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第11話 茨の契約と、残り火の覚悟

昨夜のノバラの囁き――あの、耳の奥を熱い毒で満たされたような甘美な記憶が、朝靄のようにクノの思考にまとわりついていた。

横に並んで歩くキザムの背中を見るだけで、昨夜、ノバラの指先で顎を掬い上げられ、唇を耳に寄せられた時の「支配される感覚」が、背筋を這い上がるように蘇る。あの時、禁忌の秘術を耳打ちされた瞬間に感じた、魂の芯をかき乱されるような言いようのない高揚感。

幼なじみであるキザムの、見慣れたはずの無防備なうなじや、少し動くたびに揺れる服の隙間に、昨夜ノバラから教わった「癒しの奥義」の残滓が重なり合う。もし今、あの奥義を実行したら……。そんな想像が過るだけで、クノの身体は電流に打たれたように痺れ、隠そうとしても隠しきれない熱が内側から湧き上がってくる。

今のキザムとの距離は、昨日までとは決定的に違っていた。

彼はもう、ただの幼なじみではない。クノの指先一つで、彼を癒やし、彼を悦ばせ、そして……彼と分かちがたく一つになれる――そんな、ノバラに仕込まれた毒々しい秘密を抱え、クノはキザムの愛おしさと、自分の中に芽生えたどうしようもない熱に、胸の奥を激しくかき乱されていた。

「……チッ」

不意にノバラが吐き捨てた舌打ちに、クノは自分の中の淫らな思考を慌てて塗りつぶし、顔を逸らした。

ノバラは不機嫌そうに懐を探り、空の酒瓶を取り出すと、ひどく苛立たしげにそれを握り潰した。

「酒が切れた。……最悪だ」

ノバラは進路を強引に変え、密林の外れにある小さな村を指差した。

その村を見つめるノバラの瞳には、冷酷な彼女には似つかわしくない、どす黒い忌避の色が混じっている。

「……よりによって、あの村だけは立ち寄りたくなかったんだがね」

村に足を踏み入れると、雑多な人々の営みが目に入った。ノバラは目的の酒屋を目指し、迷いのない足取りで路地を突き進む。やがて、芳醇な醸造の香りが漂う酒屋の軒先が見えてきた。

その店先の少し手前、日向ぼっこでもしているかのように、一人の老人が所在なげに佇んでいた。

老人がゆっくりと顔を上げた瞬間、キザムとサンズイは息を呑み、本能的に反射の如く身構えた。

老人の纏うものは、常人の気配とは一線を画していた。

枯れ木のような身体に宿るのは、数多の屍を越えてきた者だけが持ちうる、深く、重厚な『ごう』。老兵という言葉では足りない、積み重なった修羅の歴史が、その肌に刻まれている。

「ノバラか。……随分と久しいのぉ」

老人の言葉に、ノバラは露骨に顔を歪めた。

「……だから言っただろう、この村には立ち寄りたくないってね。……ゴンベエ」

「まぁそう言うな。寄ってけ」

老人が手招きすると、背後に控える寺院への道が示された。拒絶しようとするノバラをあしらうように、老人はふらりと歩き出す。

逆らうことが許されない重圧に、三人は吸い寄せられるようにその後に続いた。ゴンベエは寺の境内で振り返ると、鋭い眼光でノバラを一瞥した。

ノバラは震える手で、この世界の通貨であるゼニーを無造作に放り投げた。

「酒屋へ行ってその金で買えるだけ買ってこい……。」

弟子たちが戸惑いながらもその場を離れたのを見届け、ノバラは深い溜息をついた。

その瞬間、ゴンベエの眼差しが、ノバラの妖艶な肢体を上から下へとゆっくりとなぞった。それは、欲情や下心といった類の視線ではない。かつて己が育て上げた弟子の身体を、ひび割れた陶器でも点検するように――、ただその内側に巣食う死の気配を慈しみ、憂う、あまりに深い親愛の情だった。

寺の静寂の中、ゴンベエは重い口を開く。

「……目に見えるところはそうでもないが、いばらの侵食がずいぶんと進んでいるようじゃな。」

ゴンベエの指摘に、ノバラは膝をつきそうになり、必死にそれをこらえた。彼女の着物の隙間から、黒い荊棘けいきょうのような紋様が、毒のように肌を這い上がっているのが見えた。

「茨の呪い……。今のその痛み、立っておるだけでも奇跡じゃぞ。……酒で誤魔化すのも、もう限界に近いようじゃな」

「……黙れ。そんなことはどうだっていいんだよ」

寺の冷たい空気の中で、ノバラは殺しきれない苦悶の吐息を深く漏らした。

「……おヌシたちがここを通ることは、ずっと前から分かっておったよ」

ゴンベエはぼんやりと空を見上げたまま、穏やかな声で続けた。老人の持つその特別な『眼』は、人の理を越えた少し先の未来を捉えることができる。

「あんなに子どもたちを連れて、一体どこへ行こうと……いや、あんな死地へ何をしに行こうというんじゃ?」

ノバラは唇を噛み締め、何も語らない。その沈黙は、激しい拒絶であると同時に、隠しきれない諦念の色を帯びていた。

「薄々気づいているんじゃろ。……そのキザムという若者の身に宿る『火』の古代文字を求めている者が、何者なのかを」

ゴンベエはゆっくりと視線をノバラに戻した。

「かつておヌシと共にワシの元で古代文字を学び、苦楽を共にしたあやつだということをな」

ノバラの肩が、わずかに震えた。依然として沈黙を守る彼女だったが、その瞳に宿る微かな揺らぎが、ゴンベエの言葉が真実であることを雄弁に物語っていた。

「……否定せんか。そうか」

ゴンベエは深い溜息とともに、枯れ木のような指で地面を突いた。

「ノバラ、おヌシはかつて『最強のくノ一』と謳われた天才じゃった。しかし、今のその体はどうじゃ。茨の呪いにより、全盛期の三分の一の力すら出せぬ状態――そんな無様な体で奴と対峙して、何ができるというんじゃ。そんなの、ただの犬死にに過ぎんぞ」

老人の言葉は残酷なまでに正確だった。ノバラの心臓を、冷たい氷の杭で刺し貫くような現実。

「……知ったことか」

搾り出すようなノバラの声には、力はなかった。だが、そこには呪いさえも焼き尽くさんとする、狂おしいほどの執着が燃え上がっていた。

「……そうか。やはり、どうしても行くと言うのか」

ゴンベエは深く息を吐き、老いた肩を落とした。老人の顔には、かつて己が育てた天才の破滅を前にした、深い諦念と静かな覚悟が浮かんでいる。

「仕方ないのぉ」

まずは自分自身に言い聞かせるように、老人は小さく呟いた。

そして、目の前で揺るぎない覚悟を見せるノバラの瞳をじっと見つめ、師匠としての己を納得させるように、もう一度、深く強く言い放った。

「……仕方あるまい」

ゴンベエは懐から古びた徳利を取り出した。

「ワシにはその茨の呪いを解くことはできぬ。だが、おヌシの内に眠る『言霊のチカラ』を、全盛期とまでは言わぬが、強引に解放してやることはできる。……ただし、代償は小さくないぞ。呪いの侵食は劇的に早まる。すなわち、残された命を猛烈な勢いで削り取ることになる」

ノバラは迷いなく、冷徹なまでの決意を瞳に宿した。

「そんなもんでいいなら、いくらでもくれてやるよ!……ただし、キザムたちには何も言うな。今のことは墓場まで持っていけ。それがただ一つの条件だ」

「フッ、相変わらず短気な弟子よ」

ゴンベエは無言で徳利を傾け、盃に琥珀色の液体を満たした。それはただの酒ではなく、過酷な秘術の触媒となる、老兵の隠し薬のようだった。

「飲め。四半刻もすれば効いてくる。それまでは、全身の骨が軋むような絶え間ない激痛がおヌシを襲うが……耐えられるか?」

ノバラは喉を鳴らして唾を飲み込み、震える手で盃を受け取ると、一気にそれを飲み干した。

喉を焼くような熱が食道を通り、全身の血管へと奔流のように流れ込んでいく。ノバラは盃を握り潰さんばかりの力で握りしめ、襲い来る激痛の波に備えて、唇を固く結んだ。

「茨の呪い」に蝕まれながらも、狂おしい執着を燃やし続けるノバラ。

かつての師・ゴンベエとの再会によって、彼女の抱える「死の覚悟」がより鮮明になりました。

全盛期の力を強引に引き出す代償は、彼女の残り少ない時間を劇的に削り取る行為……。それでも彼女が歩みを止めない理由とは一体何なのでしょうか。

キザムたちに隠された、ノバラの哀しき「真実」に少しだけ近づけた回だったかと思います。

今の彼女の姿に、胸が締め付けられる思いがします……。

この先の展開が気になる!という方は、ぜひ「いいね」や「ブクマ」で応援していただけると本当に励みになります!

読者の皆様の応援が、執筆の最大の燃料です。次回、その「激痛」を乗り越えた先にある変化と、再び動き出す一行の運命にご注目ください。

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