燃ゆる
家を出たエセルは、ひたすらあてもなく足を進めた。このアーテルニアの町にいつまでもいるつもりではないようだった。馬もなく、また馬車を借りる金もないので、町の外が見えてきた頃には、日はすっかり沈んでいた。彼は躊躇うことなく外へと踏み出した。
あの雲の上に眠る月の光の何と美しいことか!彼の歩む道は星々に見守られていた。考えてみれば、彼はろくに町を出たことがなかった。未来への展望に対する興奮がわずかに彼の頬を赤く染めた――私が隣にいたら、現実はそう甘くないと教えてやっていたよ。
いずれにせよ、彼が望むようなしがらみのない日常が訪れるのはずっと先のことだと決まっていたのだった。このときすでに、非常なるものが彼の人生に纏わりついていたのだから。
見渡す限り人の姿はなく、自然の鳴らす音だけが響いている静謐な夜だった。もし誰かがやってくれば、目にするか耳にするかで確実に気付けるような。だが、その存在をエセルはまったく悟ることができなかった。彼がはっとしたときには、それは彼の真横にいたのだ――その牛は。
「な……」
エセルは飛び退くようにしてその白い牛を顧みた。その背には、小柄な女が座っていた。その透けるような彼女はいかにも異様だったが、その目は奇妙に情熱的な輝きを秘めていた。エセルは言葉を失って立ち尽くす。
「素晴らしい夜ではありませんか、エセルレッド?」
彼女は言った。風のひと吹きで掻き消えてしまいそうな声であった。
「何で俺の名前を?あんたは誰だ?」
「……皆、私を忘却しました。名乗ったとて、何も意味を成さないでしょう。ですが、必要なら、天の焔と名乗ることにします」
「そうかよ。じゃあ、俺に何の用なんだ?」
彼は胡散臭いものを見るように片目を細め、何の気なしに尋ねた。彼は頭のおかしな人間を相手しているつもりで、軽くあしらってやろうと思っていたに違いない。だが、天の焔とかいう女はまだ一人分空きがある牛の背中を撫で、さも何もかもが当然のことであるかのように言う。
「いらっしゃい。道中、話して差し上げましょう」
「悪いが、知らない人間と相乗りはしたくないんだ」
エセルは顔つきを強張らせつつ、断固として答える。女は無表情に彼をとっくりと眺めた。斬り裂くような眼差しである。
「そうですか……」
彼はそのあまりに陰鬱な声の響きに怖気づいたようだった。彼は焔の様子を窺って黙り込んだ。すると、彼女はついと彼から目を逸らし、牛に合図して道をのろのろと進み始めた。
「残念ですよ、エセルレッド。あなたの家族を救い出す機会を逃すとは」
そう聞いた途端、少年は顔色を変えた。彼は歩いても追いつけるような牛歩を猛然と追い抜き、その進路に割って入った。
「おい、どういう意味だ?俺たちの何を知ってる?」
「言ったでしょう、道中に話すと」
天の焔は再び牛の背中を示した。エセルは引きつった表情に無理やり皮肉っぽい色を浮かべた。
「意地が悪いって言われたことは?」
答えがなかったので、彼は諦めて牛の背中に乗った。少なくとも、乗り心地は悪くないらしい。牛は眠くなるほどゆっくりと歩みを進めた。
「エセルレッド、考えたことがありますか?何故、緋眼たちが悪魔と呼ばれているのか」
「緋眼?」
「彼らはかつて崇拝の対象でした。その瞠目すべき能力のために。ですが、すべては覆されてしまった……十七年前に」
「十七年前って――」
「ええ、あなたが産声を上げた年です」
「だから、俺の家族が関係するのか?」
「そうだとも言えますし、そうでないとも言えます。ですが、それは別の問題です。――十七年前、世界は一度打ち壊され、創り直されました。ある人物が使命を成し遂げることに失敗したからです。彼女はすべての崩壊を嘆き、自身を斬り刻みながら深い谷に身を投じました。その谷には今でも彼女の魂が居着いていて、あの日の絶望を繰り返し味わっているのです」
そこで、女は口を閉ざした。エセルは返答に困り、沈黙していた。牛が大地を力強く踏みしめる音だけが重々しく辺りに響く。私に言わせれば、女の話はいかにも作り話のように聞こえた。そんなことがあったはずがないではないか?創り変えられた世界を人々が平然と迎え入れるものか!私だって十七年以上生きている身だ。世界がこうではなかったなどというのは、ごく稀にいる異常者の妄言に過ぎない。そうではなくてはならないのだ。
「そんな話、聞いたことがない」
「無理もありません。誰も知らないのですから。より正確に言うなら、これは誰もが忘れてしまったことなのです。悪は私たちを忘却の彼方に追いやり、すべてを隠蔽しようとしています。今この瞬間も」
天の焔はまともにエセルの目を捉え、はっきりと言葉を繋ぐ。
「いいですか、エセルレッド。あなたは彼女に手を貸さなければなりません。彼女と共にあれば、自ずと真相は明らかになる。世界の歪みをあなたの手で正してください」
「……でも、何で俺?」
「それが天の定めた運命だと言えましょう。彼女の不始末は二度と繰り返されてはならないのです」
そう言いきると、焔は首を回して前方を見据えた。エセルには何もかもが腑に落ちなかった。彼は自身の手を眺めてみたり、頬をつねってみたりしたが、現実の出来事だと確かめることにしかならなかったようだ。おかしいのは彼ではなくて、この謎めいた女なのだろう。彼はこっそりと手を伸ばし、彼女に触れてみようとした。しかし、ちょうどそのとき、牛が歩みを止めた。天の焔が大地に降り立ったので、エセルもそうした。
「ここは?」
「コスタトの国境近くです。彼女が眠る谷がこの先にあります」
「待てよ、コスタトだって?あの牛の速度じゃ、着くまで何日もかかるはずじゃないのか?」
「それは問題ではありません。いらっしゃい」
女は戸惑うエセルを他所に先に進んだ。彼は従うしかなかった。すぐに、彼らの前方に深い谷が姿を現した。いつの間に、月は雲の後ろに身を潜め、辺りは虚ろな静寂と暗黒に包まれていた。谷底で風が唸る。エセルは思わず身震いした――その風の音が、さも亡霊の悲痛な慨嘆であるかのように聞こえたのだ。
「聞きなさい、憎悪と悲嘆に枯れた彼女の声を。感じなさい、すべてを失い、ただ自らの命だけが残ってしまった彼女の痛みを。見なさい、使命を果たすことができなかった彼女の末路を……あなたは彼女を救わなければならない。彼女を通して、世界を正さなければならない」
エセルは考え込んだ。彼は間違いなく何も理解していなかったし、特別な存在であると自負しているわけでもなかった。しかし、どういうわけか、彼は自身が置かれた状況を受け入れつつあった。いやはや、まさかジリアンも、彼女の教えがこんなところで役に立つとは思っていなかっただろう。
「まあ……それが運命だって言うなら、やるよ。どうせ、今避けても仕方ないんだろ」
「ええ、その通りです。これこそ彼女の失敗が導いた、あなたの運命……」
焔の調子には色がなく、そこには失望さえ感じられなかった。彼女が何者だと思うかと尋ねられたら、責務だろうと私は答えよう。もし彼女が主張するように、本当にその名前が意味を持たないのだとしたら、彼女は生きとし生ける以上に責務なのである。問題は何に対しての責務かということであって、他のことはまったく関係ない。だから、温度と感触のない存在であることができる。エセルはそうではないけれども。
「その人がここに行き着いたのも、運命だったんだ。責めるのも酷だと思うね」
「……どうでしょうね。何にせよ、時間が惜しいです。今ここに、彼女を蘇らせましょう」
天の焔は両手を前方に掲げた。その瞳が緋く滾る。すると、どこからか炎が燃え上がり、夜闇を埋め尽くした。言葉を尽くすのも馬鹿馬鹿しくなるほどに、それは美しかった。
「此岸と彼岸を撚り合わせ、今こそ忘れがたき霊魂、還り来たらしむるべし導を示さん。すべては、純潔の炎の意のままに」
そして、炎は踊り出した。谷を覆い尽くし、底から湧き上がり、死者を慰めるように風を凪いでいく。エセルは呼吸することすら忘れ、ただその光景に見入った。目の前で起きていることは人の力をはるかに凌駕していた。だが、これを見る私たちにはわかるのだ、すべては現実なのだと。
ものの数秒のうちに、炎は少しずつ小さくなり、やがて闇にその席を返した。だが、彼らの目の前には、星のように輝く何かが浮かんでいた。それはゆっくりと彼らのほうへ移動してくると、突然眩い光を放った。エセルは思わず目を腕で覆った。再び闇が訪れて、彼が腕を下ろしたとき、そこには別の女の姿があった。歳は彼と変わらないほどだろうか。亜麻色の髪は胸まで伸び、白い装束は傷だらけで、ほとんどが黒く変色した血で染まっていた。彼女が目を開けると、そこにはエセルと同じ紫の瞳があった。
「何……?」
彼女は掠れた声で呟き、目の前の二人を唖然として見つめた。天の焔は安心したように小さく息をつく。
「おかえりなさい。自分が何者か、覚えていますか?」
「……いいえ。あなたたちは誰?」
「あなたにはなすべきことがある。彼と共に行きなさい。あなたたちが道を誤らなければ、自ずと記憶は戻ります」
相手の質問に答えることなく言いきると、天の焔は素早く踵を返した。エセルは慌てて彼女を追いかけた。
「待ってくれよ、あんた!何も説明しない気か?俺はこれからどうしたらいい?」
言いながら、彼は焔の腕を掴もうとしたが、できなかった。まるでそこに誰もいないかのように、彼の手は空を掠めただけだった。少なくとも、人間ではないというわけだ。天の焔は何も読み取ることのできないような面持ちで振り返った。
「話すべきことは話しました。あとはあなたが自ら知る必要があります。私はこれ以上介入できません」
「彼女の名前もわからないんだぞ」
エセルは頭を傾けて、今しがた目覚めたばかりの女を示した。天の焔は指先を口元に添えて暫し考える。
「……それくらいなら構わないでしょう。彼女の名はセレスティアです。ですが、エセルレッド、忘れてはなりません。彼女は忘却された存在です。彼女の痕跡を探しなさい。時間は刻一刻と過ぎています」
焔は言葉の途中で歩き出していた。エセルは振り返り、セレスティアをじっと見つめた。彼女はに彼に目線を返すと、おもむろに彼に歩み寄った。その顔つきは、どこか怒っているように見えた。エセルは助けを求めて振り返ったが、天の焔は足を止めることなく先に進んでいた。セレスティアが近くに立ったのを感じ、彼は視線を戻した。
「その……ああ、えっと、俺はエセルレッド。エセルでいい」
「わかったわ」
彼女は淡白に答えた。エセルは困り果てた挙句、天の焔の背中を追って早足に歩き出した。何をそうたじろぐ必要があるのだろう?私には、セレスティアがその人智を越えた女よりもずっと話が通じそうに見えるが。それはさておき、焔は彼が追いつく前に振り返り、怪訝そうに首を傾げた。
「まだ何かあるのですか」
「あるさ。こんなところにまで連れてきて、ほっぽって帰るつもりか?」
「送り届けてほしいのなら、そうして差し上げましょう」
天の焔はため息交じりに答えた。うるさい青年から早く解放されたいのかもしれない。彼女は無造作に手を振った。すると、瞬きを終えた頃には、エセルはセレスティアと共にアーテルニアの町の入り口に立っていた。見回しても天の焔の姿はなかった。が、反響するように、彼女の独り言が彼には聞こえた。
「さあ、行きましょうか、アストル」
白牛の鳴く声は次第に遠のいていき、やがて辺りは静まり返った。夜明けは近く、人の気配が町にうごめき始めた。
*
気詰まりする空気を感じながらも、エセルはセレスティアを伴って屋敷への道を進んだ。世間知らずの彼だから、他に行く当てがなかった。このときには、彼もジリアンの予言――とんでもないものを持ち帰る、だったか――が何を意味するのか、理解していたことだろう。だが、彼がむしろ知りたいのは、この旧世界の住人を今後どう扱うべきかということだった。名前だけわかって何になるというのか?
「それで、セレスティア……」
人けのない通りを歩きながら、エセルは歯に何か挟まっているかのようにぎこちなく口を開いた。
「何かしら」
「死んでた自覚はあるのか?」
「死んでいた?……駄目ね、よく覚えていないの」
「そうか」
彼の声には落胆が滲んでいた。右も左もわからないのはセレスティアのほうだろうに、頼りにできるのが彼だけでは心許ないに違いない。だが、彼女はむしろ何も問題ないかのような落ち着きようであり、どこか大胆ささえある足取りで彼の隣を歩いていた。
「……けれど、この場所は何だか馴染み深いわね」
「へえ?君が死んでから十七年経ったって聞いたんだけど、ここはその頃から変わってないのかもな」
「あなたはそのときこの町に住んでいなかったの?」
「住むも何も、ちょうど生まれたくらいだったからな」
エセルは冗談めかして笑ってみせたが、セレスティアからは深刻そうな眼差しが返ってきた。常にこういう顔をしているつもりか?彼女は笑うことを知っているのだろうか?
「……若いのね」
「君も同じくらいに見えるんだけど」
「そうなのかしら」
彼女は小首を傾げ、彼から目を逸らした。エセルは何か付け加えようとしたのを結局やめて、同じように前方に目をやった。遠くに屋敷が姿を見せていた。
「ああ、あれが俺の家だよ。俺のっていうか、居候みたいなもんだけど」
彼は取り繕うように言ったが、返事はため息のような、そう、という一言だけだった。彼の言うことに興味がないというよりも、上の空といった様子である。エセルはやはり話しかけるのを諦めて、それから家に辿り着くまでは無言を貫いた。案外不器用な青年だ。
二人が屋敷に到着したとき、玄関にはジリアンが立っていた。彼女が彼らを待っていたのは明らかだった。彼女は従者か何かかのように恭しく、エセルが近づいてくるまで動かなかった。
「ただいま、ジリアン」
「おかえりなさい。早かったですね」
「うん……」
エセルは多少気恥ずかしさを覚えたようである。突然家を出た割に、行く当てがなく帰ってきてしまったのだから当然だ。ジリアンはさして彼を気に留めず、彼の背後に立つセレスティアに目を向けた。彼女の何がどう「とんでもない」のか見定めようとするように。
「そちらの方は?」
「話すと長くなるんだけど」
「セレスティアよ。残念だけれど、他のことはよく覚えていないの」
彼女はきっぱりと答えた。とても記憶のない人間の態度とは思えない。個人的には好ましいが、しかし彼女は見た目の若さよりはるかに大人びているようだ。世界を救う使命があったと言われても、何分不思議ではないのかもしれない。とはいえ、天の焔の語ったことを鵜呑みにする筋合いはないのだが。
「どこで彼女に出会ったのですか?」
ジリアンはエセルに尋ねたが、その目線はひたすらセレスティアに注がれていた。彼女に釘付けになるのも頷ける――彼女は実に器量が良かった。どこにでもいる麗人では決してない。だが、どこかで見たような顔立ちである。
「後で話す。とりあえず、入ってもいいかな」
「もちろんです」
ジリアンは扉を開けて二人を先に通した。エセルはセレスティアに前を譲ると、彼女が聞いていないであろう隙を見て、母親の耳に囁いた。
「テオの奴は?」
「カルツァに出かけました。何故です?」
「会わせたくなくて。何となくだけど」
彼はセレスティアをちらりと見やりながら言った。彼女は物珍しいものでも観察するかのように内装を眺めている。ジリアンはエセルの意図を正確に汲み取ったようにため息をついた。
「……そうですね」
彼女は謎多き客人の元に行くと、部屋を用意すると断って、階上に向かった。エセルは変に口を開いて気まずい思いをすることに懲りて、セレスティアから距離を取って黙っていた。すると、彼女のほうが言う。
「今の女性は?」
「ジリアンか?俺の母親みたいなもんかな。良い人だよ」
「そう……」
エセルは追加の質問が来ることを期待したが、会話はそこで途切れた。彼はいたたまれなくなったのか、ふらふらと歩き出して近くの部屋を覗いた。この屋敷ではどこかの部屋に誰か一人はいるのが常だったが、早朝だったこともあり、そこには誰の姿もなかった。彼は仕方なく廊下を戻った。ふと顔を上げると、例によって真剣な面持ちのセレスティアと目が合った。何か考え込んでいるようだ。
「誰かに似ているわ」
ようやく彼女は言った。エセルは当惑してはにかむ。
「俺が?それって俺の両親だったりしないかな」
「会ってみないとわからないわ。その人たちはどこにいるのかしら」
「さあな。俺だって会ったことないから」
セレスティアはたじろいで言葉を失った。何かが彼女を強く打ったようだった。彼女自身でさえわからない何かが。
「……悪いことを聞いてしまったわね」
「いいんだ。気にしたことない。それに、言ったろ、母親代わりならいるって」
「そうね」
ちょうど、その母親代わりの女が戻ってきて、部屋の支度が整ったことを告げた。やけに仕事が早いことだ。セレスティアがひとまず部屋に引き取ると、エセルは台所に向かうジリアンの後を追った。彼女も彼がそうすると踏んでいたし、むしろ望んでいたようだった。
「俺がおかしくなったんじゃなくて、本当に馬鹿みたいな話なんだけど」
彼はそう切り出した。
「セレスティアは蘇ったんだ」
ジリアンはその言葉に相槌を打ったが、まるで信じていないのは火を見るよりも明らかだった。彼女は燐寸を擦り、鍋を温め始めた。
「信じてないな」
「否定はできませんね。どうぞ、話を続けてください。真偽はあとで判断しますから」
「本当なんだって……」
エセルは町を出たところから始め、天の焔に出会ったことや、彼女から聞かされたこと、白牛のアストルのことまでをも子細まで説明した。彼がひと息ついて口を閉ざすと、ジリアンは話の間続けていた作業を中断して彼に向き直った。
「あの方は誰からも忘れられた存在だと言いましたね」
「あの人自身でさえ忘れてるくらいにな」
「……もしあなたの話を信じる余地があるとすれば」
ジリアンは呟くように言ったが、続けるのを躊躇って閉口した。彼女が目線を逸らして作業に戻ろうとするので、エセルは素早く回り込んで包丁を取り上げた。彼は自身の背後の台にそれを置き、目で相手に訴えかける。ジリアンも何か言いたげな顔をしたが、この勝負には後出しでは勝てなかった。
「……あの方に見覚えがあるような気がしてならないためでしょうね」
「じゃあ、十七年前に会った可能性がある?」
「ええ、可能性は。ですが、どうにも信じがたくて」
「まあな」
「それでも、あの方と目が合ったときに感じた……戦慄でしょうか。あれは偽物ではなかったと確信を持って言えます。やはり、私はあなたが連れ帰った彼女を恐れることになったようですね」
ジリアンは自嘲して微笑を浮かべた。エセルは彼女に包丁を返してやり、戸口へと歩いていった。一人で考えたかったのだろう、本能で真実だと信じていても、理性がそうではないと告げてくるものについて。彼が部屋を出ていく直前、ジリアンはふと振り返った。
「それから、天の焔と言いましたか。彼女は私の元にもやってきたのかもしれません」
「え?いつ?」
「つい先ほど。妙な夢を見たのです。誰か、女性の声がして、あなたの子どもが帰ってくると囁いてくるものでした。それがどうにもただの夢だとは思えず、あの子かもしれないと外に出て……」
「それで、俺が帰ってきたってわけか」
ジリアンは諾った。エセルは彼女の期待があえなく潰されたことを察し、顔を引きつらせた。しかし、彼女をよく知る私にはわかるのだが、これは彼女が懐疑的な目を向けるのをやめたことを意味するに他ならず、嫌味やそれに連なる冷やかしでは決してないのであった。母性的に微笑みなどしないけれども、目の前で橋を落とすこともしないのが、愛情深きこの女だというわけだ。私はそれをよく知っている。
「少し眠ってはどうですか?疲れたでしょう」
彼女は作業に戻りながら言った。エセルは大人しく自室に引き上げたが、寝台に登っても、とても眠れる気はしなかった。




