動くには遅い
自我の時間です
エセルとセレスティアが集落に帰り着いた頃、夜がその腕を伸ばし始め、辺りは暗がりに包まれつつあった。エセルが安堵したことに、メリッサは天幕の中でぴんぴんしていて、それどころかアントと多少仲を深めることまでしていたようだった。逞しいことである。
屋敷でのことを聞き、アントは予想通りだと言いたげに皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「アリの奴はもうずっとそんな調子だよ。酷くなったのは、母親が死んでからだけどな」
「親子のことはよく知ってるのか?」
エセルが尋ねると、アントは物思いに耽るように口を閉ざした。白狼族である彼と人間であるアリステア少年の間にはささやかな歴史があるようだ。まあ、それが何であるのかわざわざ確かめるほどには、私は関心を誘われないけれども。
「……まあ、ちょっと前まではな。だが、もうわかったんだ。やっぱり、俺たちとニンゲンじゃ上手くやっていけやしない」
「私はアントさんと仲良くできそうだと思ってたところなのに」
メリッサが可愛らしく口を挟む。アントは一瞬胸が痛んだように彼女を見たが、すぐに目を逸らし、何とか冷ややかな顔つきを作った。
「こういうのは最初だけと決まってる。ニンゲンは傲慢すぎるんだ」
彼は吐き捨てるように言った。メリッサは表情を曇らせ、閉口した。エセルは妹のためにも何か反駁しようとした。しかし、彼に何がわかると言うのか?事情も知らずに口を挟んでも何も解決できないということを、彼は実際痛いほど知っていた。もしそれで現実を変えることができるなら、ジリアンは今頃もっと自由で満ち足りていたに違いないのだから。彼はその話題を流すことにした。
「明日には帰ろうか?ロイドさんも、駄目だったってわかるなら早いほうがいいよな」
「ええ。もうここに用はないわ」
そう答え、セレスティアはふらふらと天幕を出ていった。星を見にいったのか。気詰まりして、エセルは彼女に続こうとしたが、ふとメリッサが外に出られないことを思い出した。今は素知らぬ顔をして寝そべっているアントと、二人で天幕の中に残すのは酷だろう。エセルは何を言うでもなく座り直した。と、メリッサが口を開く。
「セレスティア、大丈夫かしら?」
「何のことだ?」
「そのアリステアって子のところに直談判とかしにいったりして」
「大丈夫だと思う……多分」
「そうね、そういう人じゃないわよね」
メリッサは声を立てずに笑った。エセルは無邪気な彼女に微笑みかけた。その気丈さは彼女の愛すべき長所の一つであった。可哀想な娘である。彼女はふと笑うのをやめると、わざとらしく生真面目な顔で声を潜めた。
「ねえ、彼女、どこから来たの?」
「わからない。本人も知らないみたいだし」
「でも、あなたと同じ瞳をしてるでしょ?」
「偶然だと思うけど」
「そう?ああ、でも、アントさんが言ってたわね。あなたと彼女の目は少し違うって。ねえ、どう違うんですか?聞いてるんでしょ、アントさん?」
メリッサはこちらに背を向けて寝そべるアントに呼びかける。だが、白狼族の頭領は大人げなくも寝たふりを続けた。彼女はふくれ面をして彼のほうに少し身体を動かす。
「無視しないでくださいな。この話が終わったらもう話しかけませんから」
アントはそれでもなお無言を貫こうとしたが、メリッサが石のように背後に留まっていることを察し、渋々と寝返りを打って兄妹に目をやった。
「……何、エスの目には金色が散ってるってだけさ。セレスタはもっと澄んだ純粋な紫ってところだ。満足か、メリサ?」
「ええ、とっても。ありがとう、アントさん」
メリッサはにこやかに言った。アントはすぐにまた彼らに背を向けてしまった。エセルは妹が正対するのを待ってから言う。
「ほら、偶然似てるだけだよ、きっと」
「意固地ねえ。でも、どちらにせよ興味深いわ。白狼族の言い伝えのことを信じるなら、紫色の瞳って特別なはずでしょ?」
「そうなのかな……」
エセルはどこか居心地悪そうに頬を掻いた。誰しも、自分の瞳の色について熟考するなんてことはそうそうないのだから、彼の態度も何分おかしなものではない。だが、どうだろう、我々悪魔は能力を使おうとすると瞳が緋くではないか?眼球という臓器には何か特異な力が備わっていて、他にはない色の瞳がある種の記号として機能しているとか――あり得ないとも言いきれまい。まあ、そうだったとして、そういう研究だの記録だのが残っていないのはおかしいから、これは私の妄言なのである。
「あーあ、何だか眠くなってきたわ。馬車に乗ることってこれまであんまりなかったから、疲れちゃったみたい」
メリッサは言った傍から大きく欠伸をした。エセルは妹の頭に兄らしく手を置く。
「もう寝なよ。明日にはまた馬車に乗らないと」
「残念ね。せっかくなら、もう少し白狼族のことを知りたかったのに」
彼女は言い、あらかじめアントが用意していた干し草の寝具の上に横たわった。すぐに静かな寝息が聞こえてくる。エセルはその横に眠ろうとする素振りを見せたが、考え直し、立って天幕を出た。
セレスティアは天幕のすぐ外に座っていた。エセルが出てきたことに気付くと、彼女は小首を傾げて彼を迎えた。エセルは躊躇いがちに彼女の横に腰を下ろした。見上げるまでもなく、空には星々が輝いていた。
「本当だったな」
「……何のこと?」
「星。よく見える」
「そうね」
「アーテルニアは街灯が多くてさ。ちょっと星が見づらいんだ」
「そう」
セレスティアは短く答えた。青年の顔を見れば、疎まれているのかもしれないと思って、早くも心が折れそうになっているのがわかる。瞳の色という共通点を妹に改めて指摘され、もっとセレスティアと親密になろうと安直に考えたに違いない。だが、彼が耐え兼ねて逃げ出す前に、今度は彼女が言った。
「私、この辺りにも覚えがあるわ」
「そうなの?」
「ええ。白狼族は……何だか、とても懐かしい気がする」
「そっか。でも、そうだよな。天の焔の言った通りなら、君って世界を救おうとしてたんだろ?色んなところを旅してさ。こことか、アーテルニアの街並みとか、見覚えがあるのも当然だよな」
「……けれど、私は失敗した」
低い声でセレスティアは言った。星空を見上げていたエセルは、ふと彼女に顔を向けた。彼女は最早星を眺めてなどおらず、抱えた膝に顎を埋め、大地に視線を突き刺していた。エセルはアリステアの屋敷の前で彼女に言ったことを思い出し、後悔して顔を歪めた。負けたから死んでいた――口にしたときは上手く言い返したものだと満悦したが、実際、それはとんだ嫌味であった。
「ごめん、セレスティア……」
「あなたが謝るの?どうして?」
セレスティアは鈍く目線を動かし、手の甲に頬を預けた。その目は眠たげにも、恍惚としているようにも見えた。エセルは動揺に震える瞳で彼女の目を受け入れた。
「あんなこと、言うべきじゃなかった」
「いいの。事実だもの。私はやり方を間違え、世界を救い損ねた。何をどうしてしまったのか、何が起きたのか……何もわからないけれど、私が過ちを犯したことだけは確か。そうでなければ、世界はもっと違っていた」
「彼女の言うことだけが正しいわけじゃないと思うよ」
「どうかしら」
セレスティアは自嘲気味に笑った。それから、脚を伸ばし、上体を大地に委ねる。星の瞬きがその紫苑に反射した。エセルは座ったまま様子を窺っている。
「……ねえ、きっと、私はできるだけたくさんのことを思い出さないといけないわ。目的を見定めるためにも、同じ過ちを繰り返さないためにもね。けれど、どうしたらいいのかわからないの。迷うことに慣れていないような、おかしいけれど、そういう感が否めなくて」
そう言いながら、彼女は一度もエセルのほうを見なかった。だが、少し目が泳いでいた。人に頼ることにも慣れていないらしい。エセルは目線を星空に逃がした。
「迷わずに自分を信じられるところが君の良いところなんじゃないかな」
「良いように言うのね」
「悪いように捉えるよりはましだろ?」
と、彼はふと横になって気さくに言った。小さな笑いが彼女から返ってきたことに彼は満足した。彼らは数秒身じろぎもせずに黙り込んだ。それから、彼は再び開口した。
「……なあ、セレスティア」
「何、エセル?」
「また誰かを脅したくなったら、行動に出る前に俺に言ってくれる?」
「……まあ、それが最善かもしれないわね」
セレスティアは苦笑交じりに答えた。エセルはほとんど声を立てずに笑った。もう数分、彼らはそうして寝そべっていただろうか。やがて、セレスティアはやおら起き上がった。エセルはつられて身を起こす。
「もう寝る?」
「いいえ。少し、辺りを歩いてみようと思って。何か思い出すかもしれないでしょう」
「そうだね。俺はもう少しここで星でも見てるよ。邪魔にならないように」
「あなたは邪魔でも何でもないのだけれど……でも、ありがとう」
彼女の微笑みはエセルには見えていないことだろう。もったいないことだ。彼はそうとも知らず、暢気に片手を振った。
「うん。良い夜を、セレスティア」
「ええ」
去ってゆく彼女の背中を盗み見て、エセルはどこか呆然とため息をついた。今夜の成果は十分以上だった。だが、いまだ彼女とわかり合える日が遠い気がするのも、彼にとっては事実であるに違いなかった。
*
「――ス。おい、エス、起きろ!」
そんな声がエセルを転寝から呼び起こした。夜空を見上げるうちに眠りに就いてしまったのだ。彼は自分を覗き込んでくるアントの険しい顔つきを寝ぼけ眼で見つめた。だが、考えが纏まらず、どう反応するべきかわからなかった。
「セレスタはどこだ?」
頭領は尋ね、エセルの肩を持って身体を起こさせた。青年が答えようとする前に、大欠伸が襲ってくる。彼は何とか眠気を追い払い、おもむろに口を開き直した。
「……散歩に行ったんだよ。この辺に見覚えがあるって」
「どっちに?」
エセルはセレスティアが消えていった方角に顎をしゃくった。途端に、アントの顔つきが一層強張る。只事ではないものを感じ、エセルはすぐに覚醒した。
「アント、どうした?」
「まずいぞ……」
アントはエセルを無視して、セレスティアの向かった方向へと足を進め始めた。エセルは跳ねるように立ち上がってその後に続いた。白狼族の早足に人間が歩いて追いつくのは難しい。エセルは小走りになってやっとアントの横に並んだ。
「なあ、何なんだよ?」
「セレスタが散歩に出たのはいつ頃だ?」
「わからないよ、寝ちゃったから……でも、そんなに経ってないと思う」
と、エセルは月の位置を確かめるようにちらりと目線を上げた。この夜を満遍なく照らすその月は、彼が眠りに落ちる前とほとんど変わらない場所で輝いていた。アントは質問に対する答えなど端から当てにしてなかったかのようにため息をついた。
「……間に合うといいんだがな」
「何に?」
エセルが苛立ちながら尋ねても、アントはすぐには答えなかった。森の中を迷いのない足取りで進む彼は、どこかおかしかった――まるで、彼女を救いに急行したい気持ちを堪え、わざと平静を装っているかのごとく。逸るエセルは震える唇で、白狼族の頭領への罵倒を押し止めているようだった。やがて、アントは低い声で言う。
「……近頃な、この辺りじゃ、おかしな連中が夜中に墓場を徘徊してるのさ。奴らは出会った相手を躊躇なく傷つけ、酷いときには命まで奪っちまう。で、この先にはその墓場がある。後は言わなくてもわかるだろ?」
「何なんだよ、その連中って」
「目星はついてる。だが、あんたは信じないだろうな」
「そんなこと言ってる場合かよ?セレスティアが危ないんだぞ」
おや、エセルはどの程度彼女に危険が迫っていると信じているのだろう?私であったら、そんなことは到底信じられないが。いや、余談だった。何にせよ、エセルが切羽詰まっているのは確かだった。アントは横目で彼の様子を窺い、それからふと足を止めた。エセルは勢い余ってつんのめるようにアントを顧みた。値踏みする感のある眼差しを受けながら、青年は頭領の答えを待った。
「死体さ」
やがてアントは言った。エセルは驚き呆れて言葉を失った。意味を理解されなかったものと、アントは続ける。
「墓場に眠る同胞たちがどういうわけか起きてきて、夜な夜な生きた仲間を襲ってるらしい。それ以外に説明がつかないんだよ。自我もないみたいでな。ただ目の前にいる奴に飛び掛かり、朝になれば自分の墓へと帰っていく。馬鹿げた話だよ」
彼は乾いた笑い声を立て、再び足を進めた。エセルは急かすように相手に先行しながら言う。
「馬鹿げたっていうか、そんなことあり得るのか?」
君が言うのか?
「もちろん、あり得ないさ。普通ならな。だが、アリの母親は……」
アントは言いかけて口を閉ざした。茂みの向こうから、人の動く気配と物音がしたのだ。彼らは身構えて目線を交わした。土を擦る音に続き、軽やかな打撃音が二、三発響いた。アントが飛び出していき、エセルがやや出遅れてそれに続いた。
セレスティアがそこに立っていた。特に怪我はないようだが、疲弊しているらしく、息が少し乱れていた。彼女の前で、異様な雰囲気を漂わせた白狼族の男が唸っていた。彼女は予想外にやってきた仲間に一瞥を投げ、体勢を整える。
「何かおかしいわ」
「おうさ。そいつはもう死んでる」
「何ですって?」
セレスティアは眉をひそめながら、彼らが話し終わるのを待つこともできない白狼族の突進をいなした。月明かりにその牙がぎらつき、エセルの額に汗を滲ませた。次も上手くかわせるとは限らない。喰らったら堪ったものではないだろう。そう思った矢先、木々の向こうにさらなる屍がゆらりと姿を見せた。こちらに援軍が来るなら、あちらにも来るというわけである。エセルは死した白狼族から目を離すことなく後退った。
「話してる場合じゃない!逃げよう、二人とも」
「けれど……」
「都会のニンゲンは死体をもう一度死なせる方法もご存知かい?」
アントは冗談めかして言ったが、その引きつった顔から余裕は感じられなかった。セレスティアは数瞬考えたが、結局撤退を選んだ。彼女はまたも飛びついてきた屍に強力な蹴りをお見舞いすると、素早くその場を後にした。三人は振り返らず森を走り抜け、ついに集落に帰り着いた。墓地へ続く森を顧みたとき、屍の姿はなかった。
「危なかった……」
エセルは肩で大きく息をしながら呟いた。セレスティアとアントは軽く息を整え、目を合わせた。
「死体だと言ったわね」
「ああ」
「どういうことなの?」
「アリステアの母親がどうとか言ってたよね」
「ああ……」
アントは再び鈍い返事をして鼻を掻いた。どうも、彼は精神的に参っているようだった。等しく愛している同胞が殺し殺されているとなれば、無理もないだろう。そも、白狼族は亜人の中でも歴史が深く、一族の結束も強い連中だ。同胞同士でいがみ合うなどもってのほか、といった具合で。意思もなくうごめく死体――最も実力があるという理由で頭領に選出されただけのアントの手に負える問題ではない。セレスティアが名前を呼びかけてようやく、彼は切り出した。
「……アリは死人の声を聞くことができるが、あいつの母親……ルーシャは、死体を生きてるみたいに動かすことができた。一時的に生き返らせてるようなもんでな。その死体とは意思疎通もできた。俺はあんな奴に頭を下げるなんざ御免だったが、同胞の何人かは頼んで死んだ奴を少しの間だけ蘇らせてもらったらしい。とにかく、ルーシャは息子よりもはるかに優れていたわけさ」
「つまり、さっきのはそのルーシャって人の仕業……いや、でも、死んだって言ってなかったっけ?」
まだ少し息苦しそうにエセルが言った。アントは力なく頷く。
「そう、あの女は死んだよ。だから困ってる……はは、こんなこと言う日が来るとはな」
「彼女でないのなら、誰の仕業なのかしら」
セレスティアが呟くように言った。アントはそのもっともな疑問を鼻で笑った。
「そんなの、ルーシャに決まってる」
「……わからないわね」
「俺にもわからんね。だが、あんな芸当ができるのはルーシャしかいない。怨念って奴かもしれないな」
そう語るアントの表情を見ただけでは、それが冗談なのか本気なのかを判断することはできなかった。エセルは時折森のほうを窺いながら、真面目腐った顔つきで考え込む。やがて彼は静かに顔を上げ、険しい顔つきをしたセレスティアの耳に顔を寄せた。
「なあ、俺が天の焔に借りた力って――」
「別物よ」
セレスティアは彼を遮り、冷めた調子で否定した。エセルは合点がいかない様子で肩をすくめたが、私としても、彼女に同意したいところである。天の焔は実際に彼女を生きた存在として蘇らせているが、ルシア――白狼族が呼ぶところのルーシャだが――は死体に魂を一時的に呼び込むことしかできない。肉体は朽ちたまま、感動の再会には腐臭が付き物と決まっていた。それはルシアが嫌われていた理由ではなかったのだけれども、はて、何故彼女は白狼族から疎まれていたのやら。陰湿な性格のせいか?
「まあ、何だ、朝になりゃ、奴らもいなくなるからな。案外、集落には寄り付かないし。気にせず眠ってくれ」
アントは自嘲の混ざった苦笑をして、彼の天幕を手で示した。エセルは不安げに森を見やった。何か、嫌な予感がすると言いたげに。
「……アント、何か解決策はないのか?」
「さてね。ルーシャの奴が生きてりゃ、俺も殴り込みくらいしただろうが、死んじまってるときたら手も足も出ないな」
「アリステアが関係してるとか?」
「ないとは言いきれないが……しかし、いくらアリが死者の声を聞けるったって、母親の力を使うなんてことはできやしない。そうだろ?」
「まあね」
エセルはため息交じりに諾った。彼は大人しく天幕に戻ろうかと首を回し、セレスティアが人形のように突っ立っているのに気が付いた。まるで魂が抜けたようだったが、彼女はただ物思いに耽っていたのである。エセルが彼女の顔の前で手を振ると、彼女はおもむろに彼に顔を向けた。
「……まただわ」
「え?」
「既視感と言うべきかしら……覚えがある気がするの。いつかも、こんなことが……」
彼女は独り言つように言葉を吐き出し、よろめいて頭を抱えた。エセルは咄嗟に身体を支えようとしたが、彼女はそれを押し退け、うなだれて立った。
「頭痛がするわ。今日は休んだほうがいいかもしれない」
そう言って、彼女は重い足取りで天幕に向かった。アントが物問いたげな目を向けてくるのに気付かないふりをして、エセルは逃げるように彼女の後を追った。
*
その頃、ロイドは不似合いにも葉巻を蒸かしていた。深夜だったが、彼は呼び出しておいたジリアンが現れるのを待っているのだった。彼がよく妙な時間に彼女を招くので、兵士たちの間では、彼女がロイドの愛人だとかいうくだらない噂が実しやかに囁かれていた。その話を吹聴する人間の一人ではなく、ロイドの暇つぶしに付き合う代わりに酒を都合してもらっている男ヒューは、約束の時間ちょうどにやってきたジリアンに大きな笑みを浮かべ、彼女を中に通した。
「やあ、ジリアン。何か飲む?」
「何もないのは存じ上げております」
「そりゃ、今のは挨拶だけどね」
「ご用件は?」
「待って。イーサンがすぐに来るはずだから」
「それでしたら、先にお耳に入れたいことが」
ジリアンはどこか緊張した面立ちで言った。ロイドは葉巻の火を消し、椅子の上に胡坐を掻いた。
「聞こう」
「夕方のことですが、テオが帰ってきました」
「本当に?まだ屋敷にいるのかな?」
「いいえ。しばらく戻らないと言って、すぐに出ていきました。大金を置いて」
最後のほうはほとんどため息だった。テオは金さえあれば何とでもなると信じているらしいので、そうやってジリアンに金を貢いでは、不埒な行いの数々を免責してもらおうとするのが常だった。ジリアンはそれで彼を許すということはなかったが、少なくとも利害は一致するので、文句は言わなかった。しかし、今回の献金はどこか違うところがあった。彼女は嫌に真剣な恋人の姿に一抹の不安を覚えたのである。ロイドは訝るように目を細めた。
「つくづく変な奴だね」
「まったくでございます。……しかし、行かせて良かったのでしょうか?」
「油断しているうちに喉を掻き斬ったほうが良かったかってこと?」
「お好きなようにおっしゃって構いませんが」
「まあ、放っておくべきだと思うよ。泳がせておけば、かえって僕らに有利な情報が舞い込んでくる可能性もある。何せ、こちらにはあまりにも手札が少ないんだ。それに、そもそもテオが関係ないなんてこともあり得ないとは言えないからね」
「左様ですか……」
その呟きにはそこはかとない安堵が含まれているように聞こえた。男には男の、女には女の愚かさというものがあるが、私はいつも後者が腹立たしくて堪らない。ジリアンであれば、前者について同じことを言うだろうけれども。
さて、ちょうどそのとき、扉の隙間から影が侵入してきた。イーサンが人の姿に戻る前に、ロイドは仕切り直すように咳払いをする。
「それで、君たちを呼んだ理由なんだけど」
彼の顔に子どもじみた興奮の色が表れた。ジリアンとイーサンはまともに彼を見つめ、お決まりのもったいぶりをささやかに盛り上げてやった。
「一緒に悪だくみをしたいんだよ。そろそろ、女神王から我がルーセチカを取り返す頃合いだと思ってね」
ありがとうございます。
あーあ、私にも大金が舞い込んでこないかしら。




