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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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第66話 私の心の真意

 殿下の手の温もりを感じながら、私は、ようやく、自分の心と、向き合った。

 ずっと、聞こえないふりをしてきた、その声に。

 ――私は、この人が、好きだ。

 認めた瞬間、視界が、滲んだ。なんて、単純な答えだったのだろう。こんなにも、近くにあった答えを、私は、どれだけ、遠回りして、探していたのか。

 いつから、だろう。あの会談の夜、振り返った私を見ていた、あの眼差し。机に置かれた、蜂蜜菓子の札。「君を、誇りに思う」という言葉。中庭で、「君は、優しいな」と言ってくれた、あの声。

 あの、蜂蜜菓子。疲れ果てて、執務室に戻った私の机に、そっと、置かれていた。「無理を、するな」と、不器用な字で、書かれた札とともに。あの時、私は、それを、上官の、部下への、ねぎらいだと、思い込もうとした。けれど、本当は、気づいていた。あんな、細やかな気遣いを、彼が、誰にでも、するはずがないことを。私が、甘いものを好むと、いつの間にか、知っていてくれたことを。

 一つ一つの記憶が、今、別の意味を帯びて、蘇ってくる。あの時の眼差しは。あの時の言葉は。すべて、彼の、まっすぐな想いの、表れだった。私が、読まないふりをしてきただけで。

 その一つ一つに、私は、とっくに、心を、奪われていた。気づかないふりをしながら。認めるのが、怖くて。

 なのに、認めるのが、怖くて。叶わぬかもしれない想いに、傷つくのが、怖くて。私は、自分の心の真意にだけ、ずっと、蓋をしてきた。

 他人の言葉の裏を、過たず読む。それが、私の仕事で、誇りだった。

 けれど――いちばん大切な、自分自身の心の声を、私は、ずっと、読み損なっていた。バルトの手帳の、あの一文の通りに。《最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ》。あの言葉を、私は、何度も、読み返した。けれど、その意味を、本当の意味で、理解したのは、今だった。

 人は、傷つくのが怖くて、自分の本心に、嘘をつく。叶わぬ想いに、期待して、裏切られるくらいなら。最初から、そんな想いなど、なかったことにする。それは、自分を守るための、巧妙な、誤訳だった。私は、無意識のうちに、自分の心を、いちばん、安全な方へと、訳していたのだ。けれど、その誤訳が、私自身を、いちばん、苦しめていた。

「殿下」

 私は、涙を、拭わずに、まっすぐ、彼を見た。

「私も……私も、ずっと、あなたに、惹かれていました」

 声が、震えた。けれど、止まらなかった。

「あなたの優しさを、『有能な道具への配慮』だと、思い込もうとしていました。あなたの眼差しの意味を、読まないふりをしていました。――怖かったんです。この想いを認めて、もし、叶わなかったら。王太子と、一通訳官。釣り合わない、と」

「ヴェント……」

「でも、もう、逃げません」

 言葉が、震えながらも、はっきりと、口から、零れ落ちた。一度、口にしてしまえば、不思議と、もう、怖くは、なかった。あれほど、私を縛っていた恐れが、嘘のように、消えていく。本心を、言葉にすること。それは、こんなにも、自分を、軽くするのか。

 私は、初めて、自分の本心を、自分の言葉で、訳した。これまで、何百、何千という、他人の言葉を、訳してきた。けれど、これほど、難しく、これほど、勇気のいる翻訳は、なかった。たった一行の、自分の想い。それを、ありのまま、言葉にすること。

「私は、あなたが、好きです。あなたの、誤解されやすくて、不器用で、それでも、誰よりまっすぐな、その心が。――ずっと、好きでした」

 言葉にした瞬間、長いあいだ、私を縛っていた何かが、ほどけて、消えた。

 殿下の顔に、安堵と、喜びが、広がった。寡黙なこの人が、こんなにも、嬉しそうに笑うのを、私は、初めて、見た。いつも、感情を、表に出さない人。その人が、子供のように、無防備に、破顔している。その表情を見て、私の胸も、温かいもので、満たされた。私が、この人を、こんなにも、喜ばせることが、できる。それが、信じられないほど、幸せだった。

「……やっと、聞けた」

 殿下が、私の手を、強く、握った。

「君が、自分の心を、訳してくれるのを。私は、ずっと、待っていた」

 二人の間にあった、長く、もどかしい、すれ違い。

 他人の真意を訳す者が、自分の心だけ、読めなかった、その物語が。

 今、ようやく、解けた。

 私たちは、ようやく、互いの心を、訳し合えたのだ。

 考えてみれば、不思議な巡り合わせだった。誰にも、本心を、分かってもらえなかった、不器用な王太子。そして、他人の心は読めるのに、自分の心だけは、訳せなかった、臆病な通訳官。互いに、いちばん欠けていたものを、相手が、持っていた。彼は、私に、自分の心を、読み解く勇気をくれた。私は、彼に、自分の真意を、過たず、汲み取られる、安らぎをあげられた。私たちは、足りないものを、補い合える、二人だったのだ。

 窓から差し込む光の中で、私は、涙とともに、微笑んでいた。

 生まれて初めて、自分の心に、正直に。

 長い、長い道のりだった。ヴェルガで侮られ、異国で孤独に耐え、濡れ衣を晴らし、戦争を止めた。その、すべての果てに、私は、ようやく、自分自身の心の声を、訳すことが、できた。それは、どんな国家の交渉よりも、難しく、そして、どんな勝利よりも、温かい、決着だった。彼の手の温もりが、その答えが、間違っていないことを、静かに、教えてくれていた。

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