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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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第63話 訳せない心

 尊厳は、回復した。母国の構造も、正され始めた。

 すべてが、あるべき場所に、収まっていく。

 なのに――私の心だけが、まだ、宙ぶらりんのまま、だった。

 不思議なものだ。あれほど望んだ、尊厳の回復を、手にしたというのに。心の真ん中に、ぽっかりと、埋まらない場所が、残っている。仕事の充実だけでは、満たされない、何か。それが、何なのか。本当は、もう、気づいていた。気づいていて、見ないふりを、しているだけ。

 私は、もはや、「替えのきく口寄せ役」ではない。両国を救った、国家の要だ。それは、誰の目にも、明らかだった。

 けれど、その事実が、かえって、私を、苦しめていた。

 私は、サルディアにとって、あまりに、有用な人材になりすぎた。だからこそ、殿下が私を側に置くのは、その有用さゆえではないか――そんな疑念が、また、頭をもたげる。

 レナの言葉を、信じたかった。殿下は、私を、一人の人間として想ってくれている、と。けれど、確信が、持てなかった。

「ヴェント様は、難しく考えすぎですよ」

 ある時、レナは、呆れたように、そう言った。

「殿下が、あなたを見る目。あれが、ただの『有用な部下』を見る目だと、本気で、思っているんですか? あんなに、優しくて、切なそうな目で、部下を見る殿下が、どこにいます?」

 その言葉に、私は、何も、返せなかった。レナの言うことは、たぶん、正しい。頭では、分かっている。けれど、心が、それを、認めようとしない。私の中の、臆病な部分が、必死に、別の解釈を、探してしまう。

 もし、私が、ただの平凡な通訳官だったら。殿下は、それでも、私を想ってくれただろうか。両国を救う力がなくても。国家の要でなくても。

 この疑念は、根が深かった。ヴェルガで、「替えのきく道具」として扱われ続けた歳月が、私の心の奥に、消えない傷を、残していた。人は、私の「役立ち」を求めるだけで、私自身を、見てはくれない。その思い込みが、今も、私を、縛っている。だから、殿下の、まっすぐな眼差しさえ、素直に、受け取れない。きっと、これも、私の有用さゆえなのだと、勝手に、解釈してしまう。

 その問いに、答えが出せないまま、私は、殿下の眼差しを、また、誤読し始めていた。

 ――殿下が私を必要とするのは、私が「役に立つ」からだ。

 その考えが、ぶり返す。

 この数日、殿下とは、何度か、言葉を交わす機会があった。けれど、それは、いつも、政務の話に、終始した。和平後の、両国関係の調整。新たな通商協定の、文言。私は、通訳官として、的確に、それに応えた。けれど、その奥にある、もう一つの会話を、私は、頑なに、避け続けていた。彼の瞳が、政務の話の合間に、ふと、別の色を帯びる。その瞬間を、私は、見ないふりをした。

 ある日、廊下で、殿下と行き合った。

「ヴェント。少し、いいか。話したいことが」

 殿下の声に、私の心臓が、跳ねた。あの、約束の言葉を、ついに、聞かされるのだろうか。

 けれど、私は――怖くなって、目を逸らした。

「申し訳ありません、殿下。今、立て込んでおりまして。また、後ほど」

 逃げた。また、逃げてしまった。

 殿下の顔に、傷ついたような色が、よぎったのを、私は、見てしまった。その表情に、胸が、締めつけられた。傷つけたいわけでは、ないのに。むしろ、誰よりも、大切に思っているのに。なのに、私の臆病さが、彼を、傷つけてしまう。立ち去る背中に、彼の視線を感じながら、私は、足を、止められなかった。

 なぜ、こんなことを。自分でも、分からなかった。聞きたいはずなのに。確かめたいはずなのに。

 いや、本当は、分かっていた。聞いてしまえば、もう、後戻りできない。今の、この、曖昧な距離感の中にいる限り、私は、傷つかずに済む。期待して、裏切られることもない。だから、私は、この宙ぶらりんの場所に、しがみついていた。臆病な、自分を、守るために。けれど、それは、彼の想いからも、自分の想いからも、目を逸らし続ける、ということだった。

 怖いのだ。

 もし、殿下の想いが、本物だったら。私は、それに、応える資格があるのか。王太子の隣に立つ資格が、他国から来た、一通訳官の私に。

 その夜、私は、一人、部屋で、膝を抱えていた。

 他人の真意なら、迷わず読める。両国の本音を読み解き、戦争さえ止めた。なのに――自分の心の、たった一つの真意にだけ、私は、こんなにも、臆病だった。

 膝を抱えた腕に、額を、押しつける。窓の外では、また、星が、瞬いているのだろう。バルトの手帳の、あの一文が、何度も、胸をよぎる。《最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ》。その通りだった。私は、他人の心を読む達人でありながら、自分の心の、たった一行さえ、訳せずにいる。なんて、滑稽なのだろう。なんて、不器用なのだろう。

 けれど、と思う。これは、私の、最後の課題なのかもしれない。両国の和平を成し遂げ、尊厳を取り戻した。残るは、ただ一つ。自分自身の心と、向き合うこと。それは、これまでのどんな交渉よりも、難しい仕事だった。なぜなら、相手は、ほかでもない、私自身なのだから。逃げ場は、どこにもない。

 己の心の声を、聞くのが、怖い。

 その臆病さが、私と殿下を、まだ、すれ違わせ続けていた。

 いちばん、解かなければならない、すれ違いを。それは、二つの国の間にあったものより、ずっと小さく、ずっと近く――そして、ずっと、難しいものだった。

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