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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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10/63

第10話 ここでは

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 サルディアに来て、半月が過ぎた。

 私は、自分でも驚くほど、この場所に馴染み始めていた。

 朝、執務室に入れば、すでに机には新しい案件が積まれている。北方の条約草案、海洋同盟との往復書簡、小国エスタとの入植協定の詰め。そのどれもが、私の読みを必要としていた。誰かの後ろに隠れる仕事ではなく、私自身が考え、判断する仕事だ。

 ある朝、机の上に、一皿の蜂蜜菓子が置かれていた。

 レナの仕業かと思ったが、添えられた小さな札には、簡潔な筆跡でこう書かれていた。

 《根を詰めすぎないように》

 その字を、私は知っていた。あの招聘状と、同じ筆跡。

 ――殿下が?

 顔が、勝手に熱くなった。慌てて周囲を見回したが、殿下の姿はない。たまたま近くを通って、机に菓子が山積みの書類に埋もれているのを見かねたのだろう。きっと、そういうことだ。優秀な人材が倒れては困る、という、合理的な配慮。

 そう思おうとするのに、胸の鼓動は、なかなか鎮まってくれなかった。

 その札を、私は、捨てられなかった。

 ただの、業務上の気遣い。そう思おうとするのに、なぜか、引き出しの奥に、そっとしまってしまった。簡潔な、けれど、どこか不器用な筆跡。それを見ていると、胸の奥が、温かくなる。その温かさの名前を、私は、知らないふりをした。

 昼過ぎ、回廊で殿下と行き合った。

「菓子は、口に合ったか」

 さらりと問われて、私はますます言葉に詰まった。

「あ……はい。ありがとうございます。ですが、殿下のお手を煩わせるほどのことでは」

「煩わしくはない」

 殿下は、それだけ言って、少し視線を逸らした。

「君は、自分のことを後回しにする癖がある。倒れられては、こちらが困る。……それだけだ」

「……はい。お気遣い、痛み入ります」

 ほら、やはり。「こちらが困る」。役に立つ通訳官を、失いたくないだけ。私はその言葉を、自分への戒めのように受け取った。期待してはいけない。私は、有能だから必要とされている。それ以上でも、以下でもない。

 なのに――どうしてだろう。

 あの簡潔な札の字を思い出すたび、胸の奥が、温かいような、苦しいような、名前のつけられない感情で満たされる。

 他人の真意は読めるのに。

 自分に向けられた言葉の意味だけは、いつも、上手く訳せない。


 その日の夕刻、外務府が一気に慌ただしくなった。

「ヴェルガが――リンドルとの件で、完全に行き詰まったらしい!」

 飛び込んできた報告に、執務室の空気が張り詰めた。

「単なる通商停止では済まなくなった。両国が互いに非難の応酬を始めて、もはや、ちょっとした書簡の訂正では収まらない段階だと」

 私は、ペンを置いた。

 バルトの予言が、現実になっていく。最初は些細なすれ違いから。そして、気づいたときには――。

「ヴェルガの外交が、おかしい」

 同僚たちが、口々に言った。

「あの国、いったいどうしちまったんだ。前はもっと、こう……如才なくやってたじゃないか」

 その答えを、私は知っていた。

 如才なくやれていたのは、誰かが、表に出ない場所で、言葉のすれ違いを必死に繕っていたからだ。その誰かが、もういない。それだけのこと。

 けれど、それを口にすることは、できなかった。「私がいたから、ヴェルガは保たれていた」――もし、そう言えば、自惚れと取られるかもしれない。あるいは、母国を見限った女の、負け惜しみと。

 私は、ただ、黙って、書面を見つめた。

 同僚たちは、知らない。彼らが「前はうまくやっていた」と言うその「前」を、誰がどれほどの労力で支えていたかを。表に出ない仕事は、いつも、そういうものだ。失われて初めて、その存在の大きさが、分かる。

 ――皮肉なものね。

 私を「替えのきく口寄せ役」と呼んだ人たちが、今、私の不在の大きさに、震えている。けれど、その光景を見ても、私の胸には、勝利の喜びは、湧かなかった。ただ、静かな哀しみだけが、残った。

 窓の外、夕日が王宮の白い壁を赤く染めていた。

 遠いヴェルガで、私が積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。私を要らぬと言った国が、私の不在の意味を、これから嫌というほど思い知るのだろう。

 痛快だとは、思えなかった。ただ、静かに、胸が痛んだ。それでも、今の私は、サルディアの通訳官。母国の崩壊を、一歩引いた場所から、見つめるしかない立場にいる。

 言葉は、運び方ひとつで、国を生かしも殺しもする。

 その重さを、今、ヴェルガが思い知ろうとしていた。

 ふと、隣に立つ同僚が、ぽつりと言った。

「ヴェント殿。もし、ヴェルガが本当に立ち行かなくなったら……サルディアが、間に立つことになるかもしれませんな。その時は、あなたの知見が、頼りになる」

 私は、静かに頷いた。

 私を捨てた国を、私が救う側に回る。そんな日が、来るのかもしれない。皮肉な巡り合わせだ。けれど、もし、それで両国の民が、無用な争いを避けられるのなら――私は、喜んで、その役目を引き受けよう。

 言葉を運ぶ者の務めは、誰が相手であろうと、変わらないのだから。

 その夜、私は、なかなか寝つけなかった。母国の崩壊と、新天地での充足。相反する二つが、胸の中で、静かに、せめぎ合っていた。そして、その狭間で揺れる私の心を、あの青い眼差しが、そっと照らしている気がした。

 そしてこれは、まだ始まりに過ぎないことを――長く外交に生きた私は、誰よりもよく分かっていた。

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