第10話 ここでは
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サルディアに来て、半月が過ぎた。
私は、自分でも驚くほど、この場所に馴染み始めていた。
朝、執務室に入れば、すでに机には新しい案件が積まれている。北方の条約草案、海洋同盟との往復書簡、小国エスタとの入植協定の詰め。そのどれもが、私の読みを必要としていた。誰かの後ろに隠れる仕事ではなく、私自身が考え、判断する仕事だ。
ある朝、机の上に、一皿の蜂蜜菓子が置かれていた。
レナの仕業かと思ったが、添えられた小さな札には、簡潔な筆跡でこう書かれていた。
《根を詰めすぎないように》
その字を、私は知っていた。あの招聘状と、同じ筆跡。
――殿下が?
顔が、勝手に熱くなった。慌てて周囲を見回したが、殿下の姿はない。たまたま近くを通って、机に菓子が山積みの書類に埋もれているのを見かねたのだろう。きっと、そういうことだ。優秀な人材が倒れては困る、という、合理的な配慮。
そう思おうとするのに、胸の鼓動は、なかなか鎮まってくれなかった。
その札を、私は、捨てられなかった。
ただの、業務上の気遣い。そう思おうとするのに、なぜか、引き出しの奥に、そっとしまってしまった。簡潔な、けれど、どこか不器用な筆跡。それを見ていると、胸の奥が、温かくなる。その温かさの名前を、私は、知らないふりをした。
昼過ぎ、回廊で殿下と行き合った。
「菓子は、口に合ったか」
さらりと問われて、私はますます言葉に詰まった。
「あ……はい。ありがとうございます。ですが、殿下のお手を煩わせるほどのことでは」
「煩わしくはない」
殿下は、それだけ言って、少し視線を逸らした。
「君は、自分のことを後回しにする癖がある。倒れられては、こちらが困る。……それだけだ」
「……はい。お気遣い、痛み入ります」
ほら、やはり。「こちらが困る」。役に立つ通訳官を、失いたくないだけ。私はその言葉を、自分への戒めのように受け取った。期待してはいけない。私は、有能だから必要とされている。それ以上でも、以下でもない。
なのに――どうしてだろう。
あの簡潔な札の字を思い出すたび、胸の奥が、温かいような、苦しいような、名前のつけられない感情で満たされる。
他人の真意は読めるのに。
自分に向けられた言葉の意味だけは、いつも、上手く訳せない。
その日の夕刻、外務府が一気に慌ただしくなった。
「ヴェルガが――リンドルとの件で、完全に行き詰まったらしい!」
飛び込んできた報告に、執務室の空気が張り詰めた。
「単なる通商停止では済まなくなった。両国が互いに非難の応酬を始めて、もはや、ちょっとした書簡の訂正では収まらない段階だと」
私は、ペンを置いた。
バルトの予言が、現実になっていく。最初は些細なすれ違いから。そして、気づいたときには――。
「ヴェルガの外交が、おかしい」
同僚たちが、口々に言った。
「あの国、いったいどうしちまったんだ。前はもっと、こう……如才なくやってたじゃないか」
その答えを、私は知っていた。
如才なくやれていたのは、誰かが、表に出ない場所で、言葉のすれ違いを必死に繕っていたからだ。その誰かが、もういない。それだけのこと。
けれど、それを口にすることは、できなかった。「私がいたから、ヴェルガは保たれていた」――もし、そう言えば、自惚れと取られるかもしれない。あるいは、母国を見限った女の、負け惜しみと。
私は、ただ、黙って、書面を見つめた。
同僚たちは、知らない。彼らが「前はうまくやっていた」と言うその「前」を、誰がどれほどの労力で支えていたかを。表に出ない仕事は、いつも、そういうものだ。失われて初めて、その存在の大きさが、分かる。
――皮肉なものね。
私を「替えのきく口寄せ役」と呼んだ人たちが、今、私の不在の大きさに、震えている。けれど、その光景を見ても、私の胸には、勝利の喜びは、湧かなかった。ただ、静かな哀しみだけが、残った。
窓の外、夕日が王宮の白い壁を赤く染めていた。
遠いヴェルガで、私が積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。私を要らぬと言った国が、私の不在の意味を、これから嫌というほど思い知るのだろう。
痛快だとは、思えなかった。ただ、静かに、胸が痛んだ。それでも、今の私は、サルディアの通訳官。母国の崩壊を、一歩引いた場所から、見つめるしかない立場にいる。
言葉は、運び方ひとつで、国を生かしも殺しもする。
その重さを、今、ヴェルガが思い知ろうとしていた。
ふと、隣に立つ同僚が、ぽつりと言った。
「ヴェント殿。もし、ヴェルガが本当に立ち行かなくなったら……サルディアが、間に立つことになるかもしれませんな。その時は、あなたの知見が、頼りになる」
私は、静かに頷いた。
私を捨てた国を、私が救う側に回る。そんな日が、来るのかもしれない。皮肉な巡り合わせだ。けれど、もし、それで両国の民が、無用な争いを避けられるのなら――私は、喜んで、その役目を引き受けよう。
言葉を運ぶ者の務めは、誰が相手であろうと、変わらないのだから。
その夜、私は、なかなか寝つけなかった。母国の崩壊と、新天地での充足。相反する二つが、胸の中で、静かに、せめぎ合っていた。そして、その狭間で揺れる私の心を、あの青い眼差しが、そっと照らしている気がした。
そしてこれは、まだ始まりに過ぎないことを――長く外交に生きた私は、誰よりもよく分かっていた。




