字が熱を帯び、凄まじい負荷が肉体を駆け巡る。サンズイは奥歯を噛み締め、その力でクチナシの剛腕を強引に引き剥がし、加速したキザムの木刀を叩き込ませる。
しかし、敵は揺らがない。サンズイの演算はさらに深く、残酷なまでに冷徹に回る。
(リンク再構成。主指定:ICE、副次指定:IMPACT。――実行)
サンズイの足元の術式陣が、今度は凍てつくような蒼白い光を放つ。血文字が冷気で凍てつき、真空の氷刃がクチナシの異形を切り裂く。だが、クチナシは皮膚が裂け、内側から異形の筋肉が隆起しても、苦痛の表情一つ見せない。ただ機械的に、排除の動きを繰り返す。
(――死の概念が欠落しているのか? ならば、力ずくで停止させるまで!)
サンズイは即座に足元の『陣』を収束させ、その冷気を掌の木刀へと全転換。クチナシの関節部へ極寒の冷気を叩き込んだ。
「……捕らえた。動けないはずだ、今だ!」
氷に足元を強引に固定されたクチナシの胸板へ、キザムが躍り出た。彼は左の手のひらに、指先で素早く『炎』の文字を綴る。その瞬間、皮膚に浮かび上がった血文字がドクン、と大きく脈動し、周囲の酸素を焼き尽くすほどの朱い光が渦巻いた。最後まで使いたくなかった、己の奥底に巣食う呪いの力。
「——『煌炎』!」
極大の熱量を左手に凝縮させ、キザムはクチナシの胸板へ渾身の掌底を叩き込んだ。
氷が瞬時に蒸発して白煙が舞い、肉が焼け焦げる異臭が立ち込める。炎が拳の隙間から凍てついたクチナシの内側へと侵入し、その無機質な筋肉を深部から焼き殺す。掌に刻まれた『炎』の文字が、制御できない激流となって荒れ狂う。それは彼にとって、制御すべき忌まわしい「宿命」そのものだった。
「……ッ、今だ!」
炎の熱で動きが完全に停まった隙を逃さず、影が滑り込む。ジャミだ。
ジャミは懐から抜いた短刀を手に、躊躇いもなくクチナシの首筋へと深々と刃を突き立てた。
ジャミが冷徹に刃を引き抜くと同時に、クチナシの巨体が内側から圧壊し、崩れ落ちた。
沈黙。
その死体の胸元から、見たこともない黒い虫が一匹、音もなく空へ飛び去った。
「……今の、なんだ?」
ジャミは血濡れた刃を振り払い、虫が飛び去った空を冷ややかな瞳で見上げる。
「……深入りは避けるぞ。奴らは、俺たちが知る忍術の理から逸脱している」
辛勝。自分たちが戦った相手は、ただの「忍」ではなかった。クチナシの肉体に刻まれた『熊』という文字。少年たちの心に、今までとは違う、得体の知れない「不吉な予感」だけが深く、重く根を張っていた。
一方、凍てつく氷華の里『ロゼリア』の深奥。
ローズ・ヴァインの牙城にて、男は静かに闇を統べていた。
空を越えて飛来した黒い虫が、その白く細長い指の上に止まる。
「……新しいチカラを手に入れた、か」
ヒョウゲツが薄い唇を歪める。彼の瞳には、遠く離れた地で虫が観測してきたキザムたちの姿が、鮮明に焼き付いていた。
「待っていた甲斐があったよ。……さあ、忍衆殺し合いの続きを楽しもうか」
ヒョウゲツが指先を軽く弾くと、闇の中から数多の殺気が滲み出す。
「キザムの首をとってこい。……何人死のうが構わない。あの『煌炎』を、我が物にするために」
静まり返った牙城に、冷徹な号令が響き渡った。




