因果混濁
自我
メリッサは指先を弄りながら階段を上がり、アントの横に立った。彼はまさしく狼のように吠えたて、乱暴に扉をこじ開けようとしていた。扉の向こうから、同じような調子で何かわけのわからないことを喚くアリステアの声がしている。メリッサは暴れるアントを全力で引っ張り、彼に半分以上流れているはずの人間らしさを取り戻させた。それから、彼女は突然アントにしがみついた。
「どうしよう、アントさん!このままじゃ、もうおしまいだわ……お兄ちゃんも、他の皆も、あのおかしな白狼族たちにずたずたにやられて死んじゃうのよ!」
そう彼女は泣き喚いた。エセルを兄と呼ぶことは今ではほとんどないくせに。それに、抑揚がつきすぎていて、傍目から見るとあまりにも馬鹿馬鹿しい。アントは状況が飲み込めず、縋りついてくるメリッサをただ唖然として見つめた。
「な……どうしたんだ、急に?」
「どうしたもこうしたもあるものですか!皆、皆死んじゃうのよ?こんなのってないわ!」
おいおいと涙を流すメリッサ――とんだ役者である――を、アントはたじろぎながら宥める。ニンゲンは突然感情を爆発させるものなのだろうか、と言いたげな顔だ。
「ああ……なあ、落ち着いてくれよ、メリサ。アリの奴が何か知ってるに決まってるんだ、今すぐにそれを聞き出せば――」
「これじゃ聞き出せっこないわよ!私たち、何もできずに皆が殺されるのを見てなきゃいけないんだわ。あの子、きっと人の心っていうものがないのね……ああ、可哀想なお兄ちゃん!」
メリッサは甲高く叫び、大袈裟に号哭した。それもこれも、泣き落としでアリステアを折れさせることができると思っていた――彼女自身、絶対に泣いている人を見過ごすことができないからだが――故の行動だった。だが、徐々に偽りの涙は減り、そこにできた隙間を嘆きが形になって埋めていった。現時点で一番あり得る筋書きを大袈裟に言い立てるほど、悲哀が根気を凌駕していくのだろう。彼女の腕から力が抜け、とても演技とは思えない啜り泣きが始まったとき、アントはようやく正気に返ったように見えた。彼はどこか傷ついたような眼差しを彼女に向け、それから扉を見やった。怒鳴っても解決しないと、初めて気が付いたかのように。
「……おい、アリ。これがお前の望みなのか?」
返事はなかった。
「何の罪もない奴らを皆殺しにしてどうするんだ?何でそんなことをしたい?お前が俺たちを恨むのは何故なんだよ?」
「恨んでるのは僕じゃない。お前たちが僕たちを恨んでるんだろ」
アリステアの声の調子はまさに嵐の前の静けさであった。アントは顔を引きつらせた。
「何を……」
「だってそうじゃないか!否定できるならしてみろよ!第一、お前たちは母様が病気だったとき、少しも助けてくれなかった!なのに、何で今、僕がお前たちを助けなきゃならないんだよ?後悔しても遅いぞ……お前たちみたいな犬っころ、野垂れ死ぬのが似合いなんだよ!」
その憤激はアントを強く殴りつけたようなものだった。頭に血が昇り、アントは再び怒号を上げようとした。が、彼を見上げるメリッサの震える瞳がそれを思い止まらせた。彼は深呼吸をして扉に向き直った。
「お前の母親が死んだのは俺たちのせいじゃない。俺たちに何ができた?お前だって、何もできなかったんじゃないのか?」
「うるさい!わかったような口を利くなよ!お前が……お前が町まで走って人を呼んでくれてたら、母様はもっと長く生きられたかもしれないのに!忘れてないぞ、あのときお前が言ったこと……そんなことをする義理はないって、お前はそう言ったんだ!」
「それは事実だった。お前の母親が俺たちをどう扱ってきたかは忘れたのか?」
「黙れ!お前は友達だと思ってた……信じてたのに!」
喉に限界が来たのか、アリステアは乾いた咳をした。それから、微かにしゃくり上げる音が聞こえてきた。扉の向こうにいるかつての親友の耳に届かぬよう、何とか声を押し殺そうとしているらしかった。そのどうしようもなく無駄で悲痛な試みに、アントは力なく頭を抱えた。
「……ああ、友達だったよ」
彼はそれがアリステアであるかのように、扉にそっと触れた。額を預け、深くため息をつく。
「なあ、アリ。開けてくれないか。顔を合わせて話がしたいんだ」
鼻を啜る音がその問いかけに応えた。息の詰まる沈黙が走る。辛うじて泣き止んでいたメリッサは、よろめくように廊下の窓に近づいた。そこから、集落の様子が見えるかもしれないと思った。彼女は気が付いただろうか、白い点の集まりが輪を作り、一人の青年と一匹の白狼族を取り囲んでいるということに?ああ、あちらを見にいくことにしよう。
*
「きりがないのう……」
エッタは呟き、頭を掻こうとしたが、両手が塞がっていることを思い出してため息をついた。彼女は一方の手でサラの首を掴み、もう一方の腕を使ってセレスティアを抱きかかえているままだった。前者はまるで武器であるかのように屍に向かって振り回されていたが、やはりぴんぴんとしていた。後者は目覚める気配もない。
屍の群れが動き出したとき、エセルはエッタに上手く逃げてもらおうとして、両者の間に立ちはだかった――だが、屍たちは彼の勇気になど目もくれず、まっすぐにエッタを追いかけ始めたのだった。押し寄せる群れに、エセルは結局エッタに並ぶことしかできなかったし、その上、群れが彼らを囲むことをあっさりと許してしまった。だから、サラ率いる群れは、あとはじっくりと獲物をいたぶるだけで良かった。
そうはさせるか。エッタはサラと自身の脚を振り回し、何とか道を切り拓こうとしたが、気付けば群れは収拾がつかぬほど数を増し、数匹倒したところですぐに補充が来る事態になっていた。エセルは屍に噛みつかれる度、青くなって目を強く瞑ったが、結局傷を受けることはなかった。彼に矛があれば完璧だったかもしれない。
「わざわざうちの一族を助けにきただけのことはあるよねー。こんなことなら、もっと早く攻撃仕掛けるんだった」
サラがエッタの肩越しにエセルを見下ろして言った。エッタは彼女を睨みつけ、首を掴む手に力を込めたが、当然ながら効果はなかった。サラはさも愉快そうに全身を震わせて笑う。
「あ、そーだ!あんたらの目さえ潰しちゃえばこっちのもんじゃんね?婆もそこのニンゲンも、能力が使えなかったら持たないよねー」
良い考えを閃いたとして、そう大声を上げる必要はまったくないし、いくら何でも愚かな奴だと私は思うのだけれども、切迫した状況では誰が何を言ったかをよく考えようとはしないのが人間というものである。
エセルはサラの言葉を聞いて真っ先に目を腕で守った。眼球でも、ともすると攻撃を通さないということはないのだろうか?気軽に試せないのが残念である。彼は慌てふためいて叫んだ。
「俺は悪魔じゃないんだよ!」
「そんなの信じると思った?馬鹿だと思ってんの?」
サラが嘲笑うと同時に、数匹がエセルに飛び掛かった。彼はなすすべなく押し倒される。両腕を顔の前にかざすや、幾本もの牙がそれに齧りついた。白狼が眼前に迫り、エセルは思わず顔を背けた。腕を押し出すようにして何とか距離を取ろうとするも、何匹も相手にして勝ち目があるはずもない。彼は足を振り回してみたが、ほとんど意味はなかった。
「くそ!なあ、ちょっと、エッタさん!」
「何だ、小僧?」
「あの、助けて……」
「自分の身は自分で守らんか!儂はこの娘を守るので手一杯よ……こやつ、いつになったら起きるのだ?」
と、エッタはこの状況にしては安らかに眠っているセレスティアを困惑して見つめた。その問いかけに答える余裕もなく、エセルは何とか彼の上に乗る屍たちを退けようともがき始めた。片腕で目を保護しつつ、もう一方の手で、何か武器になるものはないかと辺りを探る。すると、屍の膝の間で、手頃な石が指先に当たった。彼はそれを何とかつかみ取り、先の細くなったほうを刃のように構えると、最も近くにいた屍の顔に思い切りぶつけた。それは運良く――と言わせていただこう――その白狼の目に命中した。その屍が怯んだように見えたのは、痛覚があるからではなく、眼球の損傷に伴う弱体化に身体が反応したからである。が、青年がそれを理解していたとは言い難い。
エセルはその隙に素早く身を捩ってうつ伏せになると、必死で目を覆いながら、屍を引きずって無理やり立ち上がろうとした。だが、圧し掛かってくる重みで腰が上がらず、衣服が爪に引き裂かれてみすぼらしくなっていくばかりであった。彼は苛立ち、石を持った手をがむしゃらに振り回した。もちろん、自分の目を必死で守りつつ。
「……あ」
おや、今更気付いたか。青年は自身の発見に感心したようにゆっくりと頷くと、今度は狙いを定めて敵の目潰しにかかった。動きを制限されている以上、そう容易くはいかなかったが、数回の試みの後、一撃が上手いこと屍の眼球を潰した。あまり気持ちの良い感触ではなかったらしいが、ともあれ、また新たな隙が生まれた。
彼はやっとのことで屍を振り払い、エッタにほとんど張り付くようにして立った。
「エッタさん、俺たちも目を狙おう!白狼の力がなくなれば、牙も爪も怖くない!」
「面倒よのう……腹も減ったし……」
エッタがぼやき、その言葉を裏付けるように、彼女の腹が大きく鳴った。苦笑する余裕はエセルにはなかった。
「そんなこと言ったって、死体が動く謎が解けるまでは耐えるしか……」
と、そう呟いたとき、彼ははっとして静止した。いや、よく気付いたではないか、本当に。彼は群れに囲まれていることも忘れたかのように振り返り、綽々とぶら下がっているサラを見上げた。死体のくせして、何故片目を包帯で覆っているのか?
「……なあ、瞳に力が宿るんだったらさ、眼球を上手く使えば、死んじゃった誰かの能力を発動させることができるとか、そういうことってあり得るかな?」
サラの目つきが変わる。だが、エッタのほうは要領を得なかったらしい。
「何を言っておるのかわからん!」
「だから、サラがルーシャって人の力を使える理由って――」
「知らん!ようわからんが、勝手に試してみい!」
空腹で不機嫌なエッタは、考えもせずにサラを地面に放り出した。
「あ、馬鹿!」
咄嗟に叫び、エセルはサラを捕まえようと手を伸ばす。が、彼女は生者では取りようのない体勢でその手をかわすと、屍の群れの中に飛び込み、逃亡を図った。後を追おうとするエセルの行く手を屍が阻む。エセルはかっとしてエッタを顧みる。
「何で手放したんだよ!」
「うるさいのう!幼子のようにむつかりおって」
子どもっぽいのはどっちもどっちだろうに。
「あいつを止めないと、こっちが消耗してくだけなんだぞ!」
「知らん知らん!何とかせい!」
「本当に始祖様かよ……」
エセルは呆れて独り言ち、辺りを見回した。屍の壁の向こうで、どこか焦燥した顔つきのサラが彼らを見つめていた。
「遊びは終わりだから!生きて帰れると思わないでよね!一族を皆殺しするまで、誰にも邪魔はさせない!」
そうがなり立て、彼女は無理に勝ち誇った面立ちで包帯を外した。緋色の瞳が露わになる。それは彼女の本来の瞳ではなかった――亜人の瞳は黄金に輝くものである。今は亡きルシア、アリステアの母親の眼球に違いないだろう。目玉を奪い取るとは、悍ましいことを考え付いたものだが、しかし、よもや能力をもらい受けることが可能とは!とはいえ、本人の能力には劣るらしい。サラが騒ぐとき、屍はどうしても動きを止めるのだ。
「何でそんなことしたいんだよ!?」
エセルが怒鳴り返した。サラは強迫的な笑みを浮かべる。
「何で……?何でもだよー。そう、何でも……殺すって言ったら殺すの!そうすれば、ルシアはきっと喜ぶもん!」
鮮血のごときおどろおどろしさを失いかけ、桃花を覗かせつつあった彼女の瞳が再び緋く閃いた。エセルは身構え、エッタはため息をつきながら体勢を整え――そして、サラはよろめいた。
*
サラの身体に異変が起きる数分前のことだが、メリッサとアントは依然として部屋から出てこないアリステアに心を砕いていた。メリッサは兄の身を案じて気が気でなく、扉に掴みかかりたいところを、理性で何とか堪えているに過ぎなかった。アントは情けないことに意気阻喪していて、何か行動を起こすことができるようには見えない。自責の念に駆られるのなら、せめて今この瞬間に役に立つよう努めればいいのに。
「アントさん……」
メリッサは心許なく呼びかけたが、彼から明朗快活な答えが返ってくるわけもなかった。その態度が頭に来たのか、彼女は彼を扉の前から押し退け、そこに崩れるように膝を突いた。
「ねえ、アリステア君。お母様は……その、何て言ってるの?」
彼女はほとんど囁くように問いかけた。応えはなく、彼女は気まずく小さな咳払いをして続けた。
「聞いたの、あなたは死んだ人の声を聞くことができるって。お母様の声も、聞こえるんでしょう?」
「……聞こえない」
アリステアの掠れた声がした。またも少年に歩み寄ることに失敗したと思い、メリッサは悲しげに目線を落とした。逸る気持ちが再び涙腺を刺激した。
「そう、なのね……」
「母様の声だけは、どうしても聞こえない。何度も、何度も何度も、僕だって母様に呼びかけたよ。だけど、母様は答えてくれない」
アリステアは洟を啜った。彼の涙はもう枯れてしまっていた。それまでとは別の悲嘆がメリッサの心に広がった。攻略対象でしかなかった砦が、ふと人の形を帯びて立ち現れたかのように。少年は扉にもたれた。
「母様がいなくなって、アントにも会えなくて、僕は独りぼっちだった。でも、サラだけは傍にいてくれたんだ。サラも母様が大好きだったから」
「そのサラは今どこにいるの?」
「居場所はわかってる。何をしてるのかも」
アリステアはきっぱりと答えると、また口を閉ざした。メリッサは扉に手を当てた。温度のないその障壁は、少年を守っているのだろうか?それとも、ただ孤立させているのか?確かなのは、彼のいる世界があまりにも狭すぎるということである。幼気な少年の心を病ませるには十分に。
「……ねえ、ここを開けてくれない?」
メリッサはそうアリステアに尋ねてから、虚ろな目をアントに向けた。アントは黙ってその瞳を見つめ返し、鼻から深く息を吐き出した。二人が交わしたのは諦念であったかもしれない。が、少年は静かに言った。
「もう開いてるよ」
途端にメリッサは気を持ち直したようだった。彼女は少し痛む膝を無視して慌てて立ち上がり、そっと把手に手を掛けた。すんなりと開いた扉の先で、アリステアは多少居心地悪そうに立っていた。憐憫に突き動かされ、メリッサは少年を抱き寄せた。彼は驚いて身を捩る。
「な……やめろよ」
「駄目よ。やめてなんてあげないわ」
そう言いながらも、彼女の腕は羽のように優しく少年を包み込んでいるだけで、振り払いたければ簡単にそうできるだろうと思われた。だが、アリステアは大人しくその抱擁を受けた。身を震わせて涙を流す彼女に、少年はかえって冷静になったのか、呆れたような物言いで言う。
「何であんたが泣いてるんだよ」
「もっと早く、あなたに出会いたかったからよ」
メリッサは微笑み、おもむろにアリステアを解放した。少年は彼女を見つめ、何か言いかけたが、やめた。アントは彼らの傍に立ち尽くし、戸惑って頬を掻く。アリステアは彼のことも見上げたが、非難も再会の喜びも口にしなかった。その代わり、少年は部屋の奥へ向かいながら開口した。
「屍の群れを止めたいんだよな」
「何か方法があるのか?」
アントの期待に満ちた眼差しを、アリステアはぎこちなく受け流した。
「知らない」
「そうか……」
「でも、心当たりはある」
と、少年は抽斗を開け、中から布で包まれた何かを取り出した。それは緋い石で、彼の手のひらにずっしりと乗る大きさの代物だった。
「これ。サラが大事にしてるんだ」
「宝石ではなさそうね。何かしら?」
メリッサは屈んでその石をとっくりと眺めた。確かに宝石ではないが、美しさとはまったく別の奇妙な魅力がある。アリステアは指先でそれに触れた。
「わからないけど、母様の形見なんだって。これがないと生きられないって言ってたんだ。今まで深く考えたことなかったけど、生きられないなんておかしいよ。だって、サラはもう死んでるから」
「そりゃ、そうだが……つまり、どういうことだ?」
アントが落ち着かない様子で言った。アリステアは呆れた目を彼に向ける。少年は歳の割に聡く、白狼の頭領は歳の割に鈍い。
「この石には、母様の力が込められてるのかも」
「悪魔の力を宿すことができる石……聞いたことはないわね。少し見せてくれる?」
メリッサはそう言って手を差し伸べた。アリステアはわずかに躊躇いつつ、石を彼女の手のひらに転がした。彼女は窓辺に立ち、それを太陽の光にかざそうと持ち上げる。が、あろうことか手を滑らせた。ああ、どじなメリッサ!だから、いつまでも皿を運ぶときにジリアンに念を押されるのだ。
彼らは同時に間抜けた声を上げたが、それで落下が止まるはずもなく、緋の石は床に激突した。粉々にはならなかったが、一片が欠けて弾け飛んだ。そういうわけで、屋敷で気まずい沈黙が流れたとき、集落ではサラの身に異変が起きたのである。推すに、それは生者で言うところの、心臓を直接殴りつけられたかのような衝撃だったに違いなく、彼女には屍を操るどころか、指先を動かす余裕もなかった。かくして、エセルには絶好の機会が訪れたのであった。




