第27話 禁忌の言霊、深淵の煌めき
『炎』の古代文字をその身に刻んでから、キザムの世界は一変した。
左手のひらに刻まれたその一文字は、ただの術式ではない。まるで生き物のように脈打ち、キザムの身体に流れる本来の「火」の術式を、根底から塗りつぶそうと暴れ回っている。
訓練の合間にその文字を呼び出そうとするたび、キザムは激痛に襲われた。左手から漏れ出るのは禍々しい黒い炎。それが発動するたび、自身の肉がじりじりと焼ける匂いが鼻を突く。それは間違いなく、術者自身を焼き尽くすための地獄の業火だった。
まだ維持などできない。ほんの一瞬、指先で黒い火花を散らすだけで、手のひらには痛々しい火傷の痕が刻まれる。
(怖い……)
本能が、警鐘を鳴らし続けていた。この力を使い続ければ、いずれ術者である自分自身が先に灰になる。それは決して脅しなんかじゃない。使えば使うほど、確実に自分の肉体が消えていくという残酷な現実だった。
だが、この力を使いこなせれば――。
ヒョウゲツを討つための強力な武器となる。その先にある未来を掴むためには、この禁忌に触れ続けなければならない。
そんな迷いと恐怖が、夜の禅室に漂っていた。影から不意に声をかけられ、キザムは肩を震わせた。そこにはいつの間にか、ゴンベエが立っていた。
「キザムよ。悩んでおるようじゃな」
「ゴンベエ師匠……。この力は、あまりにも……」
「呪術といえど、言霊は必ず宿っておる。おヌシの心に迷いがあれば、その炎は術者の命を燃料にして、制御不能な暴走を始める。……迷いがあれば、おヌシの想いなど無視して、逆に焼き殺されるぞ」
ゴンベエはそれだけ言い残すと、夜の闇に溶けるように消えた。
キザムは一人、冷たい床の上で自らの掌を見つめる。頭では理解している。平常心を保ち、恐怖を捨てればいい。だが、焼ける肉の痛みと、いつか灰になるという想像は、あまりにも強くキザムを縛り付けていた。
翌日の湿地帯。訓練は苛烈を極めていた。
ナナシの猛攻を捌きながら、キザムは何度も『炎』の文字に意識を向ける。しかし、いざ発動しようとすると、焼き付く恐怖が足を止めさせる。
結局、いつものように『火』の遁術で対応するしかなかった。だが、今のキザムにとって、全盛期の力を宿すナナシの前でその遁術はあまりに無力だった。
「甘いッ!」
ナナシの蹴りがキザムの腹部を捉える。泥水の中に顔から叩きつけられ、視界が真っ白になる。
「何か隠してるだろ? アタシにはわかる! どんなチカラか知らないが、鍛錬で出来ないことは本番で出来るわけがないだろ! ビビってないで、そのチカラを使ってみろ!」
ナナシの怒号が頭上から降ってくる。彼女の冷ややかな眼差しが、キザムの心の奥底にある「恐怖」を完璧に見抜いていた。
ナナシはただの暴力ではない。キザムの魂の揺らぎまでを見透かす、最強の師だ。
(……そうだ。ここで終わるなら、ヒョウゲツになんて勝てるはずがない)
キザムの中で、何かが音を立てて吹っ切れた。
死の恐怖ではない。ここで逃げ出すという、忍としての「恥」が上回った。
キザムは泥の中から立ち上がり、左手に『炎』の文字を刻む。血が滲み、空気が焦げる匂いが広がる。
「……ッ!!」
キザムの意識が一点に集中する。恐怖を捨て、ただ「炎」という言霊の概念だけを魂に焼き付ける。
すると、左手から溢れ出した黒い炎が、刹那、鮮烈な色へと変貌を遂げた。
それはもはや、肉を焼く禍々しい煤の色ではなかった。一点の曇りもない、空の上層で燃えるような、突き抜けて透明な「澄んだ煌炎」。
ナナシが、初めて愉悦に顔を歪めた。
「やれば出来るじゃないか!」
ナナシの空気が変わった。
それまで、彼女は「未来のアタシの弟子」を育てるための手加減をしていたのだ。だが、今の瞬間、その箍が外れた。
「――ようやく、殺し甲斐のある玩具になったな」
ナナシが一歩踏み出した瞬間、キザムの網膜に捉えられたのは「残像」すら残らないほどの加速だった。彼女が移動した軌跡にある霧が、真空状態となって弾け飛ぶ。音速を超えた移動により、周囲の湿気が耳をつんざくような衝撃波となってキザムを襲った。
(速い……!?)
これまでとは次元が違う。
ナナシの拳が繰り出される。それはもはや拳ではない。空間そのものを圧縮して打ち出す、重圧の塊だ。キザムは咄嗟に『炎』を左手に呼び出そうとするが、激痛と迷いに集中が乱れ、文字は一瞬だけ現れては霧散してしまう。
「ッ、出ろ……!」
まともに纏うことすらままならない。攻撃に合わせて一瞬だけ爆発させるのが精一杯だ。その余波だけで、キザムの周囲の泥沼が数メートルにわたって抉れ、空洞を作る。
「古代文字の出力が足りない! そんなんじゃ、アタシの全盛期には触れられもしないよ!」
ナナシが左右の手から同時に放つ遁術の複合術。
以前なら見切れた隙間が、今は幾重にも重なる「重層的な連撃」へと進化している。風が切り裂き、雷が痺れさせ、土が逃げ場を塞ぐ。文字の質量が以前とは比べ物にならないほど重く、相殺しようと一瞬だけ『煌炎』を灯しても、ナナシの文字がそれを容易く突き破ってくる。
(くっ……!! 炎が安定しない……! 纏うことすらできないのか……ッ!)
キザムの左手から放たれる『煌炎』は、ナナシの猛攻にさらされるたびに明滅し、すぐにかき消えてしまう。防戦一方で、かろうじて直撃を避けるのが限界だ。
しかし、キザムは笑みを浮かべていた。黒い炎とは違い、この澄んだ炎は己を焼かない。ただ、呼び出すこと自体に莫大な集中力を要するのだ。この圧倒的な暴力の渦中にこそ、自分が求めていた「強さ」の正体がある。
全盛期のノバラの力。それは、ただ速くて強いだけではない。
周囲の環境、霧の揺れ、泥の温度、キザムの呼吸――そのすべてを支配し、己の術式の構成要素として組み込む、空間支配の力だった。
「来い! キザム!」
ナナシの咆哮と共に、湿地帯の霧が渦を巻き、巨大な嵐となってキザムに襲いかかる。
キザムは震える左手に、命を削る思いで煌炎を呼び出す。一瞬の輝き。それさえあれば、道は拓ける。もはや恐怖はない。迷いを断ち切った己の魂を燃やす燃料だと確信した。
ここから先は、ただの訓練ではない。
最強の師を相手に、己の限界を焼き切り、その先へ行くための――、真の死闘が始まったのだ。




