第64話 身を引く理由
数日、悩み抜いた末。
眠れぬ夜を、いくつも、越えた末。
私は、一つの結論に、辿り着いた。
――身を、引こう。
戦争は、終わった。私の役目は、果たした。これ以上、私が殿下の側にいれば、いずれ、彼の負担になる。他国から来た通訳官を重用し続けることは、宮廷で、いらぬ波風を立てるかもしれない。保守派の貴族たちは、表向きは、私を認めた。けれど、王太子の隣に、他国の女が立つとなれば、話は、別だろう。再び、出自を問う声が、上がるに違いない。彼の足を、引っ張ることになる。
私が、いなくなれば。殿下は、もっと、自由になれる。私という、面倒な存在を、抱えずに済む。
そう、思い込んだ。
いつもの、悪い癖だった。誰かのためを思って、自分が、静かに去る。ヴェルガで、俯いて受け流していた頃の、あの私が、まだ、心の隅に、残っていた。
けれど、私は、それを、正しい選択だと、信じ込もうとしていた。これは、逃げではない。殿下のための、賢明な判断なのだと。彼の未来を、思えばこそ。彼が、しかるべき相手と結ばれ、この国の王として、揺るぎない地位を築くために。私という、異物が、その傍らにいては、いけない。そう、何度も、自分に言い聞かせた。
本当は、分かっていた。これも、また、誤読なのだと。彼の心を、勝手に、推し量り、勝手に、答えを出す。確かめることから、逃げているだけ。けれど、確かめて、もし、想いが本物だと知ってしまえば。私は、それを、諦めることが、できなくなる。だから、その前に、去ろうとしていた。傷つく前に。期待する前に。臆病な、私らしい、選択だった。
私は、殿下に、面会を求めた。
「殿下。お話が、ございます」
殿下の執務室。私は、深く、頭を下げた。
「私を、外務府から、別の場所へ、異動させていただけないでしょうか。あるいは――サルディアを、離れることも、考えております」
言葉にした瞬間、自分の声が、ひどく、よそよそしく、響いた。まるで、他人の台本を、読み上げているような。本心では、こんなこと、言いたくない。離れたくなど、ない。けれど、私は、それを、押し殺した。これが、正しいのだと、信じ込んで。
殿下が、息を呑んだのが、分かった。
「……何を、言っている」
「私の役目は、もう、果たしました。これ以上、私が殿下のお側にいれば、宮廷に、いらぬ波風を立てます。私は、有能な道具として、必要とされただけ。ならば、役目が終われば、静かに、身を引くのが――」
「ヴェント!」
殿下の声が、これまで聞いたことのないほど、鋭く、響いた。
私は、はっと、顔を上げた。
殿下が、立ち上がっていた。その顔には、怒りと、それから――深い、傷ついたような、痛みが、浮かんでいた。
「『有能な道具』だと?」
殿下の声が、震えていた。
「君は……本気で、そう思っているのか。私が、君を、道具としてしか、見ていないと」
「で、ですが、殿下は、私が役に立つから……」
「違う」
殿下の声には、これまで、私が聞いたことのない、感情が、滲んでいた。彼は、いつも、冷静で、思慮深い人だった。感情を、表に出すことは、めったになかった。その彼が、今、こんなにも、激しく、揺れている。
「君は、いつも、そうだ」
殿下は、声を、絞り出すように、続けた。
「他人の心は、誰よりも、深く読むくせに。自分のことになると、いつも、いちばん、低いところに、自分を、置こうとする。道具だの、役目だの。――私が、いつ、そんな目で、君を見た」
その言葉が、胸に、突き刺さった。図星を、突かれていた。私が、ずっと、自分に貼り続けてきた、「替えのきく道具」という札を。彼は、引き剥がそうと、していた。
「違う」
殿下は、もう一度、繰り返した。私の言葉を、断ち切るように。
そして、執務室を、つかつかと横切り、私の、すぐ目の前に、立った。
息が、かかるほどの、距離。私を見下ろす青い瞳が、激しく、揺れていた。その瞳に、私の、戸惑った顔が、映っている。逃げ出したいのに、足が、動かなかった。
「もう、黙って、見ていられない」
殿下の声が、低く、けれど、はっきりと、言った。
「すべてが片付いたら、伝えると言った。――もう、十分だろう。これ以上、君が、自分を、安く見積もるのを、私は、見ていられない」
私の心臓が、痛いほど、打っていた。
逃げ場は、もう、なかった。彼の、まっすぐな瞳が、私を、捉えて離さない。私が築いてきた、あらゆる言い訳が、その眼差しの前で、音を立てて、崩れていく。有用な道具。役目。波風。そんな言葉で、塗り固めてきた壁が、彼の、たった一言の前に、脆くも、崩れ落ちていった。
ああ、と思った。この人は、いつも、こうだ。私が、どれだけ、自分の心を、複雑に、訳し損なっても。彼は、まっすぐに、その奥にある、本当の私を、見つけ出してしまう。私が、自分でも、見ないふりをしていた、本当の想いさえ。
殿下が、ゆっくりと、口を開く。
ずっと、飲み込まれてきた、その言葉が。今、ついに、形になろうとしていた。私は、もう、目を、逸らさなかった。逸らせなかった。彼の、次の言葉を、全身で、受け止める覚悟を、ようやく、決めて。
部屋には、二人の、呼吸の音だけが、満ちていた。時が、止まったようだった。世界に、彼と、私の、二人きり。そんな錯覚さえ、覚えるほどの、張り詰めた静寂の中で。私は、ただ、彼を、見つめ返していた。




