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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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第69話 訳し合う

 ある穏やかな夕暮れ。

 殿下が、私を、あの王宮の外れの、静かな中庭へと、誘った。かつて、私の苦しみを、気遣ってくれた、あの場所だ。

 噴水の水音が、静かに響く。

「ヴェント。……いや、オーレリア」

 殿下が、初めて、私の名を、呼んだ。役職でも、家名でもなく。ただ、一人の人間としての、私の名を。

 その響きに、私の胸が、温かく、震えた。たった、それだけのことが、どうして、こんなにも、心を、揺らすのだろう。

「私たちは、ずいぶん、長く、すれ違ったな」

 殿下が、ふと、笑った。

「ええ。本当に」

 私も、微笑んだ。

 夕陽が、中庭を、橙色に、染めていた。風が、花の香りを、運んでくる。穏やかで、満ち足りた、ひとときだった。あれほどの、嵐のような日々を、越えてきたとは、思えないほどの。

 二人は、これまでの、長い、もどかしい日々を、振り返った。そして、今だからこそ――互いの、あの時の本当の気持ちを、訳し合った。一つ一つ、思い出を、たどりながら。あの時、本当は、どう思っていたのか。何を、伝えたかったのか。すれ違ったまま、過ぎていった、無数の瞬間を、今、二人で、丁寧に、解きほぐしていく。

「あの、机に置かれた、蜂蜜菓子の札。あれは……?」

「君が、根を詰めて、倒れそうだったから、だ。だが、面と向かって言うのは、気恥ずかしくて。札に、書いた」

 その告白に、私は、思わず、笑ってしまった。あの、堂々として見える人が。一枚の札を置くのに、そんなにも、勇気を、振り絞っていたとは。

「私、あれを、『有能な人材への、合理的な配慮』だと、思っていました」

「……まったく。君は、本当に、自分のことになると、鈍いな」

 殿下が、苦笑する。

「殿下こそ。『君を、誇りに思う』なんて、あんな言い方をされたら、仕事への賞賛だと、思うに決まっています」

「あれは、精一杯の、告白のつもりだったんだ」

 二人で、顔を見合わせて、笑った。

「では、あの、査問の前の夜。『すべてが片付いたら、伝えたいことがある』と、仰ったのは」

「もちろん、この想いを、だ。だが、あの時は、君を、危険な戦いに送り出す前だった。もし、先に告げて、君の覚悟を、鈍らせては、ならないと思った。だから、すべてが終わるまで、待つことにした」

 その言葉に、私は、胸が、熱くなった。彼は、いつも、私の戦いを、誰よりも、近くで、見守ってくれていた。私が、自分の力で、立てるように。想いを告げることさえ、私のために、こらえて。なんて、不器用で、なんて、優しい人なのだろう。

 あの頃、互いに読み損なっていた、本当の真意。今、こうして、訳し合えば、すべてが、愛おしい思い出に、変わっていく。あんなに、苦しかったすれ違いさえ。今となっては、二人だけの、大切な物語の、一頁だった。

 すれ違っていたのではない。ただ、互いに、不器用すぎただけ。本心を言えない人と、自分の心を読めない人。だからこそ、こんなにも、遠回りをした。

 けれど、その遠回りは、無駄では、なかったのだと思う。もし、もっと早く、想いが通じていたら。私は、自分の力で、尊厳を取り戻すことも、両国を救うことも、できなかったかもしれない。彼の隣に立つ自信を、得ることも。すれ違いの日々があったからこそ、私は、自分の足で、ここまで、歩いてこられた。そして、今、対等な気持ちで、彼の手を、取ることができる。すべては、必要な、遠回りだったのだ。

「オーレリア」

 殿下が、私の前で、ゆっくりと、跪いた。

 私は、息を呑んだ。

「私は、君と、生涯を、共にしたい。これからは、すれ違うことなく、互いの真意を、訳し合いながら。――私の、妻に、なってくれないか」

 飾らない、けれど、まっすぐな、求婚だった。美辞麗句も、大げさな誓いも、なかった。ただ、彼らしい、不器用で、誠実な言葉。けれど、その一言一言が、嘘偽りのない、本物の想いから、紡がれていることが、痛いほど、伝わってきた。「すれ違うことなく、互いの真意を、訳し合いながら」。それは、言葉を運ぶ者である私への、これ以上ない、約束の言葉だった。

 私の目に、また、涙が滲んだ。けれど、今度は、迷いも、恐れも、なかった。あるのは、ただ、満ち足りた、温かな想いだけ。かつて、王太子の隣に立つ資格などないと、怯えていた私は、もう、いない。私は、自分の価値を、知っている。そして、この人と、共に歩むことを、自分の心で、望んでいる。それだけが、確かな、真実だった。

 私は、自分の心の真意を、はっきりと、知っている。

「はい」

 私は、答えた。

「喜んで、殿下。――いいえ、クラウス様」

 初めて、彼の名を、呼んだ。クラウス。その響きは、不思議なほど、私の唇に、馴染んだ。まるで、ずっと前から、そう呼ぶことが、決まっていたかのように。

 その瞬間、殿下が――いや、クラウス様が、これまでで、いちばん、優しく、微笑んだ。立ち上がり、そっと、私を、抱き寄せる。その腕の中は、温かく、そして、何より、安らかだった。もう、何も、怖くなかった。読み損なうことを、恐れなくていい。この人とは、これから、ずっと、互いの心を、訳し合っていけるのだから。

 噴水の水音が、二人を、優しく、包んでいた。夕陽が、最後の光を、惜しむように、中庭を、照らしている。

 二人の長い物語は、ようやく、すれ違いを、終えて。

 新しい、章へと、進もうとしていた。互いの真意を、訳し合いながら、共に、歩んでいく。その、新しい物語へと。

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