第11話 噛み合わない国
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ヴェルガ王宮、通辞院。
ジェラルド・モルテーンは、苛立ちを隠せずにいた。
「どういうことだ。リンドルとの件が、なぜここまでこじれた」
彼の前で、後任の筆頭通訳官が青ざめていた。
「わ、私はただ、書簡を正確に訳しただけです。一語一語、辞書の通りに……」
「その『正確』が、相手を怒らせているんだぞ!」
ジェラルドは書面を叩きつけた。リンドル王国からの抗議文。サルディア語ほどではないが、北方の言葉もまた、独特の含みを持つ。「相応の対応」が催促を意味し、「友誼」が裏で利害を量る言葉になる。その機微を、後任は何ひとつ知らなかった。
かつて、それを一手に担っていた者がいた。だが彼女は、ジェラルド自身が「口寄せ役」と切り捨て、追い出した。
「……まさか、あの女が抜けたくらいで」
その考えを、ジェラルドは慌てて打ち消した。認めるわけにはいかない。彼女がいなければ回らないなどと認めれば、それは、彼女を切った自分の判断が誤っていたと認めることになる。
「なに、すぐに立て直せる。所詮、言葉を訳すだけのことだ」
彼はそう言って、自分を納得させた。
けれど、その声には、かつてのような、確信がなかった。心の奥底では、薄々、気づき始めていたのだ。オーレリアがいた頃、ヴェルガの外交が、一度も、こんなふうには崩れなかったという、動かしがたい事実に。
彼女は、いつも、当たり前のように、難局を捌いていた。相手国の使者が遠回しに不満を漏らせば、その真意を即座に汲み、角の立たぬ訳で、場を収める。条約の一文に潜む棘を見抜き、戦になりかねぬ誤解を、未然に防ぐ。
それを、ジェラルドは、「通訳なら誰でもできること」だと、思い込んでいた。
だが、後任の青年は、同じことが、まるでできなかった。辞書は引ける。文法も正しい。なのに、言葉の奥にある人の心が、読めない。その一点が、これほどの差を生むとは、ジェラルドは、考えてもみなかった。
だが、現実は彼の慢心を裏切り続けた。リンドルへの弁明の書簡が、また新たな誤解を生む。それを取り繕う返書が、さらに事態をこじらせる。糸は、ほどこうとするほど、固く絡まっていった。
ジェラルドは、夜ごと、書斎で頭を抱えた。送る書簡のどれもが、なぜか、相手を怒らせる。彼には、その理由が、まるで分からなかった。彼にとって、言葉とは、辞書に載った意味を、ただ置き換えるだけのもの。その奥に、国ごとに異なる繊細な作法が潜んでいることを、彼は、想像すらしたことがなかった。今になって、彼は、初めて思い知る。「口寄せ役」と侮ったあの女が、どれほど高度なことを、涼しい顔でやってのけていたのかを。
その頃、私はサルディアの執務室で、皮肉な気持ちでその報を聞いていた。
「ヴェルガが、弁明のたびに墓穴を掘っているらしいな」
同僚の官吏が、半ば呆れたように言った。
「リンドルへの謝罪文に、また失礼な言い回しを使ったとか。あの国の通訳は、よほど質が落ちたと見える」
私は、何も言えなかった。
質が落ちたのではない。元々、その質を支えていた者を、自ら手放しただけだ。けれど、それを言ったところで、誰の得にもならない。
「ヴェント殿。貴女、ヴェルガのご出身でしたな。あの国の言葉の作法には、お詳しいでしょう」
「……ええ、まあ」
「もしヴェルガとリンドルの仲裁を、サルディアが引き受けるとなったら、貴女の知見が要る。覚えておいてください」
仲裁。
その言葉に、私はかすかな予感を覚えた。母国の崩壊は、いずれサルディアの仕事として、私の机に戻ってくるかもしれない。皮肉にも、私を捨てた国を、私が救う側に回る日が来るのかもしれない。
今はまだ、遠い話だ。けれど、その芽は、確かにそこにあった。
「ヴェント殿は、どう思われる」
同僚に問われ、私は、慎重に言葉を選んだ。
「ヴェルガの言葉は、独特の婉曲を好みます。一見、強硬に見える物言いの裏に、譲歩の余地を隠していることも、少なくありません。仲裁するなら、その機微を、丁寧に解きほぐす必要があるでしょう」
「やはり、あなたしか、適任はいないな」
その言葉に、私は、複雑な思いを抱いた。
母国を救うために、母国の言葉を、他国の場で、読み解く。それは、誇らしくもあり、切なくもある役目だった。
私は窓の外を見た。
遠いヴェルガで、言葉が崩れ続けている。それを止められた唯一の者は、もうここにいる。
胸の奥で、何かが静かに疼いた。
言葉を運ぶ仕事は、誰にも見えない。けれど、それが失われたとき、世界は、こんなにも、容易く軋み始める。私が、誰にも気づかれぬまま守っていたものの大きさを、皮肉にも、その不在が、証明していた。
私は、自分の手を、そっと握りしめた。この手が運んできた言葉は、無駄ではなかった。今なら、そう信じられる。たとえ、母国がそれを認めなくとも――私自身が、知っている。
窓の外、北の空には、薄い雲がたなびいていた。あの雲の下で、母国の人々が、今、言葉の通じぬ苦しみに、喘いでいる。私には、それを止める力があった。けれど、その力を、母国は、自ら手放した。
切ないけれど、もう、後戻りはできない。私は、私の言葉が活きる場所で、前を向いて生きるだけだ。
いつか、母国とこの国の間に立ち、両者を繋ぐ日が来るのなら。その時こそ、私は、本当の意味で、自分の役目を、果たせるのかもしれない。漠然と、けれど確かに、私はそんな予感を抱いていた。




