何ら違いはしないのに
自我
白狼族の住まうエッタの地は、ルーセチカからさほど遠くはない。だが、一行がまだ日の高いうちに馬車を下りたのには別の理由があった。というのは、彼らを乗せていた御者が、国境より先には進まないと言って聞かなかったからだ。エセルの必死の交渉も功を奏さず、結局彼らは殺風景な道のりを徒歩で行くことになった。
急斜面を登り、丘の上から見下ろすと、白狼族の小さな集落が見える。エセルは足を止め、白い点のように見える亜人たちが動き回るのを眺めた。隣にメリッサが立ち止まる。
「彼らのところに行って、無事で済むかしら?」
「顔を見ただけで飛び掛かってくるとは思えないけど」
「どうだかね。あの御者の人がエッタまで連れていってくれなかったのは、酷い目に遭ったことがあるからかもしれないわ」
「悪いことばっか考えてもしょうがないだろ」
「これを危機感って言うの」
メリッサはつんとして言った。エセルはため息を我慢しつつ鼻を掻いた。まさか本当に妹がついてくることになるとは、彼は少しも考えていなかった。ジリアンかセレスティアが一も二もなく却下すると思い込んでいたのだ。彼には彼女たちがメリッサの同行を許した理由がまったくわからなかった。相変わらず心の分厚い壁を隔てているとなればなおさらである。たった一つだけメリッサに付された条件は、質問はなし、というものだった。探求心の強い彼女のことだから、その約束を守ろうと思っても破ってしまうだろうけれども。
セレスティアは連れの二人がついてきていないのも気に留めず、緩やかな坂を黙って下っていっているところだった。兄妹はそれに気付くと、目を見合わせ、彼女の後を追った。
「セレスティアさん、知ってますか?白狼族は人間を毛嫌いしてるんですって」
メリッサが後方から呼びかけると、セレスティアは足を緩め、若干振り返った。
「そう」
「だから、気をつけないと。無茶なことはさせませんからね」
「わかったわ」
本当にわかっているのやら、淡白な返事を返して、彼女は先を急ぐ。と思うと、彼女は再び兄妹を顧みて足を止めた。
「メリッサ、私に気を遣わないで。エセルがしているようにしてくれればいいわ」
彼女は言った。要するに、やたら構うなと言いたいのだろう。メリッサは不思議そうな面立ちで、人差し指を口元に添えて考え込んだ。それから、にっこりと微笑む。
「良かった!私、あなたと仲良くなりたかったの。これまで、歳が近い女の子っていなかったから……ね、これからよろしくね、セレスティア」
横でそれを聞きながら、エセルは思わず笑いを漏らした。彼の妹は非常に器用な娘だった――決して鈍いわけではないのだ。セレスティアはしばし唖然としてメリッサを見つめたが、その無邪気さにはさすがに敵わなかった。
「……ええ」
ようやく彼女は答え、歩みを進めた。メリッサはしたり顔を兄に向ける。エセルは考えたことだろう、妹が同行することになったのは正解だったと。
*
ジリアンに言わせれば、この数日で起きたことというのは、十分に信憑性のあることだった。実際彼女が目撃したものはほとんどないにもかかわらず、である。だが、彼女は何でも信じる性質ではまったくなくて、むしろ馬鹿げた話を軽蔑的にしか聞いてくれないような人間だ。私と彼女の間にかつて起こった対話も、そんな帰結を辿った。
あの日の侮蔑の取り消しと謝罪が込められた手紙を読んだとき、私は多少なりとも満悦を覚えた。しかし、私は何もかも忘れると決めてしまっていたし、書き溜めた記録も一度読み直したきり、どこかに封印してしまった。どこにあるかわからないので、もう読み返すことはできない。
だから、ジリアン、君の探し求める答えを私が与えることもできないよ。たまにはすべてを君の愛しい息子に任せればいい。結局、君は待つことしかできない立場なのだ。
*
「ギョッチネ!」
一匹の白狼族が叫んだ。エセルは驚いて立ち止まった。その後ろでメリッサが後退る。セレスティアはただ一人平然として、余所者たちを睨みつける亜人と相対していた。
「ギョッチネ!」
白狼族は繰り返す。その声を聞きつけ、一族がぱらぱらと集まってきた。セレスティアがそれを無視して先に進もうとするのを見て、エセルは彼女を引き留めた。
「出直したほうがいいんじゃないか?」
「同じことだと思うけれど」
セレスティアは怪訝そうに答えた。白狼族がじわじわと迫り来ているのに気付き、メリッサがさらに後退る。
「ねえ……ギョッチネって何かしら?」
「斬首よ。けれど、彼らにできるわけがないわ」
そう言って、セレスティアは目の前に立ちはだかる白狼を避け、さっさと先に進んだ。置いていかれることを恐れてメリッサが駆け出し、エセルも二人に続く他なくなった。
白狼族が並んで作り出す道を進み続けると、やがてもう一匹、彼らの前に仁王立ちする亜人が現れた。周囲の一族の様子を見るに、それが頭領であることは疑う余地もなかった。セレスティアはその前で足を止め、彼女の隣にエセルが、二人の背中に張り付くようにメリッサが立った。比較的友好的な笑みを浮かべた頭領が口を開く。
「悪いが、うちはニンゲンお断りでね」
「力尽くで追い出すつもりかしら」
「猶予はやるさ。自分から出ていってくれるなら、手出しはしない」
「探してる人が見つかったら出ていくつもりだよ」
セレスティアがさらに好戦的な態度に出る前にエセルは口を挟んだ。頭領の顔に小馬鹿にしたような色が表れた。またこれか、と言いたげにエセルは唇を噛む。カルツァでのときと同様に、どういうわけか無事で済むなどということが起こり得るだろうか?
「ニンゲンに探されるような奴はここにはいない。わかったら、早く……出て……」
頭領は言いかけながら、ゆっくりと静止した。ぽかんと口を開け、その眼差しはセレスティアとエセルの顔へ交互に向けられている。二人は眉をひそめて目を見合わせた。頭領がおもむろに彼らに歩み寄った。
「あんた……ちょっと、上向いてくれないか?」
彼は言った。セレスティアは首を傾げつつ、言われた通りに顎を上げた。太陽の光を受けて、その紫苑の瞳が煌めく。頭領が息を呑んだとき、私もまたそうしていた。間抜けで薄汚い売人が売りつける宝石など比べ物にならない。とはいえ、頭領がはっとしたのは、その瞳に魅せられたからではなかったが。
「ああ、あんた、その目は……なあ、あんたも同じ目をしてるのか?」
頭領はエセルに向き直り、彼の目を覗き込む。
「え?ああ、多分……」
エセルは目を逸らしたい衝動を抑えようと瞳を揺らした。素早い観察を終えると、頭領は嘆息して彼から離れた。
「あんたは少し違って見えるな。いや、しかし……そうか。じゃあ、でたらめじゃなかったのかなあ」
「目が何なんだよ?」
エセルが止めていた息を吐き出しながら尋ねた。
「実はな、我が一族には言い伝えみたいなのがあるんだ。もし世にも珍しい紫の瞳を持つ者が現れたら、何があろうと手を貸すべしってな」
「何か理由が?」
「それがさっぱりでな。まあ、決まりは決まりだ。あんたらはニンゲンだが、協力しよう。――お前ら、もういいぞ!」
頭領は声を張り上げ、腕を振って解散の意を示した。白狼たちはどこか不満げに、一匹また一匹とその場を去った。メリッサが安堵のため息を漏らす。頭領は大きく伸びをして踵を返した。
「軽くもてなすかね。大したものはないが……っと、俺はアントだ。一応、長ってことになってるが、あいつらに尊敬されてないのは間違いないよ。あんたらは?」
「エセルだ。彼女はセレスティアで……こっちは俺の妹のメリッサ」
「エスに、セレス……タ?とメリサか。ニンゲンの名前は言いづらくて駄目だね」
アントは特に嫌味でもない調子で言い、哄笑した。三人は彼について集落の中を進んだ。ぽつりぽつりと張られた天幕以外、大したものはない。娯楽など無縁で、これでは暇を持て余しそうなものだったが、白狼族は忙しく動き回っている者が大半だった。何かの支度をしているようだ。
「何だか、慌ただしいのね」
メリッサはエセルの耳に囁いた。すると、アントが振り返る。
「もうすぐグゥヴァがあるからな」
「グゥヴァ?」
「旅立った同胞の魂を鎮め、今後も見守ってくれるようお願いするのさ。伝統的なお祭りだよ」
アントは言い、大きな天幕に入っていった。彼は客人をどこでもない位置に座らせると、何でできているのかよくわからない入れ物に、何で作ったのかよくわからない液体を注いで振舞った。エセルは容器を鼻に近づけ、液体の匂いを確かめた。一体どんな匂いがしたのやら、彼の眉間に皺が寄る。露骨に嫌な顔をしないように努めながら、彼は容器を下ろした。
「アントさん、これは?」
メリッサが何げなく尋ねた。アントは自身の杯を一気に呷ってから答える。
「シラコタだよ。本当にニンゲンは飲まないのか」
「初めて聞きました。何でできてるんですか?」
「その辺で摘んだ野草を動物の骨で煮出しただけだな。美味いぞ、飲んでみろ」
「ああ……」
メリッサは濁った液体を眺めて顔を引きつらせる。だが、好奇心が勝ったのか、彼女は躊躇いがちに容器を口元で傾けた。私にわかるのは、それが酷く不味かったということだけだ。彼女は慎重に杯を置き、無理に笑顔を作った。
「面白い味、ですね……」
「味に面白味があるもんかね。それはそうと、あんたら、人を探してるんだったな」
アントが話を戻した。またもシラコタの匂いを嗅いでいたエセルはそそくさと座り直した。
「この辺りに、霊と交信できる人がいるって聞いて。知ってるといいんだけど」
「……なるほどね」
頭領の顔に悩ましげな色が加わった。セレスティアはどこか退屈そうに片腕に重心を預ける。
「何か問題でも?」
「ああ。あんたらが言ってる奴が誰かはわかる。だがなあ……奴に会いにいくのはおすすめできないね」
「何で?」
「そりゃ、奴がとんだ下司野郎だからさ。まだがきんちょのくせして」
「子どもなのか?」
「そうさ。奴の性根が腐ったのは、母親のせいに違いないけどな。その母親はもう死んじまって……それだけがちょっと可哀想かな。まあ、とにかくよっぽどの理由がない限り、奴なんざ頼りにしないほうがいい」
アントはそう言いきり、セレスティアが手をつけないシラコタを一気に飲み干した。彼女はその様子をじっと眺め、彼が容器を置くや口を開く。
「それで、その子どもはどこにいるのかしら」
「丘の上さ。太陽が昇ってくるほうに歩いてりゃ、じきに屋敷が見えてくる。まあ、何だ、ニンゲン同士なら仲良くやれるかもな」
「ありがとう。行ってみるよ」
エセルは言い、それでもどこか気の進まない様子で立ち上がった。セレスティアはすでに天幕の出口から外に出ようとしていた。メリッサが彼らに続いて腰を上げようとしたとき、アントが馬鹿に大きい声を出した。
「おっと、嬢ちゃんは駄目だよ」
「ええ?どうして?」
「そっちの二人は目を見りゃ襲っちゃいけない相手だってわかるが、あんたはそうじゃないだろ?ここから出たばっかりに痛い目に遭われても、俺の寝覚めが悪い。まあ、どうなってもいいってんなら、出歩けばいいけどな」
と、アントは寝そべって目を閉じる。メリッサは怯えた眼差しで彼と兄を交互に見た。エセルは勢い拳を固めたものの、白狼に殴りかかるのは自制した。血の薄れた一族とはいえ、亜人に普通の人間が勝てるわけがない。彼は妹に首を振り、忠告を聞き入れるよう促した。メリッサは渋々腰を下ろす。と、もうほとんど天幕を出ていたセレスティアが素早く中に戻ってくる。彼女は眠ったふりをしているかのようなアントの傍に跪き、彼の喉に静かに手を添えた。彼が目を開けて彼女に白い目線を送る。
「……何だい、セレスタ?」
「よく聞いて。メリッサは置いていくわ。けれど、私たちが戻ってきたとき、もし彼女に傷一つでもついていたら、あなたのことはただでは済まさない。誰も、誰一人、私の知人に危害を加えることは許さないわ。わかった?」
「おっかないねえ。だが、よくわかったよ。嬢ちゃんがここを出なきゃいいってことだな」
アントは再び目を閉じた。セレスティアは鼻を鳴らし、黙って天幕を出た。兄妹は目を見合わせる。彼らが感じているのが頼もしさばかりではないのは明らかだった――。
*
エセルとセレスティアは太陽を背にひたすら足を進めた。時折、彼らの視界の端に白狼族の姿が映ったが、亜人たちは身を屈めて二人を警戒するだけで、近づくこともしなかった。風が静かに吹いている。何も知らない人が見れば、二人は恋人同士でなくとも、平穏な世界で暮らし、会話をするまでもなく仲睦まじい関係に思われたことだろう。いや、ただ会話をしていないだけか。
夕暮れが訪れつつある頃、彼らの目前に小高い丘が現れた。その丘の上に、この辺りの閑散とした雰囲気に似つかわしくない屋敷が建っている。彼らの目的地であるに違いなかった。エセルはふと立ち止まり、丘を見上げた。
「あれだな」
「そうね」
セレスティアは足を止めずに答えた。エセルは彼女の揺れる長髪を見つめ、物思いに耽った。彼が動かないのに気付いた彼女は背後を顧みる。
「どうかしたの?」
「ちょっと、ね……」
「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうかしら」
仰せのままに。エセルは肩をすくめ、彼女の隣まで歩いていく。
「こんなことを頼むのも変だけどさ、すぐに人を脅すのはやめてくれないかな?」
「何のこと?」
「アントだよ」
「ただの警告よ」
「カルツァでのことは?」
「同じことでしょう」
「じゃあ、あれもこれも脅しだよ」
エセルはため息交じりに言った。セレスティアはどこかたじろいだように見えた。が、即座に鋭い眼差しを投げる。
「何が言いたいの?」
「そういうやり方じゃ、いつか身を滅ぼすと思うんだ」
「悪いけれど、私はそういうやり方しか知らないわ。負けなければいいだけだもの」
「負けたから死んでたくせに」
「あなたは何も知らないでしょう」
「君だってそうだ」
食らいつくエセルを、セレスティアは呆れたように見つめた。細く吐き出される息が震えていた。論破されることに慣れていないようだ。彼女は沈黙し、誤魔化すように目線を屋敷の扉に移した。エセルは彼女が扉を叩こうとする前に続けた。
「アントが言ってた子どもが協力してくれなかったとしても、脅したりしないって約束してくれ」
「元からする気はないわ」
「警告もだよ」
「しないと言ったらしないわよ」
セレスティアは暗い声音で答え、話を打ち切るように叩き金を鳴らした。中で誰かが動き、床が軋む音がした。それから、勢いよく扉が開け放たれる。そこに立っていたのは、意外なことに、雌の白狼族だった。長らく手入れをしていないらしく毛並みが乱れており、片目を包帯で覆っている。彼女は妙に脱力した様子で訪問者に相対した。
「えー、ニンゲン?珍しー。何か用?」
「死者と通じることができる子どもがここにいるって聞いたんだけど」
「そりゃいるけどね。アリステア坊ちゃんは忙しいの。あんたたちみたいな間抜け面に合わせる顔なんかないってわけ」
「それを言うなら、会う暇はないとか……」
「うるさ。とっとと帰ってねー」
と、白狼族は扉を閉ざす。エセルは戸惑ってセレスティアに目をやった。彼女はゆっくりとかぶりを振り、早くも踵を返そうとした。が、ふと屋敷の二階へ目を上げる。その窓辺に、少年の姿があった。桃花の瞳が怯えるように二人を見下ろしていた。エセルも少年に気付く。
「あれがアリステア坊ちゃんか」
「そうみたいね」
「直接、協力してくれないか聞いてみる?」
「彼が窓を開けるならね」
セレスティアが言ったとき、ちょうどアリステアが窓を押し開いた。安堵してエセルが呼びかけようとする前に、少年は身を乗り出してこう怒鳴った――。
「何見てんだ、ばーか!サラが帰れって言ったんだ、さっさと消えろよ!」
そして、彼は素早く窓を閉め、帳まで引いてしまった。二人は唖然として立ち尽くした。
「俺、アントの言いたかったことがよくわかった気がする」
「けれど、何か引っかかるわ」
「そう?」
エセルは訝るように聞き返した。セレスティアはしばし真剣に考えを巡らせたが、出てきたのは合点のいく答えではなく、無用のため息だった。
「……駄目ね。子どもの考えることなんかわかるはずもないわ」
「まあ、しょうがない。集落に戻ろう。なあ、今夜、アントの天幕に泊めてもらえるかな?野宿だと思うか?」
「野宿でもいいわ。きっと、今日は星がよく見えるから」
セレスティアは独り言のように呟いた。エセルは空を見上げた。雲一つない空を太陽が赤く焼き、一日の幕引きを彩ろうとしていた。




