第25話 模倣の師、歪な平常心
禅室の空気は、張り詰めた糸のように張り詰めていた。
キザムは、目の前の紙と筆に視線を落とす。ゴンベエから教えられた『古代文字』の真髄――それは単なる術式の発動ではない。言霊に己の魂を乗せ、この世界の理へと直接干渉する行為だ。
「言霊に魂を込めるには、濁りのない器が必要じゃ。……心に乱れがあれば、文字は暴走し、術者はその余波で自滅する」
ゴンベエの言葉は重い。戦うための力を扱い、命懸けの死闘に身を投じながら、心に波風を立てず平常心を保つこと。それがどれほど非人間的で、途方もなく難しい鍛錬であるか、キザムは身をもって知っていた。
(焦るな……怒るな……ただ、そこにある文字と向き合え)
そう自分に言い聞かせるほど、ノバラの死が、ローズヴァインの脅威が、そして師匠への未練が、心の中で黒い渦となって渦巻く。雑念が、筆先を震わせる。
「……また雑念じゃ」
バチンッ、と乾いた音が禅室に響く。背中を警策で叩かれ、キザムの肩が跳ねる。何度も、何度も、その痛みに耐えてきた。座学の合間に組み込まれた座禅の鍛錬は、キザムにとって戦闘以上に過酷な時間だった。
そんなある日、ゴンベエが重い口を開いた。
「……入れ」
禅室の障子が、静かに滑り開く。
現れた人物を見た瞬間、キザムの呼吸が止まった。
そこに立っていたのは、ノバラだった。かつて抱いた酒と毒花の香りが、幻影のように漂う。二の腕や太ももを締め付けていたはずの黒い茨はない。紛れもない、若く荒々しい生命力を滾らせる全盛期の姿。
「アンタがキザムかい?」
キザムは動揺を隠せずにいた。
(な…なんで! 師匠の姿で…)
ゴンベエは、キザムの困惑をよそに淡々と説明を始める。
「ナナシはのぉ、『古代文字』呪術『模倣』の所有者じゃ。呪術であるからにはリスクはある。模倣のリスクは所有者は模倣以外の術式が使えなくなることじゃ。しかしナナシには術式の才能がない、だからこそノーリスクで呪術が使える。才能がないことが才能じゃ」
「ゴンベエ、余計な事を言うな」
ナナシが不快げに言い放つが、ゴンベエは構わず言葉を続ける。
「ナナシは『百合の花束』の隊長でのぉ、ノバラが好きじゃった、昔日本の文化にあった、好き過ぎてそのものになりきる――いわゆるコスプレみたいなもんじゃが、模倣により本人そのものになっておる。故にここにいるのは全盛期のノバラそのものじゃ」
「いい加減にしろ! ……いいかいアンタ、茨の呪いを受けたあとのアタシの弟子だったそうだが、アタシはアンタを知らない! 今のアンタにアタシが稽古をつけてやるよ!」
ゴンベエは満足げに頷くと、キザムへ告げる。
「ワシももう歳じゃ。座学や座禅はワシが教えるが、戦闘においてはワシよりも遥かにナナシの方が優れておる。その為に呼んだんじゃ」
キザムの知らない、最強と呼ばれたくノ一の全盛期の姿。その力は計り知れない。キザムは唇を噛み締めながらも、その稽古を受け入れた。
「……師匠の姿だけ、やめて貰えないかな……?」
キザムが絞り出すように言う。ノバラの姿がチラつくたび、どうしてもあの最期が思い出されてしまう。しかしナナシは一蹴した。
「甘ったれんな! アタシはアタシだ! その力でアタシを超えていけ! まぁそう簡単に超えられるもんでもないけどな!」
ゴンベエが補足する。
「ノバラの姿をやめろと言うが、この姿以外ではノバラの全盛期のチカラは味わえんぞ。それにな、ナナシの本来の姿はこのワシですらもう何年も見ておらん」
立ち姿だけで禅室の空気が重く圧し掛かってくる。ナナシは拳を構えた。その足音は極めて静かだが、キザムが知るノバラの歩法そのものだった。彼女がキザムの目の前で立ち止まると、逃げ場のないプレッシャーが皮膚を突き刺す。
(全盛期の師匠……これが、かつて最強と呼ばれた姿……!)
キザムは、押し寄せる恐怖と師匠への慕情、そして拭いきれない焦燥感の中で、ゴンベエの教えを反芻する。
(平常心……平常心を保て……。この静かな禅室で、抱いてはならない感傷を切り捨てて、ただ『術』と向き合うんだ)
キザムはゆっくりと拳を握り、構えをとった。警策に叩かれ続けた背中の痛みと、座禅で培った静寂の記憶を、目の前の「恩師」に対する衝動と融合させる。
恩師の皮を被った最強の敵を前に、キザムの魂がようやく、歪な平常心へと到達しようとしていた。




