嘘つきを教えて
おはよう!!!!!!!
ぽまえだよ嘘つきはよ
一晩の冒険――もっとも、それはほんの数十分の出来事に彼には感じられたのだが――を経験しても、エセルは少しも疲れを覚えてなどいなかった。寝台の上で考えること一時間、何の成果もないままに、彼は睡眠を取ることを諦めて階下に戻った。ジリアンが朝食を用意する音がかすかに聞こえた。一家は早起きだった。
食事室を覗くと、メリッサがせっせと皿を並べているところであった。彼女はすぐに兄の影に気付き、からかいと安堵の入り混じった曖昧な微笑みを浮かべた。
「一晩で帰ってくるなんて、意気地なしね!」
「嬉しいくせに」
「ええ、そうね。でもね、私、あなたが戻るって知ってたのよ。お母さんの予知、こっそり盗み聞きしてたんだもの。気になるのは、あなたが何を持ち帰ってきたかだけど」
メリッサは楽しげに囁き、可愛らしくエセルを見上げた。ジリアンはセレスティアのことを話さなかったと見える。エセルは肩をすくめた。
「何、というか……女の人だよ」
「何ですって?」
「いや、それが普通じゃなくてさ――」
彼が弁明しようとしたとき、ジリアンが鋭く娘の名を呼んだ。メリッサは台所に飛んで戻り、支度を再開した。エセルは彼女に手を貸そうとしたが、それはやんわりと断られた。
「……だからお皿が一人分多いのね。てっきり、お父さんが出かけたのが勘違いだったのかと」
「あいつはこんな時間に飯なんか食わないさ」
メリッサは答えず、任務を完遂して、自身の定位置の座席に腰を下ろした。エセルはその隣に座り、夜のうちに見聞きしたことを妹に聞かせてやろうという気になった。彼は弟妹の前ではよく喋る青年なのだ。
「意気地なしだって言うけどな、お前だって俺と同じことを経験したら、飛んで帰ってくるはずだよ」
「大間違いよ、エセル。まず私は家を飛び出したりしないわ」
「捻くれ者。まあ、聞いてくれよ。俺が町を出たときなんだけど――」
そのとき、ジリアンが戸口に姿を現した。急いでやってきたと見える。
「よしなさい、エセル」
彼女は何か不健全な話を立ち聞きしたかのように言った。エセルは眉をひそめる。
「何だよ、別にいいだろ」
「エセルレッド」
ジリアンは生真面目に言い、じっと彼を見据えた。彼はそれ以上抵抗するのは諦め、メリッサに向かって肩をすくめた。メリッサは何も言わなかったが、唇の端を噛む癖を見れば、不満があるのは明らかだった。そこへ、扉が勢いよく開け放たれ、幼い弟妹たちがわらわらと部屋に入ってくる。話は流れ、食事が始まろうとした。だが、セレスティアの姿はなかった。
「あの人、まだ起きてこないんじゃないか」
エセルはジリアンに囁きかけた。
「そうかもしれませんね」
彼女はまるで興味がないかのように答えると、静かに手を合わせた。すると、子どもたちは揃って同じ仕草をした。習慣に従わなければ、母親の厳しい罰が待っているからだ。品性の欠片もない男の悪徳から子どもたちを守る、ジリアンなりの抵抗なのだろう。儀式が済み、いざ彼らが匙を手に取ったとき、示し合わせたかのようにセレスティアが姿を現した。最早襤褸切れのような服は着ていない彼女は、何となく屋敷に釣り合って見えた。彼女は子どもたちのきょとんとした眼差しに出迎えられたが、無表情を貫き、空いている席に腰掛けた。
「素敵ね」
彼女は皿を見下ろして呟き、だがどこか気乗りしない様子で匙を取った。ふと彼女が目線を上げると、不躾とも言っていいだろう、特に幼い弟妹であるルイスとライザはいまだに彼女を見つめていた。見かねたジリアンが食事の手を止めて言う。
「お客様をじろじろと見るのはやめなさい」
兄弟一番の臆病者のルイスは鞭で打たれたかのように目を逸らしたが、現時点で一番幼いライザはそうではなかった。少女は寝ぼけているかのようにセレスティアを眺め、その様子はあるいは恍惚としているようでもあった。
「おーい、ライザ」
ジリアンの不機嫌を悟り、エセルは代わりに素早く言った。ライザははっとして兄にはにかむと、ようやく皿に向き直った。そうして、しばらくは静かに食事が進んだ。だが、メリッサには落ち着きがなく、エセルはエセルで気が気ではなかった。おそらく、前者はライザが注意された手前、客人を観察したくてもできないのだろうし、後者は客人に何某かの責任を負っていると強迫的に考えているのだろう。静寂を破ったのは、私が紹介していない最後の兄弟である、うんざりするほど腕白なアダムだった。彼はあっという間に皿を空にしていた。
「それで、あんた誰なの?」
あんたというのはもちろんセレスティアのことだった。ジリアンが鋭い視線と共に叱責の言葉を投げかけようとしたとき、セレスティアは平然として答えた。
「セレスティアよ。他に答えることはないのだけれど」
「何で?」
「何も覚えていないの。悪いわね」
「何で覚えてないの?」
「やめなさい、アダム」
隙を見てジリアンが口を挟むと、アダムはふざけて舌を出し、質問に答えろと言わんばかりに客人に目線を戻した。だが、彼女はまだ半分にもなっていない料理を反復的な動作で減らそうと努めているところだった。彼女が会話に戻る気がないとわかると、アダムは追加で質問を投げかけようとした。だが、ジリアンは彼が口を開く前に名前を改めて呼び、その企みを阻んだ。気まずい沈黙が流れ、アダムは不平にわざとらしく音を立てながら食事室を後にした。皿を片付けないのはご法度なのだが、それを気にする子どもでもない。
そのうち、他の面々も各々食事を終え、律儀に片付けを済ませて出ていった。残ったのはエセルとメリッサ、そしてセレスティアだったが、最後の一人以外は皿を空にしていた。ジリアンが早くも皿洗いを始めている音だけが響いている。セレスティアに他の二人を気にする様子はない。しかし、メリッサが部屋を出ないのは、この闖入者に良かれ悪しかれ関心があるからだろうと思われた。
「あの、セレスティアさん?」
彼女はようやく言ったが、その声は妙に引きつっていた。名を呼ばれたほうは黙って鈍く視線を上げた。
「えっと……私、メリッサです。エセルの妹の……妹と言っても、血は繋がっていないんですけど」
「そうみたいね」
セレスティアの答えはどこか冷ややかだった。いや、エセルと出会ってからというもの、その調子が温かかったことなど一度もないのだが、それはどこか侮蔑的な響きを持っていた。彼女はメリッサをよく観察しているようだった。相手が居心地悪くなるほどまでに。
「その……何か困ったことがあったら、きっと教えてください。そう言いたかっただけです」
メリッサは青くなりながら立ち上がり、足早に部屋を出ていった。彼女が皿を置いていったのは、ともすると初めてのことかもしれない。何にせよ、エセルは肩の力を抜いた。メリッサがまったく馬鹿をやる性格ではないとはいえ、その落ち着きのなさは警戒に値した。しかし、セレスティアの態度はどうしたことだろう?私が訝ったとしても、エセルは気に留めていないようだが。
セレスティアは結局食事を食べきることはなく、渋々と匙を置いた。エセルが疲れているかと尋ねると、彼女は静かに首を振った。エセルは食卓に残っていた全員分の皿をジリアンの元に運んだ。滅多にしないことだった。彼が戻ってきたとき、セレスティアがふと呟く。
「彼女を見ると、胃が引きつるの」
「誰?」
「……いいわ、何でもない」
思い直したように言って、彼女は席を立った。エセルは彼女について部屋を出ることにした。彼らは居間に辿り着いた。セレスティアは慣れ親しんだものであるかのように長椅子に腰を下ろした。
「……それで、何か用?」
彼女はまともにエセルを見つめて尋ねる。
「そういうわけじゃない」
「それなら、どうしてついてくるのかしら」
「困ってるかなって」
「そうでもないわ」
彼女は不機嫌にも聞こえる調子で言いきったが、目は逸らさなかった。エセルはその凝視に耐え兼ねて目線を落とした。今すぐにでも部屋を逃げ出したいように見えるが、そうしないところを見るに、天の焔に一方的に与えられた使命がそれを許してくれないとでも思っているのだろうか?可哀想に、彼らの相性は最悪だった――自分では自立していると思っているくせして、優柔不断と経験不足で何もできない青年と、意志と自我が強いくせして記憶喪失で何もできない少女とは!何も手につかないという共通点も意味をなさず、噛み合わないどころではないではないか。互いが相手に辟易するのも時間の問題だろう。
そこへ、天使もかくやと思われる笑顔を携えたライザが部屋に飛び込んできた。彼女は落書きのされた紙きれを持っていた。
「やっぱり、お姉さんだったの!」
そう言って、幼い少女は押し付けるようにしてセレスティアに落書きを手渡した。そこには、子どもらしい癖はあるが、かなり上手いこと特徴が捉えられた彼女と見知らぬ男の似顔絵が描かれていた。それを受け取ったほうは戸惑ったようにライザと落書きを交互に見た。
「今描いてきたの?」
その声の柔らかさに、エセルは思わず彼女の横顔に目をやった。残念ながら、顔つきは固いままだった。ライザはからかうように甲高い笑い声を上げる。
「違うよお、ずっと前にね、夢で見たの。お姉さんねえ、かっこいい男の人と一緒だったんだよ。誰だかわかんないけど。とっても幸せそうでね、それでね、あたしね、その夢のこと忘れられなくなっちゃったの!だからお顔を描いたんだ」
セレスティアは怪訝そうに片目を細めてから、困惑したようにエセルを見た。彼は肩をすくめる。
「君の過去かもな。それか、未来か……ライザのはよくわからないんだ、他の家族みたいに言ったことを的中させたこともないし」
「何の話?」
「えっと、ほら、俺とメリッサ以外は悪魔だから」
「……悪魔?」
セレスティアは間抜けのように鸚鵡返しをした。ライザが得意げな顔をして口を挟む。
「お姉さん、知らないの?悪魔っていうのはねえ、皆に嫌われてるんだよ。だからお外に出ちゃいけないの。なのに、この前はエイブラハムが……」
少女はそう言いかけて、途端に落胆して沈黙した。エセルは妹の頭を撫でながら、天の焔に言われたことを思い出してそのまま口にした。
「緋眼のことだよ」
「それは聞き覚えがある気がするわね」
セレスティアは合点がいかない様子で呟き、腹立たしげに首を振った。思うに、彼女はあれこれと行動を取らないと落ち着かない性質なのだろう。だのに、動くに動けずもどかしい。エセルがもう少し使える男だったら良かったものを。
「緋眼……悪魔は何故嫌われているの?」
「さあな。駄目なもんは駄目。気付かれた途端、奴らに連れていかれるんだ。舌の回らない子どもでもな」
「……酷いわね」
エセルは彼女を横目で観察した。目を伏せる彼女はありふれた絵画のように欠陥がなく、視線を奪う何かを秘めていた。彼が耳を赤くしてそっぽを向いたのは、彼女に見入っている自分に気付いたからに違いない。
そこへ、音もなくジリアンが現れる。彼女はライザが客人の隣に腰掛けようとしているのを見止めると、すぐに娘の名を呼び、有無を言わさず部屋から追い出してしまった。彼女は閉ざした扉の前に畏まって立った。
「あなたたちに行くべき場所があるとすれば、城でしょう」
そう唐突に切り出すジリアンを、エセルはぎょっとして、セレスティアは無表情に見つめた。話は促さずとも続く。
「あなたも知っているでしょう、エセル、ロイド卿のことは」
「知ってるも何も、うちの王様だろ」
我が国には王などいないよ、エセル。
「厳密には違いますが。とにかく、あなたたちの不可解な体験の鍵を握る人物は彼しかいません」
「何者なの?」
「長きにわたりこのルーセチカを導いてこられたお方です。その知恵は常人を遥かに上回っておられます。……少々、上回りすぎたのかもしれません」
ジリアンは意味深長に付け足さずにはいられなかったようだ。その気持ちはよくわかる。彼は私が見てきた中で最も賢い人間だったが、今では目も当てられないほど愚劣になり果てた。そこまで言っていけないなどということはないだろう。彼は悪魔だし、そのために城に軟禁されているのだ。気狂いになっても責められはしないとも。
「何だそれ?」
「この頃は、妙なことを口走るようになられたものですから」
「何だよ、個人的にあの人を知ってるのか?」
「厄介な縁がありまして」
その縁というのはきっと――いや、誰でもいいか。エセルは唖然として育ての母親を見つめた。ほとんど台所に閉じ籠っている彼女に知人がいるだけでも信じられないと言いたげである。
「この手紙を彼に渡してください。きっとあなた方に会ってくださいます」
そう言って、ジリアンは封をした手紙をエセルに差し出した。彼はそれを受け取り、意味もなく裏面を確かめる。セレスティアはというと、何か物思いに耽るように彼の手元を見つめていたが、つと立ち上がって歩き出した。
「行きましょう、エセル」
「え……もう?」
「来ないなら一人で行くわ」
「いや、行くよ、行くけど――ちょ、わかったから待ってくれ」
セレスティアはエセルの声など聞こえないかのように、足を止めることなく部屋を出た。薄くからかいの色を浮かべるジリアンに向かって口の端を思いきり下げてみせてから、エセルは彼女を追って廊下に出た。彼女の背中が確固とした様子で遠ざかっていく。
「おーい、城への行き方も知らないくせにどうする気だよ?」
彼が言うと、彼女は振り返って少し考えた。何だ、本当に道を知らないのか?
「盲点だったわね。案内して」
はにかみも悪びれもしないで言う彼女に、エセルは呆れて笑うことしかできなかった。
*
我らがルーセチカの都アーテルニアは豊かに栄えた美しい町で、悪魔以外の人間は何も不自由することなく暮らしている。しかし、奇妙なことに、町の中央にそびえ立つ塔だけはどこか禍々しい――その周囲には地割れらしい痕跡が残り、塔には誰にも拭えないような位置に多量の血痕がこびりついているのだ。割れた床石の隙間は親切だががさつな人間が埋めてくれていたが、どうしてもこの辺りの不穏さは消えなかった。だが、誰が気にしよう?私たちは十分に幸福なほうじゃないか。
エセルとセレスティアはちょうどその塔の辺りを歩いていた。そこから伸びる道をまっすぐに進めば、城に辿り着く。連れがせかせかと進むのに、エセルはそれとない抵抗を試みた。
「セレスティア、この辺で何があったか知ってる?」
「知らないわ。教えてくれるのかしら」
「残念だけど、俺も知らない。でも、記憶を失う前の君だったら、何か知ってるのかもしれないよな」
「そうね」
彼女は足を止めて塔を見上げた。血痕をぼんやりと眺め、悩ましげに眉根を寄せる。
「どうしてあんなところに血がついたのかしら。他のどこにもついていないのに」
「さあ……誰かを晒し首にでもしてたのかな。ほら、刃物の痕じゃないか、あれ?」
エセルは手庇を作りながら彼女の隣で血痕を眺めた。彼の言う通り、壁には何かの傷が残っていた。セレスティアは何だとも言えないため息を返した。
「この塔は何?」
「ずっと昔から建ってるみたいだけど。儀式に使われてたとか何とか」
「曖昧なことが多いのね」
「それがルーセチカの大人の教え方なんだ」
エセルは皮肉っぽく言った。セレスティアは特に答えず、血痕からさらに上に向かって首を動かした。塔にはいくつか小さな窓がついていて、彼女はそれに目を止めた。
「……誰かが使っているみたいね」
「何でそう思う?」
「影が見えたわ。……どうでもいいわね。そろそろ行きましょう」
彼女は突然観察に飽きて歩き出した。エセルはいよいよ彼女の調子に慣れてきたのか、黙って彼女に従った。いや、しかし、君と目が合うとは思わなかったよ、セレスティア。
さて、城に辿り着いた二人を待ち受けていたのは、固く閉ざされた城門と、その前に立つ二人の兵士だった。片方はやたら胸を張っているが、もう片方はこれ以上なくくたびれた顔をしている。見るからにやる気に満ち溢れたほうの男が二人を一瞥し、踵を返せと言いたげに顎をしゃくった。エセルは狼狽えてセレスティアの様子を窺ったが、彼女もまた彼を見つめていた。困っているというよりも、怪訝そうに。
「……早く渡したらどうかしら」
「え?」
「手紙よ」
彼女は斬りつけるように言うと、仏頂面の兵士に向き直る。
「私たち、ロイド卿という方に会いにきたのだけれど」
「面会はできない」
「謁見の間違いではないの?」
「悪魔に謁見する間抜けがいるか!」
兵士が急に怒声を上げたので、手紙を慌てて取り出していたエセルは半ば飛び上がった。セレスティアは微動だにせず、ただ首を傾げた。
「彼は指導者だと――」
「っと、もういいだろ、セレスティア。――あの、これをロイド卿に渡してもらえませんか。これでも駄目なら、俺たち帰りますから」
鬱陶しい兵士は様子のおかしな女との間に身体ごと割り込んできた青年に訝しげな目線を送った。エセルが手紙を押しつけるので、兵士はそれを汚れた雑巾であるかのように指先で摘まみ、送り主の名を確かめた。すると、疲れた顔をしたほうの兵士がふと口を開く。
「何だ、オーネットのご婦人じゃないか」
オーネットというのはジリアンの一家が名乗っている家名だった。彼女は確かにロイドの知り合いで、城の人間のうちでは周知の人物だというわけである。背筋を気にして腹が出ているのに気付いていないほうの兵士は渋い顔をしたが、とうとう民衆を追い返すという日々の楽しみを諦めた。
「構わん。通れ」
「ありがとうございます」
エセルは生真面目に頭を下げ、安堵してセレスティアの様子を窺った。彼女は特別に感慨を覚えることなどないのかもしれない。ともあれ、彼らは眠たげな兵士の案内の下、ロイドの囚われている玉座の間に向かった。
「お嬢ちゃん、この辺りの人じゃないのか?」
兵士は欠伸を隠そうともせず、不明瞭な声で尋ねた。
「そんなところよ」
「じゃ、知らなくても無理はないな。まあ、ロイド様が指導者ってのは合ってるよ。悪魔だけどな」
「その二つは両立できるものなのかしら」
「しちまってるのがおかしなところさな。それだけ、あの人は徳が高いってことだ」
兵士は大口を開けて笑った。きっとこの男は飲んだくれだろう。セレスティアは疑り深い顔でエセルに視線を投げたが、エセルは反射的に肩をすくめただけだった。
玉座の間の前にはさらに兵士が立っていて、オーネットからの使いだとわかると、あっさりと二人を通してくれた。今晩も酒を浴びるのであろう兵士は彼らに大きく手を振って去っていった。彼らはおかしな兵士がいたものだと思ったことだろうが、そんなことは口にしなかった。もうすでにロイドの前に引き立たせられていたからだ。そこは玉座の間とは名ばかりの空間で、空いた玉座の傍に、大きすぎる机と背もたれのない椅子が無造作に置かれていた。机の上は大量の紙で散らかっている。その椅子に腰掛け、ロイドは何かを熱心に書きつけているところだった。二人の背後で重い扉が閉まると、彼は首を回して面会客を眺めた。
「どちら様?約束はなかったはずだけど」
若葉のような緑の瞳が射貫くようにエセルを捉えた。童顔だが、不機嫌でこちらを気後れさせるような面持ちである。座っていてもわかるほどの低身長――立ってもセレスティアを見上げなくてはならないだろう。エセルは初めて邂逅する偉人に戸惑い、しばし言葉を失った。
「悪魔とは話さないつもりかな」
ロイドは嘲笑するように口の端を持ち上げると、直後、目を緋く輝かせた。彼は椅子から浮かび上がり、胡坐を掻いた姿勢でエセルの目の前まで飛んできた。エセルは思わず息を呑み、小さく後退った。
「ねえ、何の用か言ってみなよ」
そう囁かれ、エセルは何か答えようと口を開いた。だが、残念、上手く言葉が出てこない。私は青年のそういうところが好きではないのだが――まあいい。セレスティアが蛇と蛙の横で無表情に口を開く。
「あまり子どもをからかうものじゃないと思うわ」
「子どもって……」
エセルは不平を言おうとしたが、事の流れのせいで言葉が浮かばず、そのまま閉口した。ロイドは初めてもう一人の客に目を移し、値踏みするように彼女を眺めた。
「君も子どもに見えるけどなあ」
「あなたには敵わないわ」
その返事をロイドは気に入ったようだった。彼ははっきりと物を言う人間を好み、相手をからかう分だけ、からかわれることを楽しむ妙な男なのだ。セレスティアはエセルの手から封筒を抜き取った。
「これを。ジリアンという人からよ」
「ジリアンね……あ、待てよ。君、もしかしてエセルレッドじゃないか?」
「はい、まあ」
「彼女から話は聞いているよ。引っ込み思案だとは知らなかったけど。それで、君は?」
ロイドはセレスティアにそう尋ねながら、手早く手紙を読み始めていた。セレスティアが答えなかったのは、ジリアンが適切な説明を記していると考えたからだろう。実際、それは当たっていて、すぐに文面を読み終えたロイドはどこか興奮した目を彼女に向けた。
「まさかジリアンが僕を騙してからかうとは思えないけど、彼女の書いていることが本当だとも信じがたいな」
「本当だったらどうなのかしら」
「僕の仮説が現実味を帯びることになる。ちょっと来て」
ロイドは机のほうに文字通り飛んで戻り、急かすように二人に手招きをした。彼らは目も眩むような量の書付の前に並んで立った。
「何ですか、これ?」
エセルはロイドの様子を窺いながら言った。うきうきとしたロイドを恐れる必要は最早なかった。彼は数枚の書付を取り上げる。
「これはね、エセル、記録だよ。記録といっても、僕が想定して作り上げた仮のものだけど」
「つまり……?」
「僕は物覚えが良いんだけど、不思議なことに、ところどころ記憶が抜け落ちているようなんだ。何とか思い出そうとしても、どうにも上手くいかない。僕に限ってそれはおかしい。絶対にね」
エセルとセレスティアは呆れたように目を合わせたが、ロイドは至って真剣だった。私も一緒に肩をすくめたいものだが。
「それで、覚えていることを年代順に並べてみようと思い立ったというわけ。そうしたら、どうだ!一般には起きていないはずのこと、その片鱗が確かに僕の記憶に残っているんだよ」
「勘違いではないの?」
「僕が勘違い?あまりあり得るとは思えないね。とにかく、だ。僕が思い至ったのは、何か強大な力が働いて、人々の記憶を歪曲させたんじゃないかってことなんだよ。そしてこの仮説は、セレスティア、君が現れたことでほとんど確信に繋がった」
ロイドは嬉々と目を輝かせ、セレスティアに微笑みかけた。彼女は不審に思っても顔には出さず、考え込むように押し黙っていた。返事がないのも気に留めず、ロイドはさらに続ける。
「例えば、この町の中央にある地割れの痕は何なのか?僕が覚えているのは、十数年前にあれを見下ろしたときのことだけだ。割れた隙間に物を落としたら困る、僕は確かにそう思った。そして、血の匂いがした……血が流れるって予感だったのかもしれない。大勢が死んだ。誰も理由を考えようとしないけどね。ねえ、わかるかい?この国では何か戦いが起きたはずなんだ。僕の身体がそれを知っている。なのに記憶は何も語らない。誰か、何かが僕らの認識を変えてしまったんだ」
ロイドの手の中で紙が音を立てて丸められた。エセルは思いつめたような顔つきで足元を見つめていた。彼が思い出していたのは他でもなく天の焔のことだろう。彼女は言ったではないか、世界は一度創り直されたと。そのようなことがあったはずがないけれども。
「そんなこと……あり得たとして、どうやって?」
「わからないよ。だけど、おかしなことが多すぎる。緋い瞳を持つ者たちが悪魔だと恐れられるわけは?国王がいないはずこの国に玉座があるわけは?ずっと昔からこうだったはずがない……もしそうだったとしたら、世界はとっくに崩壊している。いや、ある意味、もう崩壊しているのかもね」
「私には、町は安定しているように見えたわ」
「それは彼らに自我がないからさ。彼らは何もせず、ただ生を享受している。疑問を抱くことができないから。奴は支配の手を確かに広げているはずなんだ……女神王エリシアは」
その名を聞いて、エセルは弾かれたように顔を上げた。誰も彼女の名を呼ぶことは許されていなかった。呼んだとしてどうなるわけでもないのだが、不思議なことに人々は――私を含め――彼女の名を極端に畏怖していた。
「ロイドさん!」
「禁句だって?気にするもんか。考えてもみなよ、エセル、悪魔を敵視しているのもエリシア、根城のコスタトだけでは飽き足らず、あらゆる地域に干渉を続けているのもエリシア。女神だと名乗るくらいだ、おかしな力で人々を支配していてもおかしくないさ」
言葉を失うエセルに呆れた視線を投げてから、ロイドは熱心にセレスティアに語りかける。
「セレスティア、もし君がジリアンの言う通り、使命と共に蘇った存在なのだとしたら、僕が埋めることのできない記録の狭間を復活させるのも君であるはずだ。この欠陥まみれの記憶を頼りにしてどれくらい役に立てるかはわからないけど、どうかな?世界を一緒に正さない?」
そう茶会に誘うような調子で言うことではないだろう。セレスティアは片目をわずかに細めて考え始める。どうか、この男を狂っていると一蹴してはくれないか?彼はあってはならないことを平然と述べているのだよ。そうは思ったものの、私はどういうわけか、彼女の返答を察していた。
「……いいわ。どうせそうしなければならないみたいだもの」
すると、エセルが突然彼女の腕を引いた。まるで、出かける母親を引き留めようとする子どものように。
「いや、待ってくれ、セレスティア。駄目だよ、そんなことするなんて馬鹿だ」
「どうして?そもそも、あなたが彼女に頼まれたことではなかったの?」
「そうだけど、こんな展開になると知ってたら……」
青年の顔色は蒼白だった。セレスティアもこれには気後れしたのか、自身の腕に置かれた彼の手に目をやった。まともなのはエセルだということをそれで思い出しただろうか?
「そのエリシアに逆らったらどうなるのかしら」
「それは……ほら……」
エセルは答えに詰まって口ごもった。すぐにセレスティアの表情が余裕を帯びる。
「前例がないなら恐れる必要はないわ」
その理屈はどうかと思うけれども、少なくともその微笑は頼もしかった。根拠などないのに、すべて任せてもいいと思えるような――あるいは、彼らが主張するように、あった根拠を私が忘れてしまっているだけなのか?いや、馬鹿馬鹿しい。
エセルは釈然としない様子だったが、今にも押し切られそうに見えた。彼はロイドに目をやった。童顔の偏屈男はこの何の変哲もない青年が関わろうが関わるまいがどうでもいいと言いたげに、自身の残した書付を整頓している。助けてくれそうもない。エセルはまた目線を落とした。彼が思い出しているのは、きっと天の焔のほとんど脅しに近い言葉だったことだろう。幼い弟に起きた悲劇を繰り返したくないならついてこい――彼に選択肢などあっただろうか?哀れなエセル!
しかし、何もかもが、まだ青い彼を説得するには十分すぎた。彼は思い出したように慌ててセレスティアから手を離すと、再びおずおずとロイドの顔色を窺った。意地悪なこの小男は気付いていないふりをしているに違いない。
「……俺もやります」
「そうか」
「足は引っ張りませんから」
「腕もね」
セレスティアが呟き、エセルはばつの悪い顔をしたが、おそらく彼女は冗談を言っているのだった。つかみどころのない女である。ロイドはくすくすと子どものように笑うと、エセルの肩を軽く叩いた。人嫌いの彼が青年をいともあっさりと受け入れた理由は察しがつく。彼がジリアンをこの上なく気に入っていて、その彼女がエセルをこの上なく気に入っている、それだけである。人の縁というものは、案外ややこしい理由を必要としないものらしい。
「さて!」
ロイドは場を取り仕切るように両手を打ち鳴らした。うきうきとした彼の頭の中では、すでにあらゆる計画が形を帯びているのだろう。
「反逆するときは、念入りに、大胆に、時に姑息に立ち回らないとね。というわけで、君たちに頼みがあるんだ……」




