第28話 煌炎、空へ抜けて
湿地帯の霧が、ナナシの放つ巨大な嵐によって引き裂かれる。
風が肌を裂き、泥濘が飛散する中、キザムはただ一点を見つめていた。
(……来た。右足の踏み込みが甘い。次は回し蹴りだ)
死線の中、研ぎ澄まされた感覚がすべてをスローモーションに変換していく。
ナナシの全盛期の暴力。その筋肉の弛緩、呼吸の乱れ、空間の歪み。それら全てを材料に、キザムは己の『煌炎』を練り上げる。
「来いッ!」
ナナシが空を切り、身体がわずかに回転の勢いで死角を晒す「刹那」。
その隙間こそが、キザムの求めていた唯一の活路だった。
(……そこだッ!!)
キザムは恐怖を振り払い、魂を『炎』に叩き込む。黒く濁る予兆を、強い意志で「澄んだ光」へと塗り替える。
空気が悲鳴を上げるほどの熱量が、キザムの左手に収束した。
渾身の煌炎を宿した拳が、嵐の中心を縫うように突き出される。
ナナシの腹部を捉えたその瞬間、ドロリとした衝撃波がナナシの全盛期を象るオーラを内側から突き破った。
ドォォォォンッ!
周囲の泥沼が数メートル四方で抉れ、泥雨となって降り注ぐ。
さすがのナナシも足を踏ん張り、その場に留まるが、ダメージは決して少なくはない。
彼女の身体から白い煙が上がり、全盛期の威容を保っていた『模倣』の術が、キザムの一撃によって完全に引き剥がされた。
静寂が戻った湿地帯に、泥をすする音だけが響く。
霧が晴れ、そこにいたのはノバラの姿を模した最強の師ではない。
泥に汚れて座り込み、顔を真っ赤にしてうろたえる、本来の姿のナナシだった。
「――っ!!」
ナナシは自身の姿を確認した瞬間、まるで雷に打たれたように顔を覆い、地面を転がるようにしてゴンベエの背後へ滑り込んだ。先ほどまでの冷酷な強者の面影は消え失せ、華奢で、どこか儚げな少女の姿が露わになっている。
「あ、あぁぁ……っ、見ないで! こっちを見ないでくださいっ!」
キザムは荒い息を吐きながら、呆然と立ち尽くす。
「……ナナシ…さん? あんた、今のは……」
「ち、違うっ! こんなの、私じゃないっ! 私だって……あの御方のように、誰からも憧れられる、凛とした姿でいたかったのに……っ!」
ナナシはゴンベエの着物の裾を必死に掴み、キザムから視線を逸らして縮こまる。
彼女にとって、今の姿はあまりに無防備で、か弱すぎて、何より恥ずかしかったのだ。憧れのノバラ様の姿という強固な鎧を剥ぎ取られ、本来のひ弱な自分をさらけ出されたことが、何よりも屈辱的でたまらない様子だった。
ゴンベエが背後から溜息をつき、呆れたように口を開く。
「やれやれ。おヌシもいつまでその『強がり』を纏っておるつもりじゃ。……キザム、驚かせてすまぬな。この娘はワシが拾い、『模倣』の器として育て上げたが……弱さを見せれば居場所がなくなると信じ込み、ノバラの力を借りてずっと自分を偽っておったのじゃ」
ナナシはゴンベエの背中で「うぅ……」と小さく鳴いた。自分の本音を師匠に暴かれ、さらに顔を赤くしている。
「……ひどいよ、キザムくん。私がどれだけ努力して、あの威厳ある姿を維持してたか……。全部、全部台無しだ……」
「……あぁ、死ぬかと思ったよ。でも、おかげで目が覚めた。アンタがそんなに必死だったのも、今ならわかる気がする...ありがとう。」
キザムが苦笑して手を差し伸べると、ナナシは恐る恐るその手を見つめ、バツが悪そうに小声で呟いた。
「……別に、感謝なんてしなくていいから。……強くなったね……。」
その言葉には、隠しきれない師としての誇りと、少女としての複雑な感情が混ざり合っていた。
ゴンベエは満足げに頷く。
「例え一瞬とはいえ、本当に全盛期のノバラを超えるとはのぉ。キザム、よくやった」
ゴンベエからの激励。キザムは、まだ指先に残る透明な熱の余韻を感じながら、力強く拳を握る。
「師匠の全盛期を超えた……」
しかし、超えたのは文字通りほんの一瞬であった。
「『炎』本来のチカラを使いこなせればノバラを超えることは可能じゃ。じゃが、このチカラはあくまでおヌシ自身の心の持ちよう次第で、地獄の業火にも煌炎にもなる。平常心を保ち、決して誤った使い方にならぬようにこれからも精進せよ」
ゴンベエ、そしてナナシとの修行が終わった。
使いこなせれば、ノバラをも凌駕する力。だが一歩間違えれば、自身を焼く業火となる。この危うくも頼もしいチカラを使いこなす日は来るのか。
「……次は、ちゃんとノバラ様の姿に戻って、修行の続きをしてあげるから。その時は……今度こそ、手加減なしだからね!」
ナナシが精一杯の強がりを言い、ゴンベエの背中から少しだけ顔を覗かせる。キザムは泥だらけの彼女に短く微笑んだ。
「ああ、望むところだ。……じゃあな、ナナシさん」
湿地帯を去るキザムの背中。
その左手の中では、澄んだ煌炎の残滓の中に、ふとした瞬間に黒い炎の脈動が混ざり合った。
強さへの渇望と、拭えぬ不安。二つの炎をその身に抱え、キザムは次なる戦場へと歩みを進める。




