第70話 言葉の真意
それから、月日が流れた。
私は、クラウス様の伴侶となり、サルディアで、新しい人生を、歩み始めた。けれど、私は、通訳の仕事を、辞めなかった。むしろ、両国の架け橋として、これまで以上に、言葉を運び続けていた。
王太子妃が、自ら、外交の現場に立つ。それは、前例のないことだった。けれど、誰も、それを、咎めなかった。私が、言葉を運ぶことで、どれだけの争いが、未然に、防がれてきたか。誰もが、それを、知っていたから。むしろ、私の存在は、両国の安定の、象徴とさえ、なっていた。地位が、私を、現場から、遠ざけることは、なかった。私は、最後まで、言葉を運ぶ者で、あり続けた。それが、私の、誇りだったから。
ある日の、外交の席。
私は、いつものように、相手国の使者の言葉の、その裏にある、本当の真意を、読み解いていた。表に出た言葉の、奥にある、本当の望み。それを、過たず、訳す。
卓の向こうで、使者が、安堵の表情を浮かべる。自分の真意が、正しく届いた、その喜び。その表情を見るたび、私は、思う。言葉を運ぶ仕事は、誰かの心を、ほどく仕事なのだと。伝わらないという、孤独。理解されないという、苦しみ。それを、私の訳が、和らげる。たとえ、表舞台で、称えられることが、なくとも。私の仕事には、確かな、意味があった。
その光景を、傍らで、クラウス様が、穏やかに、見守っていた。かつて、誤解されやすいと、自分を、嘆いていた人。その人が今、私の隣で、安らかに、微笑んでいる。私が、彼の真意を、訳し続けることで。彼もまた、もう、孤独では、なかった。
仕事を終えて、二人で、回廊を歩く。
「君は、本当に、言葉を運ぶのが、好きなんだな」
クラウス様が、言った。
「ええ」
私は、微笑んだ。
「言葉は、運び方ひとつで、国を、人を、生かしも、殺しもします。だからこそ、誇りを持って、運びたいのです。――それが、私の、生きる道ですから」
ふと、私は、思い返した。
かつて、ヴェルガで、「口寄せ役」と侮られ、切り捨てられた、あの日々を。誰にも見られず、感謝もされず、孤独に、言葉と向き合っていた、あの頃の私を。
あの時の私が、今の私を見たら、どう思うだろう。
両国を救い、国家の要と認められ、愛する人の隣で、誇りを持って、言葉を運んでいる。――きっと、信じられないだろう。
でも、これは、夢ではない。
私が、言葉を、信じ続けた。自分の価値を、諦めずに、証明し続けた。その先に、辿り着いた、本当の場所だ。
振り返れば、私の歩んできた道は、ずっと、「言葉の真意」を、巡る旅だった。他人の言葉の裏にある、本当の想いを、読み解くこと。それで、私は、戦争を止め、人々を、繋いだ。けれど、いちばん難しかったのは、自分自身の心の真意を、読むことだった。臆病さに、蓋をされ、ヴェルガの傷に、歪められて。私は、長い間、自分の本当の想いを、訳せずにいた。
その私を、変えてくれたのが、クラウス様だった。彼は、私の言葉の裏にある、本当の私を、まっすぐに、見つけ出してくれた。誰にも、必要とされないと思い込んでいた私を。替えのきく道具だと、信じ込んでいた私を。「君が、いい」と。その一言が、私の、固く閉ざした心を、ほどいた。そして、私は、ようやく、自分の心の真意と、向き合うことが、できたのだ。
「オーレリア」
クラウス様が、私の手を、そっと、取った。
「君に、出会えて、よかった。君が、私の真意を、訳してくれたあの日から、私の世界は、変わったよ」
「私も、です」
私は、彼の手を、握り返した。
「あなたが、私の言葉を、私という人を、見てくれた。だから、私は――自分の心の真意にも、ようやく、辿り着けたのです」
他人の言葉の裏を読む者が、自分の心の真意にだけ、気づけなかった。
けれど、今は、違う。
私は、他人の真意も、自分の心も、まっすぐに、訳せる。バルトの手帳の、あの一文を、思い出す。《最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ》。その通りだった。けれど、私は、その最も難しい翻訳を、ついに、成し遂げた。誰の助けでもなく――いや、多くの人に、支えられながら、最後は、自分自身の力で。
言葉とは、何だろう。私は、生涯をかけて、その問いと、向き合ってきた。言葉は、人を、欺く道具にもなる。ジェラルドのように。けれど、言葉は、人を、救う橋にもなる。私が、信じ続けたように。そのどちらを選ぶかは、それを使う者の、心次第。私は、いつも、救う方を、選んできた。そして、その選択は、私を、ここまで、連れてきてくれた。
言葉は、人と人を、繋ぐ。表と裏の、その狭間にある、本当の想いを、運ぶことで。
そして、いちばん大切なのは――自分自身の心の声に、正直で、あること。
夕日が、回廊を、温かく、照らしていた。
遠く、窓の外には、平和なサルディアの街が、広がっている。その向こうには、和解したヴェルガの空も、続いているはずだ。言葉のすれ違いから、戦争の淵まで、追い込まれた二つの国。その溝を、私は、言葉で、繋いだ。剣ではなく。憎しみでもなく。ただ、互いの、本当の想いを、訳すことで。
その光の中で、私は、隣を歩く愛する人と、これから紡いでいく、新しい言葉の数々に、思いを馳せた。これからも、すれ違うことは、あるだろう。人と人とは、言葉を尽くしても、完全には、分かり合えないものだから。けれど、もう、怖くはない。すれ違っても、何度でも、訳し合えばいい。互いの真意を、根気強く、運び合えばいい。それができる相手が、隣にいる。それこそが、私の、辿り着いた、いちばんの幸福だった。
私の物語は、まだ、続いていく。
言葉とともに。真意とともに。
――どこまでも、まっすぐに。
(了)




