万歳人殺し
自我!!!!!!!!
ロイドからの最初の指令を聞いたとき、エセルは何とかそれを拒否しようとした。だが、彼の悪だくみに加担すると宣言した手前、駄々をこねるのも気恥ずかしく、気付けばセレスティアと共に馬車に乗っていた。青年がどこか落ち込んでいるのを察していたとしても、セレスティアは気に留めていないようである。それにしても、彼女はせっかちだ。城を出てすぐに目的地へと出発したのだから。
彼らの目的地はカルツァという都市であった。いつかはどこの国にも属さない中立都市として威光を放っていたものの、今では悪党の巣窟と化し、そこに住む人々は命に金を賭けて終末的な遊びに興じているというのがもっぱらの噂だった。エセルがカルツァに行きたがらないのは、その道楽に参加している人物を知っているからに他ならない。いずれにせよ、彼はもう引き返せないのだけれども。
「……それで、ロイドさんの話、どう思う?」
「信じられるわ」
「記憶がないから?」
「そうね。それから、彼の仮説が間違っていたとしても、私には何の損もないもの」
「だけど、もしこのことが知れたらただじゃ済まないぞ」
「知られないようにするための準備をしにいくのよ。忘れたの?」
「そうじゃないけど……」
エセルはため息交じりに言い、座席に深く身体を沈めた。ロイドの話では、カルツァの殺し合い――通称、鼠闘――には、かつて彼の友人だった男が潜んでいるという。イーサンなるその人物も悪魔であり、かつてはその力を使って盗賊としてあちこちの富豪たちを悩ませたのだとか。冷淡な男だが、ロイドの名を聞けば協力は惜しまないというのが我らが軍師の見立てであった。私に言わせれば、ロイドと親しくしていた頃のイーサンなどもういないし、そのために彼は未知数なのだが。
「来なくてもいいのよ」
ふとセレスティアが言った。エセルは戸惑って、正面に座る彼女の凛とした面持ちを見つめた。彼女は続ける。
「私は私のすべきことをするわ。あなたがそれに付き合う必要はない。いくら私と初めに出会ってしまったとはいえね」
「俺は、俺たちのするべきことだと思ってるんだけど」
「そうかもしれないわね。けれど、理由はわからない、そうでしょう。確かなのは、これが私の運命に過ぎないということよ。そして、私の歩む道は決して楽ではないわ。いつもね」
「覚えてないんだろ」
「感じるの」
彼女は皮肉っぽく口元を歪めた。エセルはじっと彼女に目を注いで考え込む。運命を信じて疑わない母親を持つ彼には、彼女の言う意味が正確にわかったことだろう。
「……俺だって、逃れられない気がしてるんだ。君が運命を信じるならわかるよな?それに――」
彼は続きを躊躇い、前かがみになって声を低くした。
「――見られてる気もする」
「彼女ね」
「女神王と同じような感じがするんだよ。従わないとただじゃ済まないような……」
「不確かなものばかりに怯えるのね」
「不確かなんかじゃない」
「そう。いずれにせよ、肩の力を抜きなさい。道が決まっているのも、案外悪くないものよ」
セレスティアは長々と息をつくと、目を閉じて動かなくなった。エセルはしばらくその固い顔つきを眺めていた。疑っているのか、青年よ――彼女を、そして彼女に手を貸すことを選んだ自分自身を?ああ、君に教えてあげたいよ、運命などないということを。選択の責任をそれに押し付ける君が、私は本当に気に入らないと。
*
「やっぱり、帰らない?」
馬車を下りて開口一番、エセルは縋るように言った。無理もない。足を踏み入れる前から、カルツァの町からは穏やかではない喧騒が響いてきていたのだ。罵声や咆哮、歓声が、そこで行われていることの異常性を十分すぎるほど伝えていた。普通の人間はこんな場所に一日もいられないだろう。だが、セレスティアは怖気づくどころか、妙に飄々として言う。
「人間が戦っているだけよ。目的を果たすくらいの余裕はあるわ」
「平気で人殺しをするような連中なんだぞ」
「私もよ」
彼女は根が生えたようなエセルを他所に歩みを進めた。エセルは愕然と彼女の背中を見つめたが、すぐに両手を服で拭い、意を決して彼女に続いた。ただの冗談だと己に言い聞かせて。
すぐ目に入る場所で男たちが殺し合っているのが見えた。傍にある建物の窓から観客が身を乗り出し、やたら騒いでいる。二人が見ていると、戦っている男の片方が短剣を相手の喉に突き刺し、決着をつけた。大歓声と共に金が降り注ぎ、同時に賭けの清算が始まった。これがカルツァの日常だった。
「巻き込まれる前に行こう」
エセルは立ち止まるセレスティアの耳に囁き、人のいない路地へと進んだ。セレスティアは大人しくついてきた。だが、曲がり角に差し掛かったとき、エセルの目の前に刃の切先が閃いた。
「止まりな、小僧」
エセルは鋭く息を呑み、目だけを動かして相手の顔を確認した。小太りの男だった。それなりに歳もいっている――どう見ても鼠闘士ではなかった。エセルは若干安堵して力を抜いたが、男はそれを見逃さなかった。刃が一層近付けられ、青年の腕に鳥肌が立った。
「舐めてもらっちゃ困るぜ。俺はこの町を取り仕切るブリーダー……の右腕、ブーキーだ。痛い目見たくなきゃ、ここの決まりに従ってもらわねえとな」
「決まりって?」
「へっ、簡単よ。金を払って観客になるか、払わずに戦うかだ。例外はないぜ」
「いくら?」
「金貨十枚でいいぜ」
ブーキーはへらへらと笑う。この若者に支払えるわけがないとわかっていたのだろう。エセルは目に見えて青ざめた。
「は……あるわけないだろ?」
「なら命懸けで戦いな!しばらくはここを出れると思うなよ!」
エセルはさっと振り返って連れの姿を探したが、彼女はどこにもいなかった。いたとして、彼女が金を持っているはずもない。彼は歩き去ろうとするブーキーを何とか引き留めようとした。
「いや……ちょっと待ってくれ!人を探しにきただけなんだよ」
「知るか!」
エセルをせせら笑いながら、ブーキーは指を使って高らかに口笛を鳴らした。それを合図に、金と血に飢えた鼠闘士たちがそこここから姿を現す。見渡しても逃げ場はない。涙のように全身から汗が噴き出し、彼は茫然自失に立ち尽くした。にじり寄る獣たち、ブーキーの哄笑、どこからか響いてくる冷やかしと怒声……何か打開策があるはずだった。エセルはもう一度辺りを見回し、絶望的な呻き声を絞り出す。
「どこ行ったんだよ、セレスティア……!」
「ここよ」
そんな短い声と共に、彼女がどこからか姿を現す。その様はさながら放たれた矢のごとく、誰にも気付く隙すら与えなかった。どこで調達したのやら、彼女は紐を手にしており、それを素早くブーキーの首に巻き付けた。圧迫感にブーキーは凍り付き、攻撃を仕掛けてきた人物を確かめようともがく。
「おい……!俺を、誰だと思ってやがる?ただじゃ済まねえぞ!」
「どちらにせよ、ただでは通してくれないのでしょう」
そうブーキーの耳に語りかけながら、セレスティアは紐をきつく締め上げる。エセルを狙って現れた鼠闘士たちは戸惑って立ち止まり、新入りの女に興味深そうな一瞥を投げている。エセルは彼女の救済に膝から崩れ落ちそうになった。だが、同時に、顔を真っ赤にして抵抗を試みるブーキーの姿に戦慄した。
「……殺す気じゃないよな?」
「それは彼の出方次第ね」
セレスティアは平然として答え、少し力を抜いた。ブーキーは咳き込み、恨めしげな目をして彼女を振り返る。
「この……くそったれ!ただじゃ済まさねえ!」
「それしか言えないのかしら」
「ふざけ……やい、てめえら!この女をぶち殺せ!俺に逆らったらどうなるか、嫌ってくらい味わわせてやる……!」
ブーキーはしわがれた声を張り上げ、身振り手振りで周囲の鼠闘士たちに訴えかける。だが、動き出す者はいなかった。彼女を恐れてか、この状況を面白がってか、はたまた、彼が痛めつけられるのを望んでか。セレスティアは憐みの目を彼に向けた。
「彼ら、手伝ってくれそうにないわね」
「くそっ……覚えてろよ、てめえら!」
「あなたこそ覚えておきなさい。私の知り合いに手を出すからこういうことになるの」
セレスティアは再び紐を握る手に力を込めた。ブーキーの必死の抵抗も、彼女の前ではまったくの無意味だった。観衆の歓呼が一層大きくなる。エセルは息を潜めて場の動向を見守っていた。彼は安心しきっていたのだ、汚れた町の流儀に自分が染まらずに済みそうだということに。彼はセレスティアがブーキーの耳に顔を寄せるのを眺めていた。そして、二人の肩越しに、一番見たくなかったものを見つける――。
「私の質問には慎重に答えることね」
彼女の低い囁きに支配されながら、ブーキーもまた、迫り来るその存在に気が付いた。勝利を確信して目が躍り出した彼を不審に思い、また貫くような殺意を察して、彼女は咄嗟に身を屈める。その頭上をぎらつく刀身が掠め、ささやかな落胆の声を誘った。
「遅えぞ、テオ」
ようやく解放されたブーキーが息も絶え絶えに言った。テオは不愉快そうに顔を歪め、彼を無視して追撃を繰り出そうと双剣を構え直す。エセルは思わず前に飛び出し、セレスティアを庇うようにして立った。濁ったテオの眼差しが息を吹き返して閃く。
「あ?エセルじゃねえか。何してやがる?」
「少なくとも、お前に用はない」
「へえ、ふてくされて家を出たと思ったら、美人連れて鼠闘でひと儲けを狙ってるとはな。かっこつけたかったんだろ?逢引としちゃ悪くねえ……だが、お前には無理だぜ。生きてる世界がまるで違う。なあ、美人さんよ?あんたもそう思うだろ?」
テオは下卑た笑みをセレスティアに向けた。エセルは強く唇を噛み、どうしたものかと彼女を横目で見た。そのとき、彼は彼女の様子がおかしいことに気が付いた。彼女は雷に打たれたかのように動きを止め、張り詰めた凝視をテオに投げつけていた。存在してはならないものを見つめるかのごとく。
「あなた……は……」
「何だ?惚れられちまったかな。遊んでやってもいいぜ。大行列の先頭にご招待だ」
テオはにやつきながらセレスティアにゆっくりと顔を近付ける。直後、彼は頬を打たれて後方によろめくことになった。拳を繰り出したセレスティアは獣のような目をしていた――それは狩る者の興奮であり、狩られる者の畏怖であった。空白に根差した何かなのだ。テオは侮蔑的な目を彼女に向けた。
「こりゃまた随分――」
言いきる前に追撃が飛んでくる。辛うじてその蹴りをかわしつつ、テオは臨戦態勢を整えた。エセルが危険を察してまたも二人の間に割り込もうとする。義理だとしても父親だと思いたくない男の強さを彼はよく知っていたのだ。だが、彼が動き出すが早いか、セレスティアの鋭い眼光が彼を貫いた。
「邪魔をする気?」
その一言だけで、エセルの息が詰まった。彼は思わずぴたりと動きを止め、傍観者の立場に逃れた。誰かが短剣を投げ入れたのをセレスティアが拾い上げる。慣れた動作と共に飛び出す一撃がテオの耳を掠めた。そのときの彼の興奮した顔つきが、いかに彼がこの町に毒されているかを物語っていた。彼は矢継ぎ早に繰り出される彼女の攻撃をいなし、不敵に笑った。
「小鳥に突かれてる気分だぜ」
彼は言い、相手に向かって唾を吐きかけた。動揺を誘うつもりだったのだろうが、セレスティアはそれをあっさりとかわし、仕返しと言わんばかりに彼の脛を踵で蹴る。テオの顔が歪み、彼女はそこに勝機を見た。
「あなただけは殺さないと……」
空中で短剣を持ち替え、彼の胸を刃で貫く――。
「甘いぜ、小鳥ちゃん」
気付けばテオは機敏に後方に飛び退き、剣を軽やかに振り上げていた。急所を狙って前のめりになったセレスティアの白い首に、白銀の牙が襲い掛かる。エセルが間抜けで絶望的な声を上げた直後、肉が斬り裂かれ、鉄臭い血が迸った。血飛沫が頬につき、エセルはそれを手の甲で拭った。愕然として、手に擦れた血の跡を眺める。顔を上げると、崩れ落ちる女と、恍惚と立つ男の姿が目に飛び込んできた。そして、爆発するような喝采が耳を劈く。貨幣が地面に落ちて跳ね返り、“英雄”の名を叫ぶ人々の拍手に加わった。
「昂ったな……良い獲物をありがとよ、エセル」
音という音が辺りを覆い尽くしていたのにもかかわらず、テオの声ははっきりとエセルの耳に届いた。それが青年の何かを狂わせた――武器もないのに、彼はテオに飛び掛かった。驚きながらもテオは彼を突き飛ばし、剣を構え直す。
「やる気か?いいぜ、お前のことは昔から気に入らなかった……お灸をすえてやるよ」
エセルは遮二無二テオの胸ぐらを掴み、わけもわからず彼を揺さぶった。青年は人が殺されるのを見たことがなかった。気が狂っても無理はない。そんな彼の様子を、テオは無抵抗に揺れながら愉快そうに見ていた。
「……何がおかしい!」
「初めての女だろ?拗らせんなよ?」
「この……!」
エセルは勢いの足りない拳を振ってテオの顔面を殴りつける。
「お前はどうしようもない人殺しだ!そうやって、いつか母さんのことも殺すんだろ?メリッサも、俺も……皆殺す気なんだ!」
「いいや、違うね」
テオは身を委ねるのに飽きたかのように覚醒し、エセルの腹を足蹴にして彼を引き離した。
「ジリアンも、メリッサも、がきどもも殺しゃしねえ。家族は大事、だろ?だが、エセルレッド、お前は俺の家族じゃないんでね」
テオは笑みを浮かべていなかった。静かだが果てしない怒りが彼の中に満ちているのが私にはわかった。彼はエセルに立ち直る隙を与えることなく、深く肉を斬り上げようとした――次に響いたのは歓声ではなく、どよめきだった。奇妙なことが起きたのだ。それも、二つ同時に。
「……おいおい」
テオは自身の剣がエセルの腕に喰い込まずにぴたりと止まっているのを、どこか達観した面持ちで見つめた。驚いているのはむしろエセル本人のほうだった。鋼鉄のように刃を受け付けない身体を持っているなど、考えたこともないに違いない。そして、きっとその場の誰も気付いていないことであろうが、青年の項には、何か鱗のようなものが浮き出ていた。目を凝らす前に消えてしまったそれは一体何だったのか?
さらに、時が止まったように呆然とする二人の男の間を疾風が駆け抜ける。それはテオの腕を斬りつけ、無効の攻撃を中断させた。隣に立った彼女に、エセルは驚愕を重ねる。
「何で……」
セレスティアは彼に不愛想な一瞥を与えた。その首には傷痕一つない。だが、その衣服には確かに大量の血が付着していた。一体どうなっている?彼女は何故かはわからずとも宿敵である男に向き直り、今度こそ決着をつけようと構える。それを見て、テオは撤退を決意したようだった。
「悪い夢だな、こりゃ」
そう呟いて駆け出す彼を、セレスティアは即座に追いかけようとした。それをエセルが無理矢理引き留める。ほとんど抱きしめるように肩を掴む彼に、彼女はまたも高圧的な眼差しを向けた。
「離しなさい」
「嫌だ。なあ、あいつには勝てないよ、セレスティア。また死ぬぞ」
「少し傷を負っただけでしょう。死んでないわ」
「少し?少しだって?君って、何でそんな――」
エセルが力なく両腕を下ろしかけたとき、セレスティアの身体が揺らいだ。よろけた彼女を慌てて支え直し、エセルは屈んで彼女の顔を覗く。その顔色は蒼白で、陶器のように見えた。
「……貧血かしら」
「そりゃそうだよ。どこかで休もう」
「できない相談ね。あの男を追わないと」
彼女はエセルの手を振り払うように立とうとして、残念、倒れ込むように壁に手を突いた。青年は呆れたように両手を下ろし、彼女の白い顔を困惑して見つめる。
「何でそんなにあいつを?」
「わからないわ。けれど、あの顔だけは、忘れもしない……」
「何にしても無理だ、そんな状態じゃ……そもそも、俺たちはイーサンって人を探しにきたんだろ?」
セレスティアは悔しげな面立ちで閉口した。何が彼女を駆り立てるのか、私も、エセルも、彼女自身でさえ理解できなかった。観衆がようやく散り散りになり、辺りに静けさが戻っても、彼らは黙り込んでいた。やがて、セレスティアがゆっくりと地面に腰を下ろしながら言った。
「いいわ。休みましょう。目的の人を探しにいく必要もないようだし」
「何で?」
「いるわ。あなたの後ろに」
「いないよ……」
エセルは半ば冷やかしのつもりで振り返り、凍り付いた。壮年の男がそこに立っていた。足音や、呼吸音すら聞こえなかった。男はにこりともせずに口を開いた。
「俺の時間は値が張るぞ」
*
イーサンはセレスティアに強いて肩を貸し、彼女とエセルを戦場から連れ出した。いくらカルツァといえども、戦闘が禁止されている区域はあるらしい。入り組んだ路地裏を抜け、彼らは今にも崩れそうな小屋に辿り着いた。
「入れ」
イーサンが唸るように言った。エセルは露骨に嫌そうな顔をしたが、黙って指示に従った。中には小屋に不似合いなほど清潔な寝具が置かれている他はほとんど何もなかった。イーサンはセレスティアをその寝具の上に座らせ、二人から離れた場所に立った。沈黙が走る。最初に気まずさを意識し始めたのは、やはりエセルであった。彼はセレスティアの様子を窺い、彼女がぼんやりとしているのを確かめると、仕方なしといった様子で開口した。
「あの、ありがとうございます、助けてくれて」
「そんな話をしている暇があるのか?ただで話を聞くほど、俺は親切ではないが」
「わざわざ連れ出してくれる辺り、結構親切なんじゃ……」
イーサンが鬱陶しそうに顔をしかめたので、エセルは途中で言葉を切った。
「用がないなら出ていけ」
「ああ……いや、実は、手を貸してほしくて。ロイドさんに言われて来たんです」
イーサンの眉がぴくりと反応する。
「彼が?伝言は?」
そう尋ねられ、エセルはしばし黙った。イーサンの威圧に気圧されて、頭が真っ白になっているに違いない。見かねたセレスティアが気怠げに口を挟む。
「伝言は頼まれてないわ。とにかく連れて帰れと」
「何故俺がお前たちを信じなければならない?」
「別に私たちのことを信じなくても構わないけれど、ロイド卿のことは信じてあげたらどうかしら。かなりあなたを当てにしていたみたいよ」
「お前たちが彼と通じていること自体が怪しいと言っている」
「そう?他にあなたと彼の繋がりを知っている人がいるの?」
いたらどうするんだ。彼女は自信家すぎる節がある。ともあれ、これはイーサンには効いたようで、彼は沈黙してとっくりと考えた。もう十年は会っていないロイドについて振り返るのは、彼には造作もないことらしかった。郷愁だろうか、その顔つきが微かに和らぐ。
「彼が俺を探す理由は?」
「女神王とやらに痛い目を見せるためよ」
「何?」
何の気なく悍ましいことを言ったセレスティアを、イーサンは正気を疑うように見つめた。彼女は相手が動揺していようがどこ吹く風で、気分が悪いのか、寝具に横たわって目を閉じた。イーサンは弁明を求めるようにエセルに目線を移す。青年はたじろぎながら口を開いた。
「話せば長くなるというか――」
「お前たち、何者だ」
イーサンはエセルを遮って尋ねる。
「俺はエセルで、そっちはセレスティア――」
「だが、この女は何だ?」
再びイーサンは答えを聞く前に質問を重ねた。何かが彼を強烈に刺激しているのだ。エセルは答えに迷ってセレスティアに目をやった。彼女は相変わらず目を閉じていた。が、寝言のように呟く。
「旧い世界で死に、新しい世界で蘇った。わかっているのはそれだけなのだけれど、満足かしら」
その馬鹿げた自己紹介を聞いて、イーサンは嘲笑するように息を吐き出した。戸惑いに瞳が揺れているのが見える。
「首を掻き斬られても死なないのは、お前がその旧い世界とやらの人間だからだというわけか?」
「そうなんじゃないかしらね」
セレスティアは微笑んだ。彼女の言い分を信じるなど普通ではありえないが、しかし私は確かに目撃していた。あのとき、壮絶な痛みと遠のく意識の中で彼女がしたことといえば、鮮やかな血の溢れ出る首元に指先で触れることだけだった。みるみるうちに開いた傷口が塞がり、そして傷を受ける前の状態に戻るのを、私は見てしまった。偏屈だとはよく言われるが、私は自分の目で確かめたものについては決して疑わない。彼女は確かにこの世界――私が住み、受け入れ、そしておそらく順応してしまった世界――に生きる人間ではないのだ。
イーサンは沈黙して動かず、ただ彼女を見下ろしていた。その息が震えるのを耳にし、エセルはふと彼を見やった。直後、その瞳が一瞬緋く変貌し、男の姿は影に溶けて消える。エセルは驚いて小屋の中を見回したが、彼はどこにもいなかった。いや、正しくはいたのだが。影の男は気付けば寝そべるセレスティアに馬乗りになり、彼女の細い首を片手で押さえていた。もう一方の手には、先ほどセレスティアが使っていた短剣が握られている。
「……何か仕掛けがあるに決まっている」
彼は言い、刃を彼女に近づけた。両目を開け、セレスティアは鋭い目つきで相手を睨む。エセルは慌てて二人の傍に飛んでいき、刃物を握るイーサンの手首を掴んだ。
「何考えてるんだよ!なあ、俺たちは協力してほしいだけなんだって」
「お前の秘密も暴く。この女の後にな」
イーサンの身体がエセルの手からすり抜ける。人殺しの本能に目覚めた男を止める手立ては青年にはなかった。迫り来る刃がセレスティアの瞳の中で煌めく。それでも、彼女はじっと自分の上に乗った男に目を注いでいた。諦念でも、達観でもない――純粋な興味だ。自分の身に何が起きるのかを恐れず知ろうとする、熟れていない少女のような眼差しである。凡庸な男だったなら、十分に手を止める理由になったことだろう。イーサンはそういう人間ではなかったけれども。
だが、結果的に彼は彼女の首を斬り裂くことはしなかった。小屋の中に、小さな訪問客が乱入してきたからだ。それは図体の割に騒がしく翼の音を立て、その存在を三人に知らしめた。
「緑碧鳥……」
彼にはルルという立派な名前があるのだ、イーサン。ルルは泣き出しそうな顔で固まっているエセルの腕に止まった。エセルはしばし呆然とその美しい色をした鳥を眺めたが、他の二人からの目線に気付き、まごつきながらルルの足に括りつけられた手紙を開いた。彼は二度その文面を読み直し、二人の様子を窺い、もう一度紙に目線を落とした。
「……消えた主人が見つかるかもしれない」
「何?」
「ロイドさんが、あなたにそう伝えろと」
エセルは押し付けるように手紙をイーサンに見せた。それは確かにエセル宛で、その特徴的な筆跡もロイドのものに違いなかった。途端にイーサンから力が抜ける。彼は素早く立ち上がると、すっかり態度を改めてセレスティアを助け起こした。
「……疑ってすまなかった。無礼を詫びよう」
「すぐに何でも信じるよりはましだわ」
彼女は綽々として言い、伸びをしながら立ち上がった。
「さあ、帰りましょう」
「え……」
エセルは横を通り過ぎたセレスティアを振り返って消え入りそうな声を出した。彼女が怪訝そうに立ち止まる。
「まだ何かあった?」
「いや……何ともないのか?」
「気分なら良くなったわ」
「そういうことじゃなくてさ」
彼はどことなく恨みがましい目をイーサンに向けた。イーサンは真っ向からその目線を受け止める。
「気が済むなら打てばいい」
イーサンは平然と言い、エセルを困惑させた。セレスティアは口を挟まず、小さく肩をすくめる。
「それは……」
「やり返しはしない」
エセルは相手の真顔を見つめ、身じろぎしながら考えた。わざわざ悩むということは、相当鬱憤が溜まっていたのだろう。その半分はテオのせいに違いないが。青年はやがて腹を決め、それでも躊躇いがちに作った拳で、イーサンの肩を殴った。エセルが意外に思ったことに、イーサンは肩透かしをせずにその一撃を受け止めた。
「満足か?」
「もういいです」
どうせならもっと振りかぶれば良かった。そう顔には書いてあるが、エセルは大人しくセレスティアに続いて小屋を出た。と、そこで背後から強かに頭を叩かれる。青年はきっとして振り返った。
「いって……やり返さないって言ったくせに!」
「よく鵜呑みにできるな」
イーサンは馬鹿にするでもなく呟き、立ち尽くす青年を追い越して歩き出した。微かにセレスティアの笑い声が聞こえる。エセルはむしゃくしゃと打たれた箇所を擦るしかなかった。




