炎に煽られて
自我
≪親愛なるエセル、そしてセレスティア
探し人は見つかったかな?ぜひとも頷いてほしいものだけど、君たちがそちらでまだ手こずるなら、現状を一筆知らせてほしい。気になって仕方がないだろうから先に答えておくと、僕はすこぶる元気だよ。ご心配なく。
それから、君たちはひょっとしたらアーテルニアに帰ってこられなくなるかもしれないけど、そのときは旅を続けてほしい。もう一度カルツァに行くのがいいんじゃないかな。あの場所にはまだ、僕たちにとっての財宝が眠っているはずだから。では、返事を浮いて待つとしよう。 君たちの良き友より≫
エセルは寝起きにその手紙を読み、もう一度その文面を読み直した。何かおかしなことが書かれているのは、眠気がもたらす気のせいなどではなかった。彼は『アーテルニアに帰ってこられなくなる』という文言を指で辿り、読み違えているわけではないことを確かめた。そして、出し抜けに起き上がり、小川に顔を洗いにいった。
戻るなり、彼はセレスティアに目をやった。他の者の姿はなかった。彼女は例によってぐっすりと眠っている。今起こせば、無言で不服を申し立てられることは間違いないだろう――いや、と彼は思い直す。何故彼女の顔色を窺わなければならないのか?どう見ても同じ年頃で、死んだ回数が一回違うだけに過ぎないのに。彼は何げない顔を作ると、彼女の脇に静かに跪いた。
「セレスティア?」
彼女は寝返り一つ打たずにじっと眠りの世界に潜り込んでいる。エセルは彼女の肩を揺すろうとしたが、躊躇った。昨日、彼女が彼の手を拒んだことが思い出されたのだ。結局、彼は手を引っ込め、わざわざその手を背中に回すことまでして、少し声量を上げた。
「セレスティア!」
彼女の瞼が動いた。エセルが祈るように待っていると、彼女は日が昇るのもかくやと思われるほどゆっくりと目を開けた。
「……何?」
「ロイドさんから手紙」
「何て書いてあるの?」
「こっちの状況を知らせてほしいって。それに、気になるのがさ……なあ、寝てないよな?」
「ええ……」
「俺たち、アーテルニアに戻れなくなるかもしれないって書かれてるんだけど」
「それが何なの」
「何っていうか、おかしいだろ?向こうで何か起きてるのか……でも、そんなこと一言も書かれてないし」
「そう……」
その声からは、彼女がまだ微睡んでいることが明らかすぎるほどだった。エセルは彼女が話を理解しているのかと訝り、ため息をついた。寝息が返ってきた。彼は呆れかえり、むっとした勢いで彼女の腕を掴んだ。
「起きろ、この寝坊助!もう朝だ!」
と、彼女を引っ張り起こす。彼女は抵抗せずに身を起こし、眠たげで当惑した目を開けた。
「朝だから起きなきゃいけないなんて決まりはないのよ」
「うちはそうなんだよ。ほら、顔でも洗ってきなよ」
「ここはあなたの家ではないのだけれどね」
セレスティアはぼやきながら天幕を出ていった。エセルはその後に続こうとして、だが足を止めた。彼女に触れたことに気が付いたのか。彼は今更焦って自身の手を見つめたが、どうなるわけでもなかった。少なくとも、彼女は怒らなかった。彼はそう自分に言い聞かせた。外に出ると、メリッサが鍋の中を掻き回しているのを、アリステアがじっと見守っているのが見えた。アントは祭りの準備に忙殺されているらしい。エセルは二人に合流した。メリッサが微笑む。
「おはよう、エセル」
「おはよう。昨日と同じ?」
「そうよ。もう飽きたなんて言わないわよね?」
「俺は食べられれば文句ない性質だよ。知ってるだろ?」
「ええ、そうよね」
と、メリッサは含みのある笑みを浮かべる。もっとも、エセルはその意味するところに気付いていないようだが。二人の様子を注意深く観察していたアリステアは、合点がいったように頷いた。
「二人は恋人同士なの?」
兄妹はぽかんとして少年を見つめた。いかにも純粋無垢な眼差しが返ってきたので、メリッサはつい噴き出した。
「アリステア君ったら!エセルは私の兄なのよ」
「何だ、そうなの。似てないんだね」
「血は繋がってないからな」
エセルはぎこちなく言い添えた。血の繋がりがないことを考えると、彼の幼少期の苦い思い出が想起させるのだ。
「セレスティアは?さっき起きてきたみたいだけど」
メリッサがふと辺りを見回して言った。もうセレスティアが戻ってきてもいい頃合だった。
「顔を洗いにいったと思うけど、遅いな。溺れてるかも」
エセルは無駄に真面目腐った顔をしてみた。アリステアが不安げに彼を見上げる。
「大丈夫なの?」
「冗談だよ。でも、ちょっと見てくる」
エセルは小川を目指して歩き出した。すぐに、川辺に寝そべるセレスティアの姿が見えた。まさか、あんなところでも眠ろうとは!エセルは思わず苦笑した。しかし、彼女の寝姿にはどこか不安を煽るものがあった。川辺だからというのではない。そのまま二度と動かないのではないかと思わせる何かが彼女から醸し出されるのである。エセルは笑みを掻き消し、小走りになって彼女に近づき、顔を覗いた。だが、予想外だったことに、彼女は目を開けて水面を見つめていただけだった。彼女は愚鈍に彼と目を合わせた。
「あなたって何者なのかしら」
「何者でもないよ。君みたいな人とは違う」
「私みたいな人って?」
セレスティアは身を起こし、髪を手で梳いた。その仕草はどこか難色を示しているようだった。エセルは取り繕うように肩をすくめ、彼女の隣に腰を下ろした。
「いや、ほら、君は世界を救おうとしたわけで、それだけすごい人だったってことだろ?俺はただの人間だよ」
「私は立派な人間ではないし、あなたもただの人間ではないわ」
「どうかな……」
彼は真面目に取り合わずに首を振る。セレスティアはそれ以上追究せず、口を閉ざした。日の光は眩く、それが肌を焦がす感覚は容易に想像できた。風が吹いているが、さほど涼しくはないだろう。そんな中に並んで座る彼らは、世界から孤立しているように私には見えた。
「なあ、聞かれたくなかったら悪いんだけどさ、何で昨日怒ってたの?」
ふとエセルが尋ねた。
「昨日?」
「だから、その、触るなって言ってたから。あれは本当にごめん。これからは気を付ける……って言っても、さっきは無理やり起こしちゃったっけ」
彼は取り繕うように早口になり、乾いた笑いまで付け足したが、セレスティアは反応を見せなかった。エセルは突然太陽の存在に気付いたかのように手庇を作り、立ち去る時機を見計らって目を動かした。今か?いや、まだ早いか?そんな彼の戸惑いもどこ吹く風で、セレスティアは緩慢に口を開く。
「……怖いの」
「え?」
「私、あなたが怖い」
まるで幼い少女であるかのような声だった。エセルは目を見開く。
「ええっと……何で?」
「わからない。わからないからもっと怖いの」
彼女の顔つきは虚無そのもので、青年は彼女の意味するところを正確に捉えることができなかった。
「俺が嫌い?」
その問いかけに彼女は驚いた。
「そんなことはないわ。けれど、あなたは計り知れないものを持っている気がしてならないの。あなたが自称するようにただの人間だと思うことはできないし、そんなだから、はっきり言って不気味よ」
「それは、なんかごめん」
「何にでも謝るのはよして。あなたが悪いわけじゃないわ」
セレスティアはいささか厳しい口調で、常に及び腰の青年を諫めた。彼ははにかみ、水面に目を移した。
「まあね。でも、何と言うかな。俺、自分のこともひっくるめて、今わからないこと全部が近いうちにわかる気がするんだ。この、変な死者蘇生の旅を続けていればさ」
「何か理由が?」
「何もかもに意味があるってだけだよ。俺たちが出会ったことも、君が俺を気味悪く思うことも、ちゃんと意味がある。点と点が線になるって感じかな。そのうち、色んなことが意味を成してくるはずだ」
「そうね。すべては彼女の恣意のままよ……不愉快なくらい」
エセルが彼女に答えなかったのは、彼女が誰を指して何を言っているのかがわからなかったからではなく、正しい返答を知らなかったからだろう。少なくとも、彼はあの運命の指揮者――そうではないと誰に言えよう?――に言及したつもりはなかったのだ。彼がぎこちなく言葉を探していると、セレスティアはつと立ち上がった。
「早く起きるとお腹が減るわ」
*
これなら十分だ。何も足りないものはない。ロイドの胸中にはその程度のことしかなかっただろう。だが、彼の頭蓋の内側には、十人の人間が協力しても対処しきれないほどの情報が詰め込まれていた。それを論理に組み替え、計画に生まれ変わらせる――それが彼の仕事であり、彼の存在意義であった。
朝一番にやってきたジリアンは、断固として彼の計画に反対した。まだ手始めに何をするのかさえ聞かされていなかったが、彼女は大体のことをもうすでに見ていたのだ。ロイドは聞く耳を持たず、むしろジリアンの反発を喜んだ。彼女がその未来を見たということは、それが起きるということであり、少なくとも、彼がもたらしたい結果を生み出すことが確定したということだった。ジリアンとて、そのように彼が考えることはわかっていた。
「それで、手伝ってくれるのかな?」
ロイドは渋い顔をするジリアンに微笑んだ。
*
その日、エッタの地には夜が訪れなかった。白狼族たちは辺り一帯に灯りをともし、その清らかで美しき炎でもって、同胞の魂を慰めた。グゥヴァには本来、死んだ者たちの名を読み上げる長い儀式が存在したが、いつしかその退屈な時間は削られ、食事と歌と踊りを楽しむことに費やされるようになっていた。始祖たるエッタはその変化に良い顔をしなかったが、肉をたらふく食べる権利と引き換えに、その件は不問に処された。
エセルの一行は、祭りに招待されたはいいものの、白狼の輪に入って水を差すような真似はできなかった。彼らは集落の隅に座り、豪勢ではないが特別な食事にありついた。皿を綺麗にする度、アントがわざわざ追加の料理を持ってきたので、彼らも暇を持て余すことはなかった。
「いつまでもそんな隅っこにいなくたっていいんじゃないか?」
アントは輪に戻ろうとしてから振り返り、言った。人間たちがいかにももの寂しく見えたのだろう。エセルは白狼族たちの様子を眺めながら首を振る。
「俺はこのくらいがちょうどいいよ。人が騒いでるのを見るくらいがさ」
「そうか?メリサは?」
「そうねえ、一緒に踊るのも楽しそうだけど、邪魔にならないかしら?」
メリッサが遠慮がちに言うと、アントはその懸念を吹き飛ばさんとするかのように哄笑した。多少酔っていると見える。
「ならないね、あんたらは恩人だからな!」
「そういうことなら、少しだけ。ね、皆も行きましょうよ」
早速立ち上がりながらメリッサは言ったが、一行の腰は彼女の想像よりもはるかに重かった。
「結構よ」
と、気のないセレスティア。
「俺もいいや」
と、つれないエセル。
「僕も……」
と、本心は真逆らしいアリステア。メリッサはふくれっ面を作ってみたが、効果はなかった。仕方ない、彼女は何か励ますようにアントの腕を引く。
「しょうがない人たちね、アントさん」
「無理強いしちゃ悪いさ」
彼らはそんなことを言いながら去っていった。エセルは肉を齧りながらアリステアを観察した。羨ましげに白狼たちが浮かれ騒ぐのを見ているその様子はいかにも幼気で、エセルは何故か同情を覚えた。
「混ざりたいなら混ざってきたら?」
彼がそれとなく言うと、アリステアは素早く彼のほうに顔を向けた。
「僕、ここにいたら邪魔?」
「そんなこと言ってないよ。ただ、向こうに行きたそうな顔してたからさ」
少年はアントの背中を見やった。
「あのお姉ちゃんは良くても、僕が行ったら盛り下がるだろうから。嫌われてるんだ、僕」
「思い込みじゃなくて?」
「そうだったら良かったんだけど。母様が一族と上手くいってなかったんだ。ずっと前にアントが僕を祭りに連れ出してくれたときも、他の皆には内緒だった。怒られるのはアントだったからね」
「そっか」
エセルは囁くように答え、目を伏せた。出会いは良いものではなかったが、結局のところ、アリステアはまだ幼い子どもで、エセルのように幸福に育ったわけではないのだ。子どもというのは親の都合に従って育つものだし、出来損ないや性悪も、大人の言う事情とやらの産物に過ぎない。青年は少しでも雰囲気を明るくしようと微笑み、アリステアに向き直った。
「よし!なら俺と遊ぶか?」
「えー……」
「嫌なのかよ……これでも俺、弟と妹から人気者なんだぞ。手遊びだって山ほど知ってるし。ほら、こういうの知ってるか?」
と、エセルは両手を使って何やらよくわからない動きを始めた。が、少年は私と同じくらい冷めた目をしてそれを見つめる。
「付き合ってほしいなら付き合うけど」
「……可愛くねえ」
青年は両手を投げ出した。彼が若干ふてくされて黙り込んでいると、アリステアがふと口を開いた。
「ねえ、空から見たらさ、この辺って綺麗な星空みたいになってるのかな?」
「うーん、まあ、そうかもな」
「じゃあ、死んじゃった人から見ても綺麗だよね。母様もきっと喜んでる」
少年は呟いた。誰の答えを必要としているわけでもなかった。エセルは静かに言葉を飲み込み、空を見上げた。死者が星となって空から見守っているという言説は、自分で寂しさを癒せない、生に取り残された人々のために生み出されたに過ぎない。しかし、仮にそれが事実だったとして、星が星を見て喜ぶものだろうか?美しいものというのは、醜い者どもがその劣等感を癒すために縋るものでしかないはずでは?ああ、否、否、そういう話ではなかったな。
エセルは首を戻し、セレスティアが遠い目をして白狼族のいる辺りを眺めているのにふと気が付いた。
「大丈夫か、セレスティア?」
「何のこと?」
彼女は物思いから弾かれたように引き戻された。
「随分熱心に考え事してるから」
「懐かしい気がしていただけよ。心配しなくても、急に倒れたりしないわ」
「どうだかな。何か思い出す?」
「おぼろげにではあるけれど。私、確かにここに来たことがあるわ。この祭りを見たの。私はまだ小さくて、天灯に夢中になって。そのとき、誰かが隣にいたのだけれど……」
彼女のため息は虚しく消えた。エセルは彼女の横顔に目を注いだ。目を細め、粉々になった記憶を現在の画に何とか重ねようとしているようだった。青年はその成果が出るとは思えない作業を妨げないことに決め、手持無沙汰を理由に、空腹でもないのに肉を食べ続けた。
胃に限界が来て、エセルが周囲の様子を窺ったとき、アリステアは横になって眠りに就いていた。セレスティアもまた横たわっていたが、彼女が見ているのは瞼の裏ではなく星空だった。心地の良い時間であった。エセルは白狼たちのほうに視線を投げた。すると、ちょうどアントとメリッサが戻ってくるところだった。彼らは両手に天灯を抱えていた。
「そろそろ、こいつを上げるんだ。それくらいは一緒にやるだろ?」
と、アントは答えを聞く前から天灯をエセルに差し出す。エセルにも渋る理由はなかった。
「まあ、せっかくだしな」
「あら、アリステア君ったら、寝ちゃったの?」
メリッサが天灯を手渡そうとして言った。すると、少年は大慌てで飛び起き、両手を大袈裟に伸ばした。
「寝てないよ!僕もやる!」
「そんなに慌てなくても、全員分あるさ。余るくらいだしな。さ、セレスタも」
アントは天灯ではなく手を彼女に差し伸べる。セレスティアはその手を取り、立ち上がった。
「ええ、ありがとう」
天灯が全員の手に行き渡ると、アントは早足で群れのほうへ戻っていき、炎を持って戻ってきた。それですべての天灯に火を灯すと、夜闇の中、彼らの顔は仄赤く照らされた。
「私、あっちで皆と一緒に打ち上げたいわ」
メリッサが言い、慌ただしく白狼族たちのほうに駆けていった。アントがそれを追いかけようとして、残りの面々を振り返った。アリステアは迷った挙句、思いきってアントの傍に行った。エセルも同じようにしようとしたが、セレスティアが動かないことに気付かないわけにもいかなかった。彼は数秒様子を窺ってから、アントに向かって首を振った。彼は理解を示すように頷くと、アリステアを伴って白狼の輪の中に戻っていった。
「一緒に行けば良かったじゃない」
「俺が同じこと言ったら何て答える?」
「……呆れた人ね」
セレスティアは呟いたが、不満があるようには見えなかった。彼女はエセルが機嫌を窺って注いでくる視線を感じながら、慎重に言葉を選んだ。
「けれど、正直なところ、あなたが傍にいてくれるのは心強いわ」
「……今の、俺の聞き間違いじゃないよな?」
エセルは思わず目を泳がせる。
「そんなに信じられないかしら。あなたのことは信頼しているのよ」
「でも、怖いんだろ?」
「あなたって面倒ね、すごく」
セレスティアは最後の言葉を強調して言った。向こうで、一つまた一つと天灯が上げられ始めた。エセルはまだしっかりと自分の天灯を手に持ちながら、空を見上げてはにかんだ。
「悪かったよ。下のきょうだいばっかりだからさ、からかうのが癖みたいなもんなんだ」
「そう。あなたの態度って、何だか懐かしい気がするわ」
「君をからかう命知らずがいつかもいたってこと?」
祭りの雰囲気に浮かれて、エセルは明らかに調子に乗っていた。だが、浮かれているのは、実はセレスティアも同じであった。彼女は微笑みを誤魔化すように少し俯く。
「……命知らずかどうかはさておき、ええ、そういう人がいたのかもしれない」
エセルは短く笑った。夜空は今や幽き光に埋め尽くされ、月に代わって人々を優しく抱擁しようとしていた。セレスティアは自身の両手の中の天灯にじっと目を注ぐ。その紫苑の瞳が柔らかな煌めきを孕んだ。
「エセル、あなたは何か特別な血を引いているの?」
「え?いや……正確なことはわからないけど、そんなことないと思う」
「そうね、親がわからないんだものね。――ねえ、少し、首に触れてもいいかしら?」
「駄目ってことはないよ」
青年はその要求に戸惑いながら、顔を下に向けて彼女に首を見せてやった。彼女は天灯を持ち上げて彼の項を照らしながら、その首筋に異変を探し求めた。すぐにわかったことだが、それは人間の首以外の何でもなかった。
「……私の気のせいだったのかしらね」
「何のこと?」
「気にしないで。いつか、点と点が繋がったら、そのときに話すわ。今は、過去に触れるのは負担が大きいみたいだし」
セレスティアは落胆を諦念にすり替え、周囲に目を配った。地上に残っている天灯はもうほとんどなかった。
「もう手を離してしまわないとね」
彼女は言った。エセルは頷き、彼女に合わせて天灯を解放した。離れゆく光は徐々に彼らの顔に影を落としたが、彼らに満ち溢れる欣喜の輝きが失われることはなかった。そこにいるのは、何も知らない無辜の人のようであった。
そう、まだ幼かったあなたが、初めて目にする天灯に心奪われる様子を想像するのは何も難しくありませんよ、美しい人。
*
名残惜しくなるのがわかっていたので、朝、メリッサはてきぱきと身支度を終え、連れをしつこく急かし続けた。だから、セレスティアはうつらうつらとしながらエッタとアントに別れを告げることになった。
白狼族は突然舞い戻った始祖たるエッタをすでに迎え入れ、族長として担ぐことにしたようだった。アントもそれに異存はないらしい――元々、彼は他人の上に立つような性質ではないのだ。長として、エッタは客人を豪快に見送った。
アリステアは妙に成熟した態度で、アントと黙って握手を交わした。エセルやメリッサが世話を焼こうとする前に、少年は友人から離れ、一行の背後に身を潜めてしまった。
昨日のうちに仲良くなった白狼族たちと言葉を交わすメリッサを、アントはもの言いたげに見つめていた。だが、彼女は彼に他の一族と同じだけの言葉をかけ、別れの儀式を終了した。結局、アントは自分からは何も言わなかった。
一行が集落に背を向けて歩き出そうとしたとき、エッタがエセルを呼び止めた。
「おい、小僧!もし儂がおぬしらを呼びつけたくなったらどうすればいい?」
「呼びつけたくなることなんてあるかな……」
「あるかもしれんだろう!」
と、エッタはやたら憤慨した。
「そんな軽い気持ちで呼び出されても困るよ」
「その方法がなければできぬがな」
「まあ……俺たちなら、ルーセチカにいると思う。あ、いや、それかカルツァかな」
エセルはロイドからの手紙を思い出して言った。突然、早くアーテルニアに戻って、万事問題ないことを確かめたくなった。
「はっきりせんか」
「これからどうなるかわからないんだよ。じゃあ、時々手紙でも書くよ……って、字は使わないんだっけ」
「使うわ。何だと思っておる」
エッタは平然と言い、アントをたじろかせた。
「な……ニンゲンの使う字を読めるのか、エタ?」
「何だ、読めぬのか?我が子孫ながら、愚かよのう」
始祖は馬鹿にするでもなく、困惑して同胞を眺め回す。気持ちの急くエセルは、彼女が説教でも始める前に口を挟んだ。
「とにかく、読めるんだったら手紙を寄越すよ。それでいいだろ?」
「うむ。そのときは簡潔に頼むぞ。儂は読むのは嫌いだ」
エセルはおざなりに手を振り、足早に歩き出した。メリッサがついてきて、怪訝そうに兄の顔を覗く。
「何よ、せかせかしちゃって。あんなお別れで良かったの?」
「ルーセチカのことが心配でさ」
「どうして?」
「ロイドさんが手紙をくれたんだ。そこに、俺たちがアーテルニアに戻れないかもしれないって。何かあるのかも」
「それは気がかりね。なら、早めに馬車を拾えるといいんだけど。――ちょっと、二人とも!急ぎましょう!」
メリッサは背後をのろのろとついてくる二人を振り返った。アリステアは小走りになって兄妹に追いつく。
「何で急いでるの?」
「家が心配なの。さあ、駆足よ!」
「アーテルニアで何か起きるとしたら、もうとっくに起きているわ。私たちが急いでも仕方ないと思うけれど」
と、セレスティア。メリッサはむっとして彼女の元に駆け付け、急かすように背中を押した。
「そんなこと言わないでよ。ほら、朝の運動だと思って。目も覚めるわ」
「勘弁してほしいわね……」
そうぼやきつつ、セレスティアは押されるがままに足を速めた。
しばらく進むと、ちょうどアーテルニアの方角に向かう馬車が見えた。エセルは坂を駆け下り、できるだけ大声を上げて何とかその馬車を呼び止めた。親切な御者は全員を荷台に乗せることに同意してくれた。窮屈だったが、文句は言えなかった。
しかし、彼らの旅路はすぐに終わりを迎えた。何者かが彼らの行き先を阻んだのだ。それはどうやらコスタト兵のようだった。
「ここは通行止めだ」
「いや、困るな。荷物を届けないといけないんだが」
「諦めることだ。暴徒の沈静が済むまで、何者もルーセチカには入れない」
「暴徒だって?」
エセルは立ち上がって御者台に身を乗り出した。兵士は侮蔑的な目で彼を見た。
「貴様らには関係ない。早く立ち去れ」
「しかし、兵士さん……」
「行先を変えましょう」
と、セレスティアが渋る御者に後ろから声をかける。エセルはぎょっとして彼女を振り返ると、屈んで声を落とした。
「いや、駄目だよ。何とかして帰って皆の無事を――」
「入るのはさておき、町を出るのは簡単じゃないはずよ。そもそも、事を起こしたのはロイド卿のはずでしょう。何も支度を整えていないはずがないわ。私たちが心配することなんてないでしょう」
「そうだけどさ……」
彼は兵士に目をやった。聞き耳を立てているようだった。
「今は彼の命令に従うべきじゃないかしら」
「命令されたら何でも聞くのか?」
エセルはつい語気を強め、メリッサに窘められた。
「ねえ、喧嘩はよして。ロイド卿の命令って何のこと?」
「カルツァに向かえって。あそこに何かあると思ってるみたいなんだけど」
エセルは再び兵士に視線を投げた。彼らの相談が聞き取れず、苛立っているようだ。国境付近の見張りは彼だけだろうか?そんなはずはないが、暴徒の沈静を狙っているなら、外の警備に大人数を割く余裕はない。確かに、侵入は容易いだろう――と、そんなことをエセルは考えているらしい。が、メリッサは案ずるように兄を見つめ、慎重に口を開いた。
「そういうことなら、そうするべきかもしれないわね」
彼女は兄の傷ついたような顔つきに気付いて急ぎ言葉を付け足した。
「だって、そう言われてるってことは、私たちが帰るのは想定外のことになるってことよ。もし何か計画があるなら、番狂わせも良いところじゃないの」
反論の余地はなく、エセルはため息をついた。だが、合点がいかないのはメリッサも同じで、むしろ状況をほとんど把握していない分、彼女のほうが雲をつかむような気分でいるはずだった。
「とはいえ、ロイド卿の計画が一体何なのかは気になるわ。大勢の命が危ぶまれるようなものじゃないといいんだけど」
「彼は間違いなく危険な橋を渡っているわ。何だか、私たちが早く動かないといけない気がするの。エセル、ここで口論している暇はないと、そう思わないかしら」
セレスティアはエセルをまっすぐに見据えて低く言った。エセルは遠くで背筋を伸ばす美しきアーテルニアの町を眺めた。理屈ではわかっていても、何もせず生まれ育った場所に背を向けることを、どうしても良心が許さないのだろうか。だが、青年よ、君は知らないだろうけれども、アーテルニアは不似合いにも何かと争いに縁のある町なのだ。今回も強く、逞しく、そして麗しく、この乙女は生き残るだろうとも。
「……おじさん、俺たちをカルツァに送ってくれないかな?」
ついに彼は御者に言った。行先を封じられた御者に否やはなかった。
このタイトル、後にとっておいたほうが良さそうだなって思うことがある




