第9話 評価される場所
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。
サルディアでの暮らしは、思いがけず穏やかに始まった。
与えられた執務室は明るく、必要な資料は惜しみなく揃えられていた。何より驚いたのは、私の意見が、きちんと聞かれることだった。
「ヴェント殿、北方の書簡の解釈についてご意見を」「この訳語、貴女ならどう選ぶ?」――官吏たちは、私を「他国の女」ではなく、一人の専門家として扱った。実力さえあれば、出自を問わない。それがサルディアの流儀だと、肌で感じ始めていた。
世話役として付いてくれたのは、レナという快活な文官だった。私より少し年下で、よく笑い、よく喋る娘だ。
「ヴェント様、お昼はもう召し上がりました? こちらの食堂、北方風の蜂蜜菓子が絶品なんですよ」
「……蜂蜜菓子」
「あ、お好きですか? やった、今度ご一緒しましょう!」
屈託のないレナの笑顔に、私は、思わず、頬を緩めた。
ヴェルガにいた頃、私には、こんなふうに気軽に言葉を交わす同僚は、いなかった。優秀すぎて扱いにくい、と陰口を叩かれ、皆、距離を置いた。私自身も、仕事に没頭することで、その孤独から、目を逸らしていた。
けれど、ここでは、違う。
レナは、私を、特別扱いもしなければ、煙たがりもしない。ただ、一人の人として、自然に接してくれる。その何気ない温かさが、凍えていた心を、少しずつ、溶かしていく。
「ヴェント様って、笑うと、ずっと優しい顔になりますね」
「……そう、かしら」
「はい! もっと笑った方がいいですよ。せっかく、お綺麗なんですから」
そんなふうに言われたのも、初めてだった。私は、どう返していいか分からず、ただ、曖昧に微笑んだ。
レナといると、張り詰めていた肩の力が、自然と抜けていく。ヴェルガでは、こんなふうに気安く話せる相手もいなかった。私はいつも、孤独に言葉と向き合っていた。
「レナは、ずっと宮廷に?」
「はい、下級官吏の家の出ですけど。サルディアは、家柄じゃなくて働きで上がれますから。私みたいなのでも、殿下のお側でお役に立てるんです」
誇らしげに言うレナの横顔を見て、私は少し羨ましくなった。自分の働きを、こんなふうにまっすぐ誇れる。それが、当たり前にできる場所がある。
「ヴェント様」
ふと、レナが声をひそめた。
「殿下って、ヴェント様にだけ、ちょっと違うんですよね」
「……違う、とは?」
「うーん、なんていうか。普段の殿下、すごく寡黙で、何考えてるか分かりにくい方なんです。なのに、ヴェント様のことになると、妙に……あ、いえ。なんでもないです!」
レナは慌てて口をつぐんだ。何かを言いかけて、立場をわきまえたように飲み込んだのが分かった。
私は、その続きが気になったけれど、問い質すこともできなかった。殿下が私に向ける、あの長い眼差し。あれに何か意味があるのなら――いや、と私は打ち消す。考えすぎだ。私はただ、役に立つ通訳官。それ以上の何かを期待するのは、身の程知らずというものだ。
その日の夕刻、外務府に一報が入った。
「ヴェルガが、リンドル王国との通商を、一部停止したそうだ」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
リンドル。あの、独特の言い回しを持つ北方の国。市場で聞いた噂、国境で足止めされていた隊商――点が、線になっていく。
「原因は?」
同僚の官吏が、書面を読みながら首をかしげた。
「それがよく分からん。書簡の行き違いから、双方が態度を硬化させたとか。ヴェルガはなぜか、リンドルが先に無礼を働いたと主張しているらしいが、リンドル側はまったく身に覚えがないと」
書簡の、行き違い。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
おそらく――いや、ほぼ間違いない。私の抜けた通辞院が、リンドルの慣用句を読み違えたのだ。バルトが予言した通りに。「これから、ヴェルガの言葉は、少しずつ噛み合わなくなっていく」と。
その「少しずつ」が、もう始まっている。
私は、複雑な思いで書面を見つめた。母国のことを、案じる資格はもうない。けれど、言葉のすれ違いが商いを止め、人々を困らせている。その光景が、どうしても他人事に思えなかった。
「ヴェント殿?」
同僚に呼ばれて、私は我に返った。
「いえ、何でも。……サルディアは、リンドルとは良好なのですよね?」
「ああ、うちは問題ない。むしろ、ヴェルガが抜けた分、リンドルとの取引はこちらに回ってきそうだという話もある」
ヴェルガが噛み合わなくなるほど、サルディアが得をする。
その皮肉な構図に、私はかける言葉を持たなかった。
胸の中で、相反する二つの感情が、せめぎ合っていた。一つは、私を切り捨てた国が、その報いを受けているという、冷たい納得。もう一つは――それでも、母国の人々が困窮することへの、拭いきれぬ憐れみ。
私は、ヴェルガを、嫌いになりきれずにいた。あの国の言葉を、文化を、私はやはり、愛している。だからこそ、苦しかった。崩れていく母国を、ただ、遠くから見ていることしか、できないのだから。
もし、私があの場所に、まだいたら。この崩壊は、防げただろうか。
いや――防げたとして、誰も、それに気づきはしなかっただろう。私の働きは、いつも、そういうものだった。うまくいって当たり前。失敗すれば、責められる。
だからこそ、サルディアでの今が、私には、まぶしすぎるほど、温かく感じられた。
遠い母国で、言葉が静かに崩れていく。その音が、まだ誰にも聞こえぬまま、確実に大きくなっていることを――私だけが、知っていた。




