巣食う者、救われる者
自我推参
天焔は朝日に溶け、咆哮は風に攫われていった。暗くさえ感じる、静まり返った辺りの様子をそっと窺うエセルは、自身の背後に雌の白狼族が立っていることに気付く。彼は反射的に身を屈めたが、その白狼族が正気を失っている感はなかった。むしろ、状況がわからないだけのように見える。
エセルは子どものようにセレスティアに目を向けた。上手くいったのか、確信がなかった。セレスティアは茫然と、突如として現れた白狼族を見つめていた。何かが彼女を強く刺激していた。彼女にどう振舞うべきか戸惑わせる程度には。やがて、彼女は思い出したかのように一歩踏み出した。
「……エッタ」
彼女は呟き、怯えるような目つきでその白狼族を見上げた。これといった反応が返ってこなくとも、セレスティアは確かな郷愁を噛みしめ始めていた。
「エッタなのね」
そう言われ、エッタというらしいその白狼族は愚鈍にセレスティアを見下ろした。
「儂か?」
「そうよ。あなたはエッタだわ。白狼族の始祖、そうでしょう?」
「わからんな」
冷淡というよりも、あまり興味が湧かない様子で、白狼族の始祖は頭を掻き、周囲を睥睨した。まだ屍たちは痺れたように動かずにいた。エセルは天の焔の言葉――彼らは一片の記憶と共に蘇る、だったか――を思い出したのか、期待に満ちて口を挟んだ。
「じゃあ、何か覚えてることはないか?」
エッタは従順に首を傾げて考えた。それはそれは、エセルがじりじりとし始め、セレスティアをも当惑させるほどじっくりと。彼らにはそんな悠長に待っている余裕はないというのに。すると、エッタはさも考え込んでいたことを忘れたかのように大きく伸びをしてから叫んだ。
「……腹が減った!」
*
メリッサを背に乗せ、アリステアの屋敷を目指していたアントは、集落から響いてくる圧巻の遠吠えに思わず足を止めた。耳をぴんと立ててなかなか動き出さない白狼を、メリッサは不安げに両手で撫でる。
「向こうで何が起きてるの?」
アントははっとして、首を屋敷の方角に回した。変身していては、人の言葉を解することはともかく話すことはできないので、彼はメリッサの質問に答えることなく再び駆け出した。メリッサは彼の背に必死で掴まりながら、集落の状況を何とか見定めようとした。せめて兄の無事がわかればいいのに。
そのまま、アントは決して足を止めることなく走り続けた。人の足で目指すのとは違い、件の屋敷がある丘は早くも彼らの眼前に迫っていた。悩ましげに曇った顔つきをしていたメリッサは、ふと首を振り、意を決したように屋敷を見上げた。何も解決できない可能性を考えないようにしているらしかった。
屋敷の前に着くなり、アントはほとんど振り落とすようにメリッサを背から下ろし、玄関の扉を乱暴に叩いた。
「アリ!出てこい!いるんだろ?」
返事はなく、人の気配もないように思われた。だが、感覚の鋭い白狼はすでにアリステアの存在を察知していた。彼は迷うことなく扉を蹴破ると、その勢いで屋敷の中に飛び込んだ。メリッサは驚きのあまり、すぐには動き出せなかった。
「ちょっと、アントさ――」
「アリ!どこにいる!?」
メリッサが止めようとするのも聞かず、アントはずかずかと部屋を歩き回り、目についた扉から開け放っていった。一族の危機に対する焦燥感は、どうやらわずかに彼を鈍らせていたと見える。アリステア少年はいつからか階段の踊り場に立ち、闖入者を冷ややかに見守っていた。先にそれに気付いたのはメリッサだった。
「いたわ、アントさん!」
そう聞くや、アントはきっとして彼女の指さすほうに目を向けた。少年と白狼族の目線がかち合い、激烈な情動が雷のようにその間を走った。アントは無意識に握り拳を固める。
「この……」
「待って、飛び掛かってどうするの……ねえ、あなたがアリステア君なのね?」
メリッサは強引にアントを止めると、野生動物を相手取るように慎重な動作でアリステアに歩み寄った。少年は沈黙を守ったまま後退る。強張ったその表情からは大したことは読み取れない。
「私はメリッサよ。あなたとお話ししたいの」
「……話すことなんかない」
侵入者たちを見下ろすアリステアの声は酷く侮蔑的だった。まるで彼のほうがはるかに上の立場にいるかのようである。メリッサが委縮した隙に、アントががなる。
「サラはどこだ、アリ?」
「知るもんか!」
打てば鳴る、というわけである。メリッサは苛立った様子でアントの肩を強く押した。
「もう、落ち着いてったら!喧嘩してる場合じゃないのよ!アリステア君、今、白狼族の集落で何が起こってるか知ってる?」
殺伐とした空気に流されて、彼女はやや挑戦的にアリステアに歩み寄った。少年は大きく一歩下がり、平静を取り戻して彼女を冷ややかに睨みつける。
「知りたくもないよ」
「わかってるのね。そうでしょう?」
と、メリッサは確信めいた笑みを浮かべる。その面立ちはどこか邪悪さを帯びてさえいた。少年は眉根を寄せて彼女を熱心に威嚇していたが、堪えきれなかったのだろう、ついに目を逸らした。そのときには、彼女の表情は普段の穏やかで可憐なものに戻っていたのだが。メリッサはふと動き出し、再び彼との距離を詰めていく。
「ねえ、もしもあの惨劇を止める方法を知ってるなら、どうか私に教えてちょうだい。今すぐにでも止めないと、もっと酷いことになるわ」
彼女が階段を上り始めても、アリステアは逃げ出さなかった。降伏したも同然である。メリッサは踊り場に辿り着くと、一呼吸おいて少年を見つめた。それから、彼女は最後の一歩をおもむろに踏み出し、少年に触れようと手を伸ばす。
「ね?あんなこと、止めないと――」
「違う、僕の知ったことじゃない!」
アリステアはふと目を見開き、獰猛に怒鳴った。差し出された手を力の限りで叩き、階段を駆け上がる。追いかける間もなく、二階の部屋の扉が音を立てて閉じられた。呆然とするメリッサの横をアントが駆け抜け、すぐに彼が扉に体当たりする音が聞こえてきた。メリッサは今にも泣き出しそうに見えた。これまで誰も、彼女の愚父でさえ、彼女に軽蔑を込めた一撃を与えたことなどなかったのだ。ああ、だからなのか、君が誰とでもわかり合えると本気で信じているのは?
だが、挫けている暇など彼女にはなかった。アントとアリステアは聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせ合っていて、アントが扉を破って少年に殴りかかるのも時間の問題だったのだ。メリッサは祈るように両手を組み合わせた――考え事をするときの癖である。焦りが募り、それは涙に変わって惨めに頬を伝った。そのとき、彼女は一つ、自棄とも言える策を閃いた……。
*
腹が減った――その叫びを聞き、エセルは口を半開きにして凍り付いた。聞き間違えるはずもないその言葉を、どう考えればいいのかわからなかった。彼は束の間、自身の置かれている状況を忘れかけたが、それも屍の濁った呻き声を聞くまでのことだった。始祖の一喝の効果が切れつつあったのだ。エセルはぎこちなく拳を固めた。
「まずいぞ、セレスティア……」
「思い通りにはいかないものね」
セレスティアは物憂げにため息をつき、再び牙を見せ始めた群れに視線を流した。ここで彼らを足止めする以外にできることはなく、メリッサとアントが何か手を打つことを待つしかないわけだが、とっておきだと思われた始祖の復活がいまいちな結果に終わっては、万事休すも良いところであった。エセルは苦笑した。窮地に立ったときに頭を持ち上げる楽観に蝕まれつつあるらしい。
「なあ、エッタ……さん?こいつら、どうにかしてほしいんだけど」
「どうにかとは何だ。儂の子らぞ?」
「死んでるのに動き回ってるんだよ」
「うむ、匂うわ」
エッタは鼻をひくつかせた。寝起きがこれとは、彼女も可哀想に。彼女は物怖じする様子もなく群れに歩み寄り、最前にいた屍の顔を覗いた。と、その屍が爪を振りかざし、敬愛していたはずの始祖に襲い掛かる。エッタはむんずとその白狼族の首を掴み、群れに向かって叩きつけた。それから、不満げに首を鳴らす。
「嫌なものよな」
「そんな感じで全部やっつけられないかな」
「腹が減っては戦はできんからのう……」
エッタがぼやくと同時に、盛大に彼女の腹が鳴った。暢気なものである。セレスティアは訝るように首を傾げた。
「ご飯を用意している暇はないのだけれど」
「わかっておるわ、まったく。それで、何をしでかしたら死んだ儂の同胞が動き出すのだ?」
「別に俺たちが何かやっちゃったわけじゃ……誰かが操ってるっぽいんだけどさ」
エセルは辟易して言いながら、そっとエッタの背後に陣取った。懲りない奴め。エッタはそれには気付かない様子で、ふと辺りを見回し、あるところに目を止めた。片眉をひそめ、顎をしゃくる。
「あやつか?」
エセルとセレスティアは同時に振り返った。それは屋敷のある方角で、まだ屍の群れは到達していなかった。そこにぽつりと、正気は保っているらしい白狼族の姿があった。それは彼らのほうに軽やかな足取りで向かってきていた。距離が離れていて表情は読み取れない。セレスティアが目を凝らし、はっと息を呑んだ。
「あれ、サラじゃないかしら」
「誰?」
「アリステアの屋敷で会ったでしょう。何だか、きな臭いわ」
エセルは険しい顔で記憶を手繰り、近づいてくるサラを見つめた。片目を覆う包帯には見覚えがある――確かに、屋敷で彼らをにべもなく追い返した白狼だった。エセルは嫌な気配を察して群れを振り返った。屍たちはいやに大人しい。犯人を知るのに、それ以上の情報はいらなかった。
「きな臭いどころの騒ぎじゃないな」
そう言ったエセルの顔つきはどこか明るかった。状況は悪い。だが、これは新たな道が開けたということでもあるではないか!
「あやつからも死人の匂いがするからのう」
エッタが何気なく言った。
「何だって?」
「あれは死んでおるぞ。生者の気配ではまずないわ」
「だとしたら、群れを操ってるのはまた別の誰かってことか……」
サラを叩きのめせば問題が解決するという望みが断たれ、エセルは落胆して肩を落とした。彼は近づいてくるサラのにやけ面を腹いせに睨みつけた。彼女はそのおよそ怖くはない威嚇を間近に迎え撃った。
「はずれー。私がやってんだよねー」
「は?」
「だからー、そこの奴ら動かしてんの私だし」
と、サラは一行の背後に立ち並ぶ屍の群れを指さす。エセルはまたも気勢を削がれたというわけだ。彼は気詰まりしたように頬を掻き、ため息交じりに言う。
「やめてくれって言ったらやめてくれるか?」
「なわけ。援軍来たら困るし」
「援軍?」
「だって、こんなとこにニンゲンが普通に来るわけないじゃん。アントの大馬鹿が助け求めたに決まってるんだよね。だから、ニンゲンたちが大勢来る前に一族潰しちゃおうってわけ。賢いでしょ?」
サラは子どものように胸を張った。つまり、この百鬼夜行のきっかけは、エセルとセレスティアが屋敷を訪問したことにあったのだ。とんだ疫病神ではないか?セレスティアが悩ましげに額に手を当てる。
「……誤解があるみたいね」
「悪いけど、騙されないから。邪魔もさせないし」
サラは傲然とセレスティアの胸に指を突き立て、へらへらと笑った。セレスティアはじっと動かず、黙って相手を見据える。その挑戦に、サラの口元が不愉快そうに歪んだ。その二人を見下ろして、エッタは大きく息を吐いた。
「これが同胞だとは思いたくないのう」
呆れた眼差しを受けて、サラはついに不満を全面に押し出した。圧倒的な優勢を取っても場を掌握できないのが気に入らないのだろう。
「何、この婆?こんな偉そうな奴いたかなー」
「それでも儂の血を継いだ子か」
「は?継いでませんけど」
「何を言うか。儂は……儂はな……えー、おぬし、何だったかのう?」
と、エッタはいかにも真剣にセレスティアに目をやる。セレスティアはサラから目を逸らさずに答えた。
「白狼族の始祖よ」
「そう、それよ。だから、おぬしも儂の子よな」
「意味わかんないけど。何でもいいから死んでよ」
サラは標的をエッタに切り替えるや、今度は睨み合いもせずに彼女に飛び掛かった。エッタは白い目をして首を振る。
「身の程知らずめが」
それは実に容易いことだった。エセルやセレスティアが身構えるよりも早く、白狼族の始祖は飛んできた小石でも掴むかのようにサラの首を捉え、彼女を宙吊りにした。サラがどれだけ暴れても、はるかに体格の良いエッタにその爪は届かない。だが、それでもサラはどこか勝ち誇った目をしていた。何かがおかしい。エッタは首を傾げてしばし考え、それから合点がいったように額を叩いた。
「……参った、殺せぬな!もう死んでおるではないか」
「そうだよー。生きてるあんたたちが死人に勝つ方法なんてありませーん。残念でした!」
サラがけたたましく笑い声を上げると、それに共鳴するように屍の群れが動きを見せた。エセルが反射的に身構える。そして、彼の首筋にまたも竜の鱗が浮かび上がり、消えた。彼自身は気付いていないのだろう――が、それを目撃したのは私だけではなかった。セレスティアの紫苑の瞳が、まっすぐに彼の首に向けられていた。見間違いではないかと、彼女は目を瞬かせた。それは単なる驚愕ではないようだった。過去の残滓、それも、これまで彼女が直面してきたものとは比にならないほど強烈な刺激――。
彼女はそれに耐えかねた。彼女がよろめいたことに、エセルは気が付かなかった。彼は彼女が大地に崩れ落ちた音を聞き、ようやく振り返った。そのとき、群れがついに攻撃を再開する。飛び掛かってくる白狼たちを前にして、エセルは躊躇いもせずにセレスティアに覆い被さった。固く目を瞑り、襲いくるはずの痛みのことは考えないように。
私は起こり得る惨劇を想像できるどころか知っていたので、ここで一度観察を止めようかと思った。だが、彼の首筋にほんの一時現れた片鱗が、それを私に思い止まらせた。私はここに発生するもう一つの可能性に、いささか興奮してまでいた。そして、彼はその期待に応えてくれた。
屍の牙も、爪も、エセルの身体に傷一つ与えることはなかった。彼は奇妙な感覚に目を開け、カルツァでの出来事の再演を目の当たりにして息を呑んだ。あのときのことは奇跡でも何でもなかったのだ。望外のことに思考が停止して、彼はすぐには動き出せなかった。動けたにせよ、彼の力では、圧し掛かる屍たちを振り払うことはできなかっただろう。その役目を果たしてくれたのはエッタだった。彼女は二人の人間に食らいつこうとするかつての同胞たちに爪を振るい、何匹かの首を飛ばした。そして、けろっとしているエセルに気付き、眉をひそめる。
「何だ、おぬし、無事であったか」
「うん……そうらしい」
「その娘はどうした?」
エッタは爪の間に入った腐肉を振り落としながら尋ねた。エセルはいささか頼りないよろめき方をしながらも、セレスティアを抱えて立ち上がる。
「わからない。とにかく、逃げないと」
「儂は構わんが、おぬしが逃げきれるかのう」
「俺は大丈夫だ」
彼は噛まれたはずの箇所を一応目視で確かめた。痕一つない。それでも、彼は全面的に自身を信用できないようだが。
「……多分ね。だから、エッタさんはセレスティアを守ってくれないかな」
「ま、それが良いであろうな」
エッタは片手で彼の腕からセレスティアを抱き上げた。すると、サラが口角を上げて牙を見せた。
「ふーん。じゃ、その子狙っちゃおうかなー」
最早エッタに抵抗することもなく脱力してぶら下がっている彼女を、エセルは信じられないという顔つきで見上げた。彼が弟妹と盤上遊戯で遊ぶとき、誰も絶対にしないのが、相手の弱みに付け込んで優位に立つことだった。ちなみに、それはロイドが使う常套手段である。
「何だよ、卑怯者!」
「何とでも言えばー。私、どうせ死んでるし?何言われても痛くも痒くもないっていうか。何なら、痛覚ももうないじゃん?」
サラは言い、退屈そうに足を揺らした。エッタは心底気に入らない様子で彼女を眺め、腹いせか、腕を振り下ろした。生き物の肉体が地面に強く叩きつけられる嫌な音がしたが、サラは少しも気に掛けない様子で笑ったままだった。そして、屍の群れに新しい指令が下された。
*
「つまり、あなたがおっしゃっているのは」
ジリアンはそう口を切ったが、ロイドの話を理解できたという自信はあまりないようだった。彼女が不審を顔に出すのは珍しいことである。
「女神王が悪魔を敵対視するのは、何か別の目的を隠すためだということですか?」
「そういうことだよ、ジル。悪魔は基本的に有用だし、閉じ込めておくくらいなら武器として使ったほうがいいに決まっている。女神王にしてみれば、悪魔の能力を恐れる必要もないはずだ」
「ですが、その隠された目的というのは?」
「さてね。だけど、どうしても引っかかる。悪魔を殺さずに檻の中に閉じ込める、そのわけが知りたいんだよ」
ロイドは言い、空中で胡坐を掻いた。彼いわく、その姿勢はかなり集中できるらしい。ジリアンは少し離れたところに立って彼を見上げていた。その顔つきは暗く、物思わしげだった。
「……お伺いしたいことがあるのですが」
「知らないよ」
ロイドが素早く答えた。ジリアンの眉根に皺が寄る。
「まだ何も申し上げておりません」
「でも、わかるよ。君の息子の……エイブラハムだったか、あの子のことでしょ?悪いけど、僕は獄中のことは何も知らないんだ。地下牢に下りる許可をフランセスカがくれないものでね」
「あの子の安否を確かめる方法はないのでしょうか?」
ジリアンは取り縋るように尋ねた。彼女が自身の子どものことをそう気にかけているとは思わなかった。もっと、人に興味を持たず、淡々と運命を受け入れ続ける温度のない人間ではなかったか?私の見当違いなのだろうか?ロイドは目を逸らそうとするかのように仰向けになった。
「イーサンを送ればいいかもしれないけど、彼は今出かけているからね。それに、牢獄の番人はコスタトの人間で、おそらくかなり目ざとい。彼であっても見つからないとは限らない以上、君の子どもの安否を確かめるためだけに危険を冒すことはできないな」
「ええ、そうですね」
彼女は無機質に答える。何だ、もう諦めたのか。
「ジリアン、僕は気休めを言う性質じゃない。はっきり言って、年端のいかない子どもがあの劣悪な環境を耐え抜くのは難しいと思うよ」
ロイドはあえてそう言い、床に降り立った。彼は腑抜けたことを嫌っているから、ジリアンが女々しいことを言い出したのを良く思っていないはずだ。そう私は考えたのだが、しかし、彼はジリアンの固い表情に潜む苦悶の色を見つけ、憐れむように顔つきを柔くした。
「……彼に纏わる未来は見られないの?」
「とても見ようとは思えないのです」
ジリアンは消え入りそうな声で言った。ロイドは狼狽えたようだった。
「まあ、望みはまだあるさ。悪魔と呼ばれる彼らは、普通の牢獄に捕まる極悪人とはわけが違う。ずっと善良な人だっているだろう。だから、幼い子をよく見守ってくれているかもしれない」
「それは気休めですか?」
「いいや、可能性の提示さ。僕の主義は単純明快なんだよ。ありもしないことは言わない、それだけだ」
確かにそれは彼の最も明白な性質である。だが、それと同じくらい彼は人間臭い男で、合理性と義侠心を天秤にかけては、際のところで前者を取り、そのことを悔やみながら明日のために眠りに落ちる、奇妙な賢人なのだ。だから私は彼を好いているわけだが。
さて、彼は切り替えるようにわざとらしい微笑みを浮かべた。
「話を戻すけど、もし何らかの理由で、女神王が悪魔の力を取っておきたいと考えているなら、彼女が使う前に横取りするのが一番ってわけだ。向こうの狙いや悪魔が秘める可能性のことは、イーサンが探ってくれている。集めた情報を総合して、それが僕の推論と一致するなら、行動を起こすのはそう遠い未来ではなくなる……君も心の準備をしておいてほしい」
「承知しました」
ジリアンは諾い、早々に踵を返した。が、すぐに思い出し、懐から一枚の紙を取り出す。
「忘れるところでした。娘がまた夢を見たと言って、これを」
彼女はそれをロイドに手渡した。おや、我らが画伯ライザの絵ではないか。そこには食卓を囲む四人の人物が描かれていた。老紳士に、若い淑女、彼らに不似合いな身なりの青年、そして、少年に見えなくもない、宙に浮いた男。ロイドは最後の人物を指さした。
「これは僕に見えるな。だけど、他の三人は誰だろう?」
「さあ……ライザが何を見ているのかは、いまだにわからないままですから」
そう言って、ジリアンは短く息をついた。ロイドはとっくりとその絵を眺め、何も得るところがなかったのか、軽快に肩をすくめた。
「ちょっと考えておくよ。この絵、もらっていいの?」
「ええ、どうぞ」
「良かった。どこかに飾ることにするよ。この部屋は殺風景すぎるからね」
タイトルが思いつかないときはどうすればいいんだよ




