眠れる我々
自我
エセルはまんじりともせずに鬱々とした夜を凌いだ。あの白狼族の屍たちが今にも天幕をめくって姿を現すのではないかと思うと、とても安心して眠りに就けなかったのである。だが、何も知らないメリッサはもちろん、アントやセレスティアまでもがぐっすりと眠っていた。エセルは夜中に一度だけ、乾いた笑い声を立てた。
朝が来て、一番に起き出したのはアントだった。彼はエセルが目覚めていることに気付かない様子で外へ出ていった。ほどなくして、早起きが習慣づいているメリッサが大きく伸びをした。彼女は身を起こし、一番に兄に目をやった。目が合うと、彼女は声を出さずに彼に挨拶をしてから、そっと天幕の外を窺った。エセルは立ち上がった。
「ちょっとぐらいなら出ても大丈夫だよ」
彼は小声で言った。そんなことをしなくても、セレスティアはそう簡単には目覚めないと思うが。メリッサは口角をぐっと下げてみせた。
「どうかしら。私、これ以上アントさんに嫌われたくないの」
「嫌われてなんかないさ」
「そうだけど、そうじゃないわ」
彼女がぼやいたところに、アントが戻ってくる。彼は天幕の入り口に佇む兄妹に困惑した眼差しを向けた。
「何してる?」
「いやさ、メリッサもちょっとは外に出てもいいだろ?」
エセルが尋ねると、アントは鼻をぴくりと動かしてしばし考えた。そういうところだ、この頭領の威厳が足りないのは。彼はメリッサを見下ろし、エセルへ視線を動かし、もう一度メリッサを見た。それだけすれば、答えは大体わかるというものである。
「……わかったよ。ただし、俺がついていくからな」
「まあ、頼もしい!」
調子の良い娘はいたずらっぽく笑い、嬉々として外へ出ていった。アントはその兄に向かって呆れたように首を振り、彼女の後を追った。エセルは彼らに続こうとして、ふとセレスティアを顧みた。まだ少しも目覚める兆しのない彼女は、起きているときよりも幾分か幸福そうに見えた。見た目の上では、彼女は絵に描いたように無辜で美しい少女でしかない。
エセルは起きるはずもない彼女をおいて天幕を出ると、近くの川に向かい、そこで顔を洗った。水は冷たく、清らかだった。メリッサとアントを目で探すと、彼らは蟠りなどない様子で言葉を交わしながら、朝食の材料を選んでいるところであった。白狼族は狩猟採集で集めた食材を同胞のために解放するのが常で、一族の誰もが好きなときに腹を満たせるようになっていた。魅惑的な習慣である。
エセルは妹の鈴の音が鳴るような笑い声に引き寄せられるように彼らの元へ歩いていった。メリッサは彼に気付いて振り返る。
「ねえ、アントさんったら、私と文通したくないって」
「俺たちは文字を使わないからな」
「教えてあげるわ」
「そんな数時間で身につくものでもないんだろ?」
アントは案外満更でもなさそうな表情で言い、食材を抱えて天幕のほうへ歩き出した。メリッサはエセルの腕を取ってその後ろについていく。
「そこが問題よね。だけど、ここまで会いにくるのって結構大変だし」
「たった一日の友好って奴も、趣があると思うがね」
「そういうのは戯曲でお腹いっぱいだわ。ねえ、エセル、何か良い考えはない?」
彼女は兄の腕を引いて彼を見上げた。妹が楽しげに話しているのは、エセルにとっても喜ばしいことだった。が、誰の血が騒いでいるのやら、彼は彼女をからかわずにはいられなかった。
「俺の前でいちゃつかないってのはどう?」
「あら、変な言い方はよしてよ。私はね、犬猿の仲の人間と白狼族が歩み寄れる絶好の機会を無駄にしたくないだけなんだから。仲良くできるのは最初だけなんて、もう言わせないわ」
メリッサは気取って言ったが、頬がじんわりと赤く染まったのを私は見逃さなかった。
「やっぱり怒ってるんだろ、メリサ?」
「違うったら。その質問、もう三回目よ。起きてからそう何分も経ってないのに!私たちが帰るまでに何回同じことを聞くつもりなの?」
そう言って、メリッサは天幕をめくって中を覗き込む。日の光が差し込んでも、セレスティアは寝返りすら打たずに眠っていた。妹が彼女を起こそうとするのをエセルは引き留め、アントに手を貸して朝食の支度を始めた。薪が組まれ、火が燃え、鍋の中で食材がその色を変え……あまり馴染みのない料理の香ばしい匂いにうっとりとしながら、兄妹はアントが出す「良し」の合図を待った。
「セレスタは?」
鍋の中身を枝で突きながらアントが尋ねた。
「早起きはしないんだ。朝も食べないし」
「そうか。こいつは絶品なんだがな」
「食べたがるかもしれないわ。ちょっと起こしてみましょうよ」
メリッサはもう一度天幕をめくった。エセルは彼女の腕を優しく下ろさせようとした。
「起きやしないよ。いつもそうじゃないか」
「せっかくエッタに来てるのに」
「そんな特別なもんかね。しかし、よく寝てるな。死んだように眠るってのはこういうことだ」
アントは活発に笑った。人間より少々長命な彼なので、客人たちが実際よりも子どもに見えているのだろう。エセルが彼に同調して笑みを浮かべていると、メリッサがふと真剣な面持ちをしてセレスティアを見つめた。
「……生きてるわよね?」
「そりゃあね。だって、ほら、寝息が……」
と、エセルは耳を澄ましたが、彼女の呼吸音は鍋の音に掻き消されているのか、少しも聞こえてこなかった。彼ははにかんで肩をすくめた。
「聞こえないわけだけど」
「嘘でしょ」
メリッサは固い微笑と共に、忙しく天幕に入っていこうとして、躊躇いがちに動きを止めた。
「息をしてなかったらどうしたらいいの?」
「してるって」
「でも、ほら、彼女って突然こう……二度と目覚めなくなりそうというか」
「私の話じゃないといいのだけれど」
気付くと、セレスティアが寝そべったまま目を開けて、兄妹を見つめていた。メリッサは文字通り飛び上がり、彼女に戸惑った目線を返す。
「ああ、起きたの……えっと、あなたの話じゃなくって……」
「できるだけ静かに眠るほうが何かと都合が良いだけよ」
「じゃあ、聞いてたのね」
「ええ」
そう短く答え、セレスティアはゆっくりと瞬きをした。眠気が襲うに身を任せているようだ。アントが枝で鍋の淵を叩く。
「うん、できたぞ。おい、セレスタ、飯食うか?」
「今はいらないわ」
彼女は言い、外に背を向けてまた目を閉じる。アントは残念そうにエセルに目配せをした。すると、彼女が続けた。
「……けれど、取っておいて」
彼女は深々と息を吸い、眠りに落ちた。その朝食は余程食欲をそそる香りがするらしい。羨ましいことだ。
寝坊娘はゆっくり休ませてやることにして、兄妹とアントは朝食にはいささか重いようにも見える肉料理をあっという間に平らげた。異種族の客人が最後の一滴も残さなかったことに、頭領は満足したようだった。
「ああ、美味しかった!予想外だったわ」
快く伸びをして、メリッサが言った。アントは微笑み、がさつに皿を回収する。
「そいつは良かった。だが、何が予想外なんだ?」
「それは、ほら、何でもないの。ところで、昨日の夜だけど、皆してどこに行ってたの?夜中に三人でばたばた戻ってきたでしょ?」
「セレスタが戻ってこないんで、探しにいったんだよ。大事になる前にな」
「大事って?」
メリッサが訝るように眉をひそめる。エセルはアントが答えてしまう前に口を挟んだ。
「迷ってたら困るだろ?」
今度はアントが眉をひそめたが、エセルは平然と知らないふりをした。あの悍ましい屍のことを妹が知らずに済むのなら、そのようにしたかった。彼女は兄以上に何の変哲もない人間なのだ。昨夜のあの光景が彼女に与える衝撃など、想像もつかない――とエセルは思っているのだろうが、どうかな、君よりは気のしっかりした娘なのではないだろうか?
「確かに、森で迷うのは人にとって恐ろしいものよね」
メリッサは生真面目に木々に目をやった。そして、すぐに瞠目した。エセルとアントは異変にまだ気付いておらず、後片づけに集中していた。彼女は不安げな眼差しを二人に投げ、もう一度森を確かめた。あれって、何もおかしくはないのかしら?そんな心の呟きが聞こえてくるようだ。
「……ねえ、アントさん」
「ああ」
「あれは、お友達?」
メリッサが指をさすのに促されてアントは顔を上げ、そして凍り付いた。彼が皿を取り落としたので、エセルも自然と手を止めた。何事かと視線を泳がせるまでもなく、木々の間に立つ、様子のおかしい白狼族に目が留まる。牙を剥き出しにし、虚ろな目をして、朽ちた肉体を引きずるようにしてゆっくりとこちらに近づいてくる屍たちだった。エセルは絶句し、狼狽えてアントを見やった。白狼族の頭領は考えることすら放棄しているように見えた。仕方がないことかもしれない。彼も、これほどまでにおびただしい数の屍の群れは見たことがなかったのだから。
「ねえ、何なの、あれ?」
わけもわからず絶望感に飲み込まれながら、メリッサは熱心にアントに呼びかけた。それでも彼が答えないので、彼女は彼の腕を掴んで強く揺さぶった。アントははっとして彼女を見つめ、その目線を屍の群れに戻した。何であれ、彼は決断する必要があった。
突然、アントは白狼の姿を取った。こんな状況でなければ、兄妹は初めて目にする変身に見入ったことだろう。白狼は天に向かって吠えた。その遠吠えは集落中に響き渡り、すぐに彼の同胞が慌ただしく飛び出してきた。屍の姿を目にするや、彼らは悲鳴と共に、どこを目指すでもなく逃げ出そうとした。だが、まさしくその狂騒こそが、祭りの開始を告げる合図だったのだろう。揺れるように歩いていただけの屍の群れは、突如として駆け出し、逃げ惑う生きた同胞の追跡を始めた。
エセルたちも例外ではなかった。群れが割れ、何匹かの屍がアントに突進してくる。それを捌く程度なら、アントにはお手の物であった。彼は亜人の姿に戻ると、屍を返り討ちに遭わせながら振り返った。
「セレスタを連れて逃げろ!」
「馬鹿言うなよ!お前一人じゃ持たないぞ!」
と、エセルは自分のほうにやってきた屍を何とか蹴飛ばした。彼はまだ火が点いたままの薪に目をつけると、それを掴み、火が手に触れる前に屍に向かって投げた。その攻撃は案外有効であった。群れがたじろぎ、ほんの少し余裕が生まれる。
「朝になったらいなくなるって話は何だったんだよ?」
「冗談だった、とでも言えば満足かね!」
アントは渋い顔をしつつ、周囲に目を配った。早くも群れの仲間入りをした同胞がいるようだ。彼はもっと早く手を打たなかった自分を呪ったことだろう。そのとき、メリッサが再び彼の腕を引っ張った。
「ねえ、おかしいわよ、この人たち!相手なんてしてたらきりがないみたい!炎に怯んでるうちに逃げるべきだわ!」
「お前らはそうしろ。俺はここでこいつらを食い止めなきゃならない。これでも族長なんだ」
アントはメリッサの手を振り払った。彼女は今にも泣き出しそうな顔をした。
「放っておけないわ!」
「俺が加勢するから!セレスティアを起こして逃げろ、良いな?」
エセルはほとんど突き飛ばすように妹を天幕に押しやった。メリッサの目を見れば、彼女が兄を信じていないのは明らかだった――まさか戦えるわけがない、と。だが、議論している暇がないとわからないほど、彼女も間抜けではなかった。彼女は頭から天幕に飛び込んだ。
「嫌味じゃないが、ニンゲンに何ができるんだ、エス?」
アントは薄い笑みを浮かべて低く尋ねた。
「何もできないかもしれない、けど……」
エセルはぎこちなくアントに笑みを返した。彼は指先で自身の腕をそっと撫でた。触れる分には柔らかく、狼の牙で簡単に噛み千切られそうなその腕が、鉄壁の鎧となってくれることを祈って。
*
アーテルニア城には毎月コスタトから監査官が送り出されてくる。女神王の支配が万事順調に行き届いていることを確かめるや、彼らは無駄話の一つもせずに去っていくわけだが、彼らのいる間は誰もが――女神王に何を思っていようが――従順でなければならなかった。それに関してはさすがのロイドも例外ではない。
だが、ロイドという存在自体は、例外も例外なのであった。彼は女神王が忌み嫌う悪魔であって、本来ならば投獄されていなければおかしい。しかし、彼は敵の手中で上手く立ち回る術を心得ていた。すなわち、彼らに魂を売り渡すふりをして、国をまとめられるのは自分しかいないと説得したのである。
誰も彼を疑わなかったかというと、決してそうではなかった。特に、ルーセチカを管轄する将フランセスカは。どれだけロイドが冷酷に、悪魔だと判明した国民から生活を奪い去っても、彼女は犬のように彼の周りを嗅ぎ回り、反旗の兆しを探し求めた。十余年の年月は、何とかその疑いの眼差しを露骨に向けさせないように彼女を変えたに過ぎない。
ロイドは用意周到で抜け目がない男だったので、見られてまずいものはあらかじめ処分するようにしていた。彼の気狂いな部分というのは、その処分した文書の類を記憶に頼ることで改めて文字に起こし直し、空想の種に設えていることだ。毎月のように増えていく資料を彼は一文字の間違いもなく頭に叩き込み、毎度燃やし、毎度復元し続けてきた。そして、熱に浮かされたように仮説を立てては否定し、また推測しては、時にそれを史実と見做して欣喜雀躍としていたのだ。私やジリアンが彼を頭のいかれた人間だと考えたのも無理はないだろう?
さて、今月も監査官が訪れる日がやってきた。今、フランセスカ率いるその不愉快で不気味で不届きな連中は、慣れた手順に従ってアーテルニア中を舐め回している。その間は、町中が死んだように息を潜めるのが常だった。実に耐え難い時間である。
「兵士によれば、ロイド」
部下に監査を任せ、玉座の間に現れたフランセスカは、ロイドが軽口を叩く前に口を切った。
「貴様は時折ここに人を呼び出しているそうだな」
「いけないかな?こんなだだっ広い部屋に繋がれて、一人で過ごすのはなかなか寂しいものなんだけど」
「私が貴様にある程度の自由を許しているのは、貴様が表面上は我らが母に従っていることに対する褒賞だ。そのわずかながらの自由を不埒な目的で使おうと言うのなら、私は貴様の手足を捥ぐに吝かではないのだが」
我らが母!いつ聞いても虫唾の走る響きである。血の繋がりこそ最上と見做すことに意義を唱える気はない――そうしたところで、無限の矢が飛んでくるだけなのだ――が、最も魅惑的な結束というのはすなわち恋慕ではないか。それがわからぬから、よく考えもしない連中は母の愛を求めるのである、至高の情愛をかなぐり捨てて。
閑話休題、ロイドは不穏なことを口にして凄むフランセスカの目線に合わせて身体を浮かせた。
「そんなことをして、誰に僕の後を継がせるつもりだい?この広大なるルーセチカはおろか、アーテルニアさえ、まともに統治できる人間が僕の他にいるとは思えないんだけど」
「忘れるな、貴様はこの城を一時的に預かっているに過ぎないのだぞ」
「忘れはしないよ、僕がこの城を預かることになったあの日の君の悔しそうな目つきは」
ロイドがからかうように眉を上げて微笑み、フランセスカは実に長閑な笑みを返した。
「あまり私を見くびるなよ」
「ところで、不埒な目的っていうのは、具体的にどういうことを指しているのかな?心当たりがないものでね……僕はこれでも、女性を床に寝かせたくはないと思うような男だから」
と、彼は寝台どころか枕さえない空間を手で示してみせた。彼女は宙に浮かぶ彼の身体を侮蔑的に眺めながら鼻で笑う。
「貴様の前では、女は浮足立つことだろうな」
「想像するほど悪くないかもしれないよ。試してみるかい、フランセスカ?」
「……良いか、ロイド・ミーレット。貴様は自分の代わりなど存在しないと思っているようだが、私はいつでも貴様をその玉座から引きずり下ろし、別の人間をそこに据えることができる。認めねばならないだろうな、貴様より優れた人間を見つけるのが難しいということだけは。だが、その座を手にしたのが誰であっても、貴様のように下卑た男よりははるかにましだと、私は必ず思うことだろう」
不敵だが異常に落ち着きのある顔つきでフランセスカは言った。その手は腰にかけた鞭に添えられていた。幸運のお守りか何かだろうか?ロイドは小馬鹿にするようにゆっくりと首を振る。
「そこまで言うならやってみたらどう?」
「愚か者によって潰されるには、この国は惜しいからな。貴様と言えども、我が母に逆らい、愛する祖国がコスタトの軍勢になすすべなく踏みつけにされることを選ぶ危険は冒さないだろう?」
「まあね」
彼は肩をすくめた。フランセスカはようやく満足して踵を返す。
「次に会うときまでには、もっとましな冗談を考えておくことだな」
「考えておくことにする、の間違いじゃない?」
最後の一撃に対する返しはなかった。扉が閉ざされると、ロイドは何もないほうを振り返った。
「彼女をどう思う?」
「……圧倒的戦力差のために、万に一つでも反乱は起きないと高を括っている。裏を掻くのは難しくないでしょう」
イーサンの声である。ロイドはかぶりを振った。
「前半は正しいけど、後半は間違っているね」
「何故でしょう?」
「コスタトがこの国を潰すのは容易い。それはあちらが唯一武力を蓄えることができる国だからだけど、それだけじゃないんだ。その溢れんばかりの力を制御する将が的確に采配を振るっているんだよ。中でもフランセスカは抜け目がない上、部下からの信頼も厚い。僕が十年以上彼女の下で臍を嚙んでいたことを忘れてもらっては困るよ」
「それならば、どのようにして反旗を翻すおつもりで?」
「ああいう砦を崩すなら、内と外から同時に攻めるしかない。僕らが内側を掻き乱すことができれば、あとはセレスティアやエセルが上手くやってくれるはずさ」
「あの娘の力量をそこまで信じていいものでしょうか?」
「もちろん。彼女は僕を満足させるくらい賢いし、理想を叶えるだけの恵まれた力もある。彼女が幼い頃からそうだったんだ。ずっと見ていた僕が言うんだから、間違いない……」
言いながら、ロイドは驚愕して目を見開いた。
「僕は何を……彼女が幼い頃から?――ああ、イーサン、これはすごいことじゃないかな?」
「はあ」
「何だ、そのぱっとしない返事は?つまりね、僕は知っているってことだよ、子どもだった彼女を!うん、そんな気がしてきた。本当に彼女は忘れられた存在だというわけだ」
ロイドはぶつぶつと呟いた。その瞳は爛々と輝いており、新しい知見に胸を躍らせているのが一目でわかる。なるほど、こうして無意識の中に埋め込まれたものを掘り起こしては、継ぎ接ぎに繋ぎ合わせてきたのか。大した御仁だよ、あなたは。
「僕らが忘れているということは、敵もそうだろうね。つまり、彼女は彼らにとって最も驚くべき武器になるはず……いやあ、楽しくなってきた!ねえ、イーサン?」
「そう上手くいくでしょうかね」
イーサンは懐疑的に言った。従者というのは、主人の反対の立場を取って釣り合いを守るものである。ロイドは不服そうに口を曲げた。
「つまらない奴だな。もちろん、僕は最悪の筋書きを追うつもりさ。だけど、わかるかな?藁の山から針を探すような絶望的状況で、どこかから燐寸が落ちてくるような、そんな希望があるってことが。すべて焼き尽くし、条件から変えてしまうとんでもない代物を、僕たちはもう持っているんだ」
*
セレスティアは眠っていた。とてもよく眠っていた。二度寝であろうが何だろうが、彼女は熟睡する人間で、夢を見ることは滅多になかった。だが、今、彼女は何かの夢を見ていた。時折、眉や口の端がぴくりと動き、苦悶が訪れていることを私に知らせた。一体何の夢なのか?
「セレスティア、起きて!大変なのよ!」
メリッサが天幕に飛び込み、彼女の身体を揺さぶった。夢から現実へと引き戻され、セレスティアは混濁した意識の内に揺蕩った。容赦なく彼女を揺する手にさえ気付いていないかのように、彼女はふと呟いた。
「始まりの、狼……」
「え?」
メリッサは訝り、相手の顔を覗き込んだ。確かに目覚めているとわかるや、彼女は大慌てでセレスティアを立ち上がらせた。
「寝ぼけてる場合じゃないの、おかしな白狼族が集落を襲ってるのよ!今すぐに逃げないと!」
「逃げても仕方ないわ」
セレスティアははっきりとした物言いで呟き、メリッサの手を振り払って天幕の外に出た。すっかり覚醒しているらしかった。メリッサが横に並び、屍の群れと戦う兄とアントの様子を気を揉みながら窺う。
「仕方ないって、じゃあどうするの?」
「いつかも、こんなことがあったわ……たくさんの人が命を落とした。彼らはどこまでも追ってくるでしょうね。彼女の命令に従って」
「何の話をしてるの?彼女って?」
「彼女は死んだと、アントは言った。けれど、そうだとしたら、こんなことはあり得ない」
ずっと独り言ちていたようだったセレスティアは、唐突にメリッサに顔を向けた。
「頼みがあるの、メリッサ」
「ええ……今?」
「アリステアと話をして。彼なら何か知っているわ」
「でも、今から向かったって、着く頃には――」
メリッサは口の中で呟いたが、セレスティアは聞いていなかった。彼女は確固たる足取りで、屍の群れのほうへ歩いていった。
「アント!」
白狼族の頭領はぎょっとして振り返りながら、ぎりぎりのところで屍の爪をかわした。
「何してる、セレスタ!まだ持つうちに逃げてくれよ!」
「私は逃げないわ。そんなことより、メリッサを連れてアリステアの元に向かってほしいの」
「そんなことして何になる?」
「ルシアを見つけ出さない限り、この群れは絶対に止まらないわ。さあ、行って。あなただってわかっているでしょう、アリステアが鍵を握っていることくらいは」
セレスティアは群れから目を離さずに戦闘態勢を取る。アントは戸惑いながら、素早く屍の数を確かめた。彼がいても長くは持たないことは自明だった。まして、たかがニンゲンが、死んでいるとはいえ白狼族に太刀打ちできるだろうか?
「……だが、ここはどうする?」
「私がいる。十分だわ」
「俺もいるんだけど」
と、及び腰のエセル。何だ、口を利く余裕もないくせに。セレスティアは彼と目線を交わした。意外だっただろうか、彼がみっともない姿勢でも必死に戦っているのは?
「私たちで何とかするわ。まさか、無駄に消耗させはしないでしょう?」
「ニンゲンって奴は……」
アントは呟き、戦線を離脱した。人間というのは、傲慢だからこそ腹立たしく、そして美しいものである。彼は躊躇うメリッサを促し、変身した自らの背中に乗せると、風のように駆け出した。そのとき、エセルは振り回す薪を切らし、手の震えを何とか抑えながら、セレスティアの影に隠れた。
「俺は多分戦力外だ」
「弱気なことを言うのはやめて。それより、一つ当てがあるのだけれど」
「本当に?」
「ええ。彼女にもらった角灯が使えるなら」
エセルははっとして、腰に提げた黄金の角灯に目を落とした。どこか無気力だった彼の目に希望が灯る。
「誰かを蘇らせるってことか!でも、誰を?」
「始まりの狼よ。もし、その魂がこの場所に眠っているのなら――ちょっと、退いてくれないかしら?」
と、セレスティアは背後でもぞもぞと身を守っているエセルに苛立って言った。エセルは焦って飛び退く。
「ごめん……で、その始まりの狼って?」
「夢を見たの。今のように、正体をなくした白狼族が襲い掛かってくる夢だった。けれどその後、巨躯の白狼と、それに首を垂れる無数の狼たちも見えたわ。あれが始祖たる白狼だと、私にはわかる。直感だけれど、その遠吠えは、たとえ死んだ一族が相手であったとしても、同胞の本能に訴えかけるんじゃないかしら」
「その魂がこの場所に眠ってたら、か」
エセルは屍の群れを眺め、皮肉っぽく呟いた。もし彼女の当てが外れれば、彼らの生存は絶望的である。
「ええ、そうね。でも、試してみる価値はあるわ」
そう言って、セレスティアは切るように息を吐き出し、目の前に迫っていた屍たちをまとめて蹴り飛ばした。エセルは疑るように角灯を腰から外し、自身の顔の前で揺らしてみた。
「ああ、頼むぞ……」
彼は呻くように言ったが、どうすればいいのかは皆目見当がつかなかった。ただがむしゃらに角灯を天に向かってかざし、目を閉じて祈りを捧げる。そのせいだろう、彼はその瞬間気が付かなかった。黄金の角灯がまるで陽光を集めるかのように輝き始め、さながら聖なる炎のように周囲を照らしたのだ。セレスティアでさえ驚き、戦うの中断した。エセルは眩さについに薄く目を開け、天の焔の御業に似た光景を目の当たりにして固唾を飲んだ。
「これで……?」
彼が呟いたとき、一気に光が増した。その天焔の輝きに、彼はついに目を開けられなくなった。エセルもセレスティアも熱を感じなかったが、屍の群れはその限りではなかった。否、それは猛々しいがしかし気高い遠吠えである。その恐るべき咆哮は、やがて生きた一族に、そして死した一族にさえ共鳴し、束の間、耳を劈く白狼の合唱が辺りに鳴り響いたのだった。




