第65話 君がいい
「君の訳が、必要なんじゃない」
殿下は、まっすぐに、私を見て、言った。一語、一語を、確かめるように。これだけは、絶対に、誤解させまいとする、強い意志が、こもっていた。
その声は、低く、けれど、これまでのどんな言葉よりも、まっすぐに、私の胸に、届いた。
「――君が、いい」
時が、止まった気がした。
たった、五文字。けれど、その短い言葉が、私が、これまで、聞いてきた、どんな美辞麗句よりも、重く、深く、心に、響いた。君が、いい。君で、なければ、ならない。代わりなど、いない。それは、「替えのきく口寄せ役」と侮られ続けた私が、いちばん、欲しかった言葉だった。誰かにとって、唯一の存在であること。代わりの、きかない存在で、あること。
「私が、君を欲しいのは、君が有能だからじゃない。両国を救う力があるからでも、国家の要だからでもない。……君だから、だ」
殿下の瞳が、揺れていた。
「あの会談の夜。君が、立ち上がって、私の言葉の裏を、訳してくれた。あの時――私は、生まれて初めて、自分の真意が、正しく、人に届く心地を、知った」
その言葉に、私は、はっと、息を呑んだ。あの夜。私が、サルディアに来て、初めて、殿下の真意を訳した、あの会議場の夜。私にとっては、数ある仕事の、ほんの始まりに過ぎなかった、あの夜。けれど、殿下にとっては――それが、すべての、始まりだったのだ。
彼が、初めて出会った時から、私を見ていた、その理由。ずっと、引っかかっていた、その問いの答えが、今、解けた。彼は、私の有能さに、惹かれたのではない。自分の心を、初めて、過たず、汲み取ってくれた、その一点に。誰にも、分かってもらえないと諦めていた孤独を、たった一度の通訳で、溶かしてくれたこと。それに、彼は、救われたのだ。
殿下の声に、深い、感情が、こもる。
「私は、口下手で、誤解されやすい男だ。本心を、言葉にするのが、苦手で。ずっと、誰にも、本当の自分を、分かってもらえないと、思っていた。なのに、君は――たった一度で、私の真意を、過たず、読み取ってくれた」
胸の奥で、何かが、堰を切ったように、溢れ出した。
「あの時から、ずっと。私は、君に、惹かれていた。君が、ヴェルガで不当な扱いを受けたと知って、迎えたいと思った。それは、人材としてではない。――君という人を、側に、置きたかったからだ」
その告白は、不器用だった。飾り立てた、美しい言葉では、なかった。けれど、だからこそ、まっすぐに、胸に、届いた。一語一語が、嘘のない、本物の想いから、紡がれている。それが、痛いほど、伝わってきた。私は、長年、人の言葉の真偽を、見極めてきた。だから、分かる。これは、本物だ。彼の言葉に、一片の、偽りもない。
殿下の手が、そっと、私の手を、取った。
温かい、その手の感触に、私は、震えた。その手は、わずかに、震えていた。いつも、冷静で、堂々としている、この人が。私の前で、こんなにも、無防備に、心を、さらけ出している。その事実が、何よりも、雄弁に、彼の想いの、深さを、語っていた。
「君を守ると言ったのも、宮廷で孤立しても構わないと思ったのも、すべて、君が、かけがえのない人だからだ。『有能な道具』だなんて、二度と、言わないでくれ。それは……いちばん、私を、悲しませる言葉だ」
私は、言葉を、失っていた。
胸が、いっぱいで、何も、言えなかった。何か言おうとすると、喉が、詰まる。これまで、無数の言葉を、操ってきた私が。いちばん、伝えたいこの瞬間に、一言も、紡げずにいる。けれど、それは、言葉が、足りないからではなかった。むしろ、溢れすぎて、どれを、選べばいいのか、分からないからだった。
ずっと、目を逸らしてきた、殿下の本心。それが今、これ以上ないほど、はっきりと、まっすぐに、私の前に、差し出された。包み隠さず、何の計算もなく。ただ、一人の人間が、一人の人間に、想いを、伝えるために。
誤読では、なかった。レナの言葉も、私の願望も、思い違いでは、なかった。
殿下は、私を――一人の人間として、想ってくれていた。最初から、ずっと。
頬を、熱いものが、伝った。
涙だった。止めようと、しても、止まらなかった。悲しいわけでも、悔しいわけでも、ない。ただ、心が、震えていた。長い間、固く、閉じ込めてきた感情が、彼の言葉に、ほどかれて、溢れ出していた。
ずっと、聞こえないふりをしてきた、自分の心の声が。今、堰を切って、溢れ出そうとしていた。
他人の真意は、あれほど、読めたのに。
いちばん、知りたかった、この人の心と。そして、自分自身の心だけが、ずっと、訳せずにいた。
けれど、彼の、まっすぐな言葉が、私の心の、固く閉ざした扉を、こじ開けていく。彼が、私の真意を、過たず読み取ってくれたように。今度は、私が、自分の心の声に、耳を、澄ます番だった。臆病な解釈も、卑下する言い訳も、もう、いらない。ただ、ありのままの、自分の想いを。
胸の奥から、答えは、もう、溢れ出していた。ずっと前から、そこに、あったのだ。私が、見ないふりを、していただけで。この人の傍にいたい。この人と、共に、歩みたい。それは、有用さでも、役目でもない。ただ、私が、私の心で、望んでいること。
でも、今なら。
私は、震える唇を、ゆっくりと、開いた。涙で、滲んだ視界の中、彼の顔だけが、はっきりと、見えていた。




