第26話 その身を焼く、禁忌の『炎』
霧の立ち込める湿地帯での訓練は、もはや日常となっていた。
「こんなもんか? 未来のアタシの弟子は! こんな弱いヤツが何かを守れる訳がないだろ! もういっそ忍を辞めちまえ!」
ナナシの怒号が湿り気を帯びた空気を切り裂く。彼女の拳は岩を砕き、蹴りは風を裂く。ノバラの姿をした「全盛期」の暴力は、論理や理屈を超えていた。
左右の手から同時に放たれる『風、水、土、雷、木』の複合術。キザムが教わったはずの基本遁術が、ナナシの手にかかるとまるで別種の兵器のように洗練され、容赦なくキザムを叩き潰す。
(速い……見えない。いや、見ようとすればするほど、残像に翻弄される)
訓練開始から一週間。キザムの全身は紫色の痣で埋め尽くされていた。
初日はただの暴力の奔流に吹き飛ばされるだけだった。二週間目、ようやくナナシの拳が「来る」ことだけは予知できるようになった。だが、身体が追いつかない。三週間目に入っても、なおナナシの「間合い」に踏み込むことすら許されない。
ナナシの攻撃を避けるのではない。避ける暇すら与えられず、ただ「被弾を最小限にする」ための防御に終始する毎日。
(……一瞬だ。あの連携の、たった一瞬の隙間。あそこさえ見切れれば)
キザムは泥水の中に顔を押し付け、荒い呼吸を繰り返す。
ナナシは冷ややかな目でそれを見下ろしている。「全盛期の師匠」の前では、キザムの持てるあらゆる術式が無力化され、無機質な暴力の餌食となる。
「どうした? 思考が遅い。霧の湿った空気の微かな揺れ一つで、アンタの殺気も呼吸も、すべて筒抜けだよ」
逃げ場のない湿地帯。終わりの見えない暴力。
キザムの心の中で、焦燥が黒い泥のように溜まっていく。平常心を保てと自分に言い聞かせれば聞かせるほど、神経は昂り、血文字を刻む指先が微かに震える。
(……まだだ。まだ、あの一瞬が掴めない)
積み重なる敗北。ただボコボコにされ、泥にまみれ、己の無力さを噛み締めるだけの日々。
その姿を、ゴンベエはただただ無言で、影の中から見守っていた。
夜。心身共に磨り減ったキザムが、いつものように禅室で座学を受けていた。
もはや、その指先はかつてないほど安定していた。自らの血を筆代わりに、左手のひらに魂を乗せ、バランスの取れた美しい文字が静かに熱を帯びる。
「……そろそろ良い頃合かもしれんのぉ」
ゴンベエが、濁った瞳をキザムの手元に向ける。
「キザムよ。ノバラから何か預かってはおらぬか?」
キザムは指を止めた。問われて初めて思い出す。ノバラから託された、あの巻物の存在を。懐から取り出した古ぼけた巻物を、ゴンベエへと差し出す。
「そもそもこれは、いずれおヌシの手に渡るよう、ワシがノバラに預けていたものじゃ。開いてみよ」
キザムが震える手で紐を解く。現れたのは、ただ一文字。
『炎』。
「この文字にはまだ所有者はおらん。おヌシが既に持っている『火』を、さらに純化させ、業火へと昇華させたものじゃ。これは呪術に近い。強すぎる火力は、術者であるお主の魂をも焼き尽くす」
ゴンベエの言葉に、部屋の空気が張り詰める。
「今のおヌシであれば、この文字を扱えると判断した。どうじゃ、この文字をその身に、その手に宿してみる覚悟はあるか?」
キザムは答えない。ただ、ゆっくりと頷いた。
呪術を宿すことの代償。それが何を意味するのか、今のキザムには痛いほど理解できた。ナナシを超えるため、そしてその先に待つヒョウゲツを討つため――。この力に焼かれるなら、それもまた忍の業だ。
「……では、これより『炎』の書き順を教える。心して学ぶが良い」
禅室の闇の中で、キザムは左手のひらに炎の文字を刻み始めた。
それはただの文字ではない。血と魂を練り込み、地獄への切符を刻む作業だった。
キザムの指先から、目に見えないほど微かな、しかし肌を焼き焦がすような熱気が立ち上る。それは、これまで彼が使いこなせなかった「火」とは明らかに別次元の、禍々しくも美しい自身の魂を焦がす破壊の予兆だった。




