悪魔のいる家
おはようございます!!!!自我!!!
物が語られるとき、そこには必ず嘘が混ざる。故意であっても、そうでなくても、そして、語られる物が純正の真実であったとしても。だから、今ここにいる私は嘘つきである。諸君には困ったことではないだろうか?しかし、諸君、どうしてもそうなるのだ。実際、世の中に蔓延る言説は嘘ばかりだよ。そのために、今もまた、若者が苦悶を味わおうとしているところではないか。
*
彼の名はエセルレッドというのだが、家族もとい彼の同居人が揃ってエセルと呼ぶので、彼自身もそう名乗ることが多い。だから、私もそう呼ぼうと思う。彼に直接会ったことはないけれども。
彼が暮らす家には悪魔が住んでいる。彼にとっての悪魔は一人でも、世間から見ればそれは大勢である。だが、何も問題はなかった。人々は緋の瞳をした人間を忌み嫌うけれども、その瞳さえ隠してしまえば、悪魔だと気付くことなどありえないのだ。そう、だから、最善策は家の中で慎ましく暮らすことなのである。特に、分別のない子どもにとっては。
その日、エセルは週末の買い物に出た。彼の瞳の色は珍しい紫だったのだが、少なくとも緋ではないから、外出は大抵彼の仕事だった。一家が大家族であるために、一週間の買い物を一日で済ませるのはかなりの重労働になるのだが、まあ、彼は横着屋だった。慣れれば大したことはないらしい。
しかし、彼がこの運命の日に目にした光景は、決して見慣れたものではなかった。人々が大勢行き交う通りで彼は見たのだ、一番下の弟の姿を――より正確には、その緋く閃く瞳を。背筋が凍る感覚を覚え、エセルは買い物袋を放って駆け出した。小さな弟のエイブラハムは、大好きな兄の姿を見止めて微笑んだ。
「兄ちゃん!あのねえ、そろそろ来るってわかってたんだよ、僕、夢に見たもの」
あと数歩だった。だが、エイブラハムのしたり顔は、誰かの背中に遮られて見えなくなった。その存在にいち早く気付いた民衆が、押し寄せる波のようにあどけない悪魔を取り囲んでいた。エセルは何とか彼らの間を掻き分けて弟の元に行こうとしたが、無駄だった。群衆に弾かれた彼は、泣き叫び始めた弟の声を無力に聞いた。もう手遅れだと彼は理解した。
何故我々は悪魔と罵られるのだろうか。人よりも特別な力を持って生まれる悪魔――むしろ、ただの民衆の上にふんぞり返っていても良さそうなものだが。しかし、人々の口に語られるもの、緋の瞳をした人間は駆逐すべき悪魔だという言説が、我々を虐げるよう彼らを駆り立てるのだ。理由はないに等しかった。
さて、エセルはどうしたのかと言えば、とうに現場から逃げ出して、すぐ傍の路地裏に身を潜めていた。彼が薄情なのではない。これもまた分別なのである。悪魔の味方をすればただでは済まないし、何であれ繋がりを見出されて、根城を知られるわけにもいかないのだ。無関係であることを装い、新しい日々へと逃げ込む他ない。少なくとも、彼はそう教わった。他のやり方を知らないと言っても良かろう。だから、彼は喧騒が鎮まるのを、ひたすら耳を塞いで待ち続けた。固く閉ざされた瞼には涙が滲み、それは斜陽を受けて煌めいていた。
彼がようやく世界から自身を遮断することをやめたとき、通りはとっくに落ち着いていて、辺りには何事もなかったかのように穏やかな雑踏が響いていた。ただの恐ろしい妄想に過ぎなかったのではないかと期待したのか、彼は弾かれたように立ち上がって通りに飛び出した。が、ささやかな血の跡を目撃しただけだった。罪悪感に血の気が引く。まだ弟が生きているであろうことが唯一の救いだった。
エセルはふらふらと帰途についた。買ったもののほとんどは放り出してしまったから、またすぐに買い物に出かけることになるだろう。だが、ああ、いつまでこのような生活が続くのか?今日と同じことがまた起こらないとどうして言えよう?彼には、もっと自由に遊び歩くことができた幼少期が恋しいに違いなかった。彼の家で、家族と呼ばれるものが形成される前、彼の育ての母の愛情――温かくはなかったけれども――が彼一人だけに注がれていたあの頃!
彼自身が聞かされなかった理由のために、彼は本当の両親が何者であるのかを知らなかった。義理の母親となったジリアンという女は、銀髪のどこか中性的な顔立ちをした生真面目な人間で、エセルに対しては他人行儀であれ親切に振舞っていた。エセルは彼女を息子の立場から慕っていたが、母と呼ぶことを許されたことはなかった。だが、彼は彼女に不満を覚えたことはなかった。この日までは。
不機嫌に開閉された玄関の扉の音を聞きつけて、弟妹の何人かがエセルの元に駆け寄ってきた。彼は気力の足りない様子で彼らに挨拶を済ませる。エイブラハムの一つ上のライザが不思議そうに首を傾げた。
「それしか買わなかったの?」
エセルは左手で握りしめた袋に目をやった。袋の口が手汗でふやけている。彼はそれを無言でライザに渡し、台所へと歩いていった。弟妹はそれぞれ元いた場所に散っていった。
台所はジリアンの住処のようなもので、幼い頃、エセルは彼女が本当にそこで寝起きしていると考えていたものだった。彼女は今日も例に漏れずそこにいて、何やら熱心に料理の仕込みをしていた。エセルが入っていくと、ジリアンは手を止めて振り返った。
「頼んでいたものは……やはり買ってきていないようですね」
「何でエイブラハムを見ておかなかったんだ?」
エセルは彼女の言葉を無視して尋ねた。彼女は眉をひそめて暫し考えてから、合点がいったようにため息をついた。
「ああ、あの子、ついに連れていかれてしまったの?」
その淡々とした調子がエセルには気に入らなかった。ジリアンはあらゆる悲劇をすっかり予期していて、それが起きるときには、嘆くことも悲しむこともとっくに終わらせているのが常だった。悪魔の瞳が、彼女に未来を見せているのである。同じ時に感情を共有できないことが、彼らの関係における大きな欠点だった。
「何で見ておかなかった?」
彼は繰り返した。声が震え、目には再び涙が浮かんでいた。その小鹿のようになった青年を、母親の凍てつくような青い瞳が貫く。私としては、その眼差しのほうが、緋色に変わった彼女の瞳よりも恐ろしいのだけれども。
「私に目は二つしかありませんし、同時に違う場所を見ることもできません。ですから、代わりに私は口を使ってあの子たちに色々言い聞かせているのであって、あの子たちの耳は私の言葉を聞くためについているのです。私は毎朝、屋敷から出るなとあの子たちに繰り返しています。それで聞かないなら、どうしようもありません」
「よくもそんなことを……」
「買い物くらいしか手伝わないくせして、よく私に文句を言えますね。ああしろ、こうしろ、どうしてやっておかなかったんだ……あなたたちの言うことを気にしていられるほど暇ではなくて、本当に良かった」
「母さん!」
エセルは反射的に叫んだ。ジリアンの言う「あなたたち」というのは、明らかに、彼と彼にとっての唯一の悪魔を指していた。遊び歩くしか脳のない男、実質的にはジリアンの夫に当たる男である。その男と一緒くたにされるのがエセルは嫌で仕方なかったが、言動が似てしまったことを認めないわけにもいかなかった。その人物がどうしようもない人間だと気付くまで、エセルは彼を慕い、ついて回っていたのである。
「私はあなたの母親ではありません」
ジリアンはエセルに背を向けて作業を再開していた。終わらない家事に追われ、家族を満たすために自身が満たされることを忘れ、生きがいさえ感じない彼女である。常に苛立っているのも無理はなかった。エセルはよろけるように彼女の背中に歩み寄り、その肩に恐る恐る触れた。ジリアンは猛然と振り返り、彼の涙に濡れた顔を固い表情で見つめた。
「母さん……」
エセルは呟き、滴が伝うのをそのままにして立ち尽くした。ジリアンは今や彼女より頭一つ大きい青年を茫然と見つめた。その険しい顔つきに、仄かな憐みの色が表れる。彼女は小さくため息をつくと、手を伸ばして彼の頭の後ろを撫でた。声も上げず、ただ苦しげにすすり泣くエセルを前に、彼女は何を思ったのだろう?それは、この私が知り得ないことの一つである。
エセルが落ち着いてから、ジリアンは子どもたちを集めて、一番幼い家族が連中に連れ去られたことを伝えた。そう知った弟妹たちには、嘆き悲しむ者もいれば、事態の恐ろしさに戦慄する者もいた。だが、不思議なことに、彼らの誰も世の中を非難しようとしなかった。悪いのは言いつけを破ったエイブラハムだと言いたげに。エセルはそれが気に入らなかった。分別というものは、時に人の判断を狂わせるものなのか?彼は鼻を啜りながら手帳に書きつけた。
涙が乾くのさえ虚しく感じながら彼が自室を出たとき、隣の部屋から物音がした。それで、彼の顔つきは突如険しくなった。そこは件の悪魔――彼同様、緋の瞳は持ち合わせていないのだが――が使っている部屋だった。いつの間に帰ってきたのか?エセルは深刻そうに考えた後、思いきったようにその扉を開けた。断りもなく入ってきた彼に、男はいかにも愉快そうな気味の悪い笑顔を浮かべる。
「よう、お前か」
その物言いで、彼の酒気が抜けていないことはすぐにわかる。エセルは嫌悪感を隠そうとしなかった。
「いつからいたんだよ、テオ」
「俺か?さあ……気付いたらここで寝てたんだよな。誰かと話した気がするんだが、お前じゃなかったか。まあいいや、悪いが水持ってきてくれねえか?死にそうだぜ」
「知るか」
エセルは顔を出したことを後悔しながらテオに背を向けた。何かある予感がしたのは間違いだったと苛立っているようだ。が、それは何も間違ってなどいなかった。背後でせせら笑うテオが、ふと彼に問いかけたのだ。
「そうだ、あの小さいのは帰ってきたか?」
エセルは凍り付いた。心臓を鷲掴みにされたように、その場から動けなかった。あの小さいの。聞き返さなくても明らかだった。この酒に呑まれた男は、エイブラハムの話をしていた。そして、エセルは直感したに違いない、小さな息子が連れ去られたことをテオは知らないのだと。
「……どういう意味だよ」
エセルは乾いた声で尋ねる。テオは寝台の上で微睡みながら薄い笑みを浮かべた。
「ほら、あいつが遊んでくれってうるさいからよ……面倒だったんで、何か面白いもんを見せてみろって言ったらさ、皆がいつ何をするかわかるってんだ。でもよ、あいつにそれがわかったって、俺には何にも面白くねえだろ?だから無視したんだよ」
「で?」
「で、だと?いつの間にか生意気になったよな、お前もさ。それが親父に対する態度かね」
「お前は俺の親父じゃない。エイブラハムに何があったかって聞いてるんだよ」
テオは重い瞼をこじ開け、顔を傾けてエセルを鈍く睨みつけた。彼の不気味なところは、奇妙に理性的で、怒りを怒声や暴力で発散しようとしないところだった。
「かっかすんなよな。あいつに何があったかなんざ知らねえや。ただ、お前がいつ帰ってくるかもわかるって言うからよ、じゃあ迎えにでも行ってこいって送り出しただけ。お前が遊んでやったのか?静かで助かるぜ」
エセルは口元を引き結んで何も言わなかった。憎悪よりも失望が先に彼を包み込んでいた。幼い頃の彼自身と同様に、エイブラハムはテオの醜悪さをまるで理解していなかった。兄弟が屋敷に閉じ籠って暮らしている中で、好きに出かけることができ、未知の遊びに興じて帰ってくる父親は、きっと特別な存在に見えたことだろう。エイブラハムは何度あしらわれてもテオに懐いたままだった。エセルはそれをやめさせようと苦心していたが、たった十七歳では、とても父親代わりにはなれなかったのである。
「……エイブラハムは連れていかれた。瞳を見られて」
「あーあ。あいつはやたら力を使いたがるからな。世の中ってもんをわかっちゃいない」
「まだ五歳なんだぞ」
「もうそんなか。時が経つのは早いな」
「お前が変なことを言わなければ、きっと外に出ようなんて考えなかった」
「あいつは遅かれ早かれ抜け出してたよ。俺の子だもん」
「あいつじゃなくてエイブラハムだ!」
エセルの怒鳴り声は屋敷全体を揺さぶるかのようだった。テオは動揺一つ見せず、寝そべったまま口の端を曲げて笑っていた。エセルには我慢の限界だった。もとより、喧嘩っ早い性格だった。彼は勢いのまま寝台に突き進み、テオに殴りかかろうとした。だが、テオは酔っ払っているとは思えない反応速度でその攻撃を受け流してしまった。よろけるエセルの前に、テオはゆらりと立ち上がる。
「馬鹿だな、お前。俺に勝てると思ったか?」
「……この、糞野郎!」
エセルががむしゃらに振るった拳は、あえなく片手で受け止められた。テオは一撃を喰らった手のひらを眺めた。
「おー、痛ぇ……」
その隙にエセルはもう一度攻撃を繰り出そうと振りかぶった。が、彼が理解するよりも早く、その身体は後方に蹴り飛ばされた。脚をゆっくりと床に下ろし、テオは廊下に叩きつけられたエセルに歩み寄る。
「強いぜ、俺は。英雄だからな」
そのとき、騒ぎを聞きつけた長女メリッサが廊下に姿を現した。彼女は二人の様子を見て顔色を青くすると、彼らの間に割り込んで立った。
「やだ、何してるの、お父さん!」
「よう、メル。今日も別嬪だな。母親そっくりだ」
テオはエセルのことなど早くも忘れてしまったかのように、穏やかにメリッサの頬を撫でた。彼女はその手を振り払うでもなく、ただ困惑したようにエセルを顧みた。並び立つテオとメリッサは、どちらかというと親子よりも兄妹のように見えた。それは、メリッサが兄弟のうち唯一テオに似て黒髪を持って生まれたからであり、かつテオが異様に若々しいからであった。とても酒浸りの生活をしているとは思えないほどに。だが、性格の面では、彼らは似ても似つかなかった。メリッサは勤勉で聡く、テオは怠惰で愚かだった……。
「エセルが何かしたの?」
「おう。この俺に手を出そうとしたんでな。ちょっと痛い目見せただけだよ」
メリッサは真偽を確かめようとエセルの目をまっすぐに見つめた。彼の瞳に宿る好戦的な光が、テオの言葉を裏付けていた。エセルが動こうとせず、黙ってテオを睨みつけているだけなのは、メリッサにとっては好ましいことであった。彼女はそっと父親を部屋に押し戻した。
「お父さん、少し眠ったらどう?お水は?」
「水もほしいが、美人に寝かしつけられるほうがいいね」
メリッサはそれには答えずにテオを横にさせると、急ぎ足で部屋を出て扉を閉めた。それから、脱力するエセルの前に屈む。
「何があったの?」
「エイブラハムが外に出たのはあいつのせいだった」
「何ですって?」
「俺はもうこんなところにはいられない」
エセルは独り言のように呟き、メリッサが眼中にないかのように立ち上がった。少女は重々しく歩き出す兄の前に回り込み、両手で彼の顔を挟んで目を合わせようとした。が、彼の虚ろな目は彼女を捉えようとしなかった。
「出ていくつもり?」
ため息が返ってくる。メリッサは両手を彼の頬から肩に滑らせ、彼を軽く揺さぶった。
「ねえ、気をしっかり持って。あなたがいなくなったら、私たちはどうなるの?お母さんがどれだけあなたを頼りにしているか!」
「俺じゃ力不足なんだよ。限界なんだ、こんな滅茶苦茶な家……」
エセルは優しく妹の手を払うと、階段に向かって歩き出した。メリッサは何とか彼を説得しようと再び口を開いたが、発しかけた音は父親の呼び声に阻まれた。
「メル!メリッサ?どーこ行ったー?」
ああ、赤子め。彼女がはっとして扉を振り返る隙に、エセルは階段を駆け下りた。どうせ家族なんかじゃない。そんな呟きが、メリッサに聞こえてなかったならいいのだが。
廊下には晩餐の香りが満ちていた。ジリアンの料理の腕前は素晴らしかった。もう彼女の手料理を食べられないと覚悟していたなら、早くも恋しさを覚えても無理はない。エセルは玄関に向かおうとした足を、代わりに台所に向けた。ジリアンは床の軋む音で振り返り、疲弊したエセルの眼差しを正面から受けた。
「あの人と喧嘩をするのはよしなさい」
「もうしない。出ていくから」
「そうですか」
ジリアンの顔つきに驚きはなかった。エセルは戸口から一歩後退る。
「二度とここには戻らない。……今までありがとう、ジリアン」
「ええ」
彼女は微動だにしなかった。こんなときまで平静そのものの彼女を見て、エセルはきっと腹を立てたことだろう。苛立ちを表に出す気力こそなかったけれども。彼はそれ以上何も言わずにその場を去ろうとした。すると、ジリアンは言った。
「あなたは戻ってきます」
エセルはつい立ち止まって、当惑した視線を母親に投げた。彼女はどこか悲しげに見えた。
「あなたは何か、とんでもないものをここに持ち帰る。いつの話かはわかりません。数年後か、それとも明日か……けれど、エセル――」
ジリアンはおもむろに彼に歩み寄ると、強張った顔つきを崩した。恐懼、あるいは悲哀だろうか?エセルは彼女のそんな表情を見たことがなかった。その様子には、何か彼を戦慄させるものがあった。
「――私はそんな日が来なければいいと、そう思うのです。あなたと共に戻ってくるものが、私は恐ろしくて堪らない。私が触れてはいけない何か、それをあなたは私の前に持ち出すでしょう」
「……それって?」
「わかりません。ああ、あなたが出ていかないでくれるなら、そんな日も来ないというのに」
彼女は震える手で息子の手に触れた。エセルは黙ってその手を包み込み、じっと考え込む。
「……違うよ。今じゃなくても俺はいずれ出ていって、ジリアンの恐れる何かを持ち帰る。それがジリアンの見た未来ならな。そうなんだろ」
「……ええ、そうですね。我ながら、馬鹿なことを言いました」
ジリアンははにかみ、そっと手を下ろした。これ以上引き留めはしないという意志表示だった。しかし、エセルは言葉とは裏腹に躊躇いを見せていた。運命が何と言おうとも、彼は本気で家を出ていくつもりだった。それがジリアンやメリッサ、他の弟妹たち全員を悲しませ、また苦しめることになるであろうということもわかっていた。彼という支柱を失った一家がどうなるか想像し、彼は顔を歪める。
「でも――」
「行きなさい、エセル」
ふとジリアンが言った。彼女はいつの間にか落ち着いた面持ちを取り戻していた。それでも、エセルは動き出そうとしない。むしろ彼は母親のほうに一歩踏み出そうとしたが、彼女は先んじて後退った。
「一度やると決めたなら、必ずそうしなさい。人のために迷い、信念を曲げたところで、その人や、ましてあなた自身のためになることなど滅多にないのですから。だから、行きなさい。そして……そして、きっと戻ってきてください。できれば早いうちに」
そう言って彼女は微笑した。それはエセルの背中を押すのに十分であった。彼は少しだけ無理をして、同じように微笑んだ。
「戻らないよ」
「そうでしたね」
「……行ってきます、母さん」
「ええ。行ってらっしゃい、エセル」
大それた話を書かせてください(大それないだろ)




