第18話 茨の檻と、呪われし愛の残滓
霧が、まるで生き物のように蠢く。
その濃密な白の中に、不意に声が浮かび上がった。
「ノバラ、久しぶりだね。俺がくれてやった茨の調子はどうだい?」
優しい響き。慈しむような声。だが、そこには温もりという熱量など微塵も存在しない。冷徹な月光のような声に、ノバラは戦慄を抑え込むように唇を強く噛み締めた。その瞳に宿るのは、師としてではなく、かつて愛し、そして最も深く憎んだ男を見る眼差しだった。
「……やはり、お前か」
ノバラは弟子たちへ向かって、簡潔に言い放った。
「お前たちは下がっていろ」
それは命令ではなく、悲鳴に近い切迫した響きだった。キザムたちは凍りつく。ノバラが敵を前にしてこれほど狼狽する姿を、彼らは一度も見たことがなかった。
ノバラが駆け出した。掌には『砕』の古代文字が鈍く輝いている。
「――ヒョウゲツッ!!」
渾身の突き。大気を裂き、空間を歪めるほどの一撃。しかし、ヒョウゲツは動じない。涼しい顔で、ノバラの全力の拳を、いとも容易く掌で受け止めた。
「短気な性格は相変わらずだね」
ノバラは即座に手を振り払い、乱打を叩き込む。だが、ヒョウゲツは風に舞う花弁を避けるかのように、かすりすらしない。
「逃げろッ! ここから離れるんだ!」
ノバラの怒号が響く。弟子たちが困惑して立ち尽くす中、ノバラは自らの掌を地面に打ち付けた。綴られた文字は『茨』。
黒く、毒々しい棘の檻が、ノバラとヒョウゲツを隔離するようにドーム状に隆起し、二人を閉じ込めた。
「そんなに『茨』を多用して……ただでさえ短い君の寿命が、さらに縮むよ」
檻の中でノバラは、さらに漆黒の茨を具現化し、鞭のようにヒョウゲツへ叩きつける。だが、ヒョウゲツもまた、同じ黒い茨を掌から咲かせた。
ノバラの茨を容易く相殺し、あろうことか、ノバラのそれよりも威力を増して反撃する。
その瞬間。ノバラは胸を押さえて激しく悶絶した。身体の内側で、何かが食い荒らされるような耐えがたい激痛。
「――『茨』は、ただの術式ではない。これは呪術だ」
ヒョウゲツは、狂おしいほど静かに告げる。
「限られた古代文字にのみ与えられた、術式の理を超えたチカラ。……本来、この呪術の真の所有者は俺だ。だが、その力を分け与えられた者には、等しく『罰』が下る。命を蝕む禁忌の術……それらを操る代償さ。お前という器に、この呪いが定着した。それだけのことさ」
【回想】
(景色が溶けていく。厳しい修行の音、炭の匂い、そして……若き日の平穏な日々)
修行僧・ゴンベエの営む山寺。
14歳を迎えたノバラにとって、そこでの生活は厳しく、しかし尊い日常だった。
ある雪の夜、寺の門前で事切れる寸前だった少年――ヒョウゲツを拾ったのは、運命の悪戯だった。
「行くあてがないなら、ここにいればいい」
ゴンベエの言葉は短かったが、ヒョウゲツには慈悲だった。
ノバラとヒョウゲツは、共に寺で奉公し、ゴンベエの修行を受ける日々を送った。ノバラとヒョウゲツは兄弟のように、時にライバルとして術を磨き合った。
ある日の組手。ノバラの鋭い足技がヒョウゲツを捉え、地面に組み伏せる。
ヒョウゲツの顔が、ノバラの胸元に吸い寄せられた。
「……っ!」
男の顔が真っ赤に染まる。ノバラもまた、少年特有の体温に、戸惑いと胸の鼓動を隠せなかった。
夜、囲炉裏の火が揺れる。ゴンベエ、ノバラ、ヒョウゲツ。
三人の影が壁に長く伸びる。ただそれだけの時間が、人生で最も安らかなひとときだった。
――しかし、ヒョウゲツは突然、寺から姿を消した。
時が流れ、19歳を迎えたある日。ノバラは国を揺るがす大事件に直面し、それを独力で解決した。
その凄まじい戦果により、彼女は「日ノ本最強のくノ一」という称号を授かった。
英雄として、また孤独な影として、彼女は己の道を歩み続けた。それでも、春夏秋冬、桜が散り、雪が降り、新緑が萌えるその木の下で、彼女はいつも、来るはずもない男を待ち続けていた。
やがて訪れた再会。
桜が狂ったように舞う季節だった。ヒョウゲツは、あの頃と何も変わらない、優しげな微笑みを浮かべて現れた。
「ノバラ、久しぶりだね」
蜜月な時間。ヒョウゲツは、自身の故郷である『氷華の里・ロゼリア』が困窮し、存亡の危機にあると嘘を吐き、ノバラが最強の証として秘匿していた「ある古代文字」の譲渡を請うた。
「俺の故郷・ロゼリアを救うために、君の力を貸してくれないか」
愛した男の言葉に、ノバラは迷いなどなかった。
彼女は自らの手で、その大切な文字をヒョウゲツへと譲渡した。
――すると、ヒョウゲツは感謝を伝えるかのようにノバラの掌に自らの手を重ねた。
「俺の故郷を救う礼だ。これからは、俺のチカラも半分預けておくよ」
その瞬間、ノバラの全身に焼け付くような熱が走った。彼女の肌を突き破り、茨の蔦となって全身を絡め取ったそれは、ヒョウゲツが仕掛けた呪いの業だった。
ヒョウゲツの瞳には、かつての温もりは欠片も残っていない。
ただ、手に入れた獲物を満足げに眺める、冷徹な観察者の眼差しだけがあった。
「ありがとう、ノバラ。これでお前は、死ぬまで俺の『呪術』の器だ。永遠に、俺の理から逃げられはしない」
黒い茨の檻の中。
呪術の痛みで呼吸すらままならないノバラを見下ろしながら、ヒョウゲツは哀れむように、しかし残酷に微笑んだ。




