第60話 見えてきた和平
ジェラルドの妨害を退け、大交渉は、最終局面へと向かった。
もはや、和平を妨げる者は、いなかった。両国の代表は、私が架けた言葉の橋を渡り、一つ、また一つと、合意を積み重ねていった。
ヴェルガの混乱は、「一部高官の暴走」として処理されることになった。ジェラルドとハーヴェイは、その責を負い、表舞台から去る。ヴェルガという国の面子は、保たれた。
サルディアは、勝者として振る舞わず、「両国の和解を仲介した賢明な隣国」として、位置づけられた。ヴェルガは、屈したのではなく、サルディアと手を結んだ、という形で、自国に説明できる。
誰も、負けなかった。けれど、戦争は、避けられた。
一つの合意が成るたびに、私は、慎重に、言葉を選んだ。ヴェルガが「賠償」という言葉に難色を示せば、「将来にわたる通商の便宜」という、実利的で、誇りを傷つけない言い回しに。サルディアが「謝罪」を求めれば、ヴェルガが「対等な遺憾の表明」と受け取れる形に。表に立つ言葉ではなく、その奥で、双方が本当に求めているものを、満たしていく。誰も、屈服したと感じない。けれど、双方が、得るものを得る。その、絶妙な均衡を、一語一語、積み上げていった。
交渉が進むほど、両国の代表の表情から、敵意が、消えていった。最初は、睨み合っていた者たちが、やがて、互いに頷き合い、ときに、わずかな笑みさえ、交わすようになる。言葉が、人の心を、変えていく。その光景を、私は、何度も、見てきた。けれど、今日ほど、それを、尊いと感じたことは、なかった。二つの国の、無数の命が、この卓の上で、救われていくのだから。
最後の合意文書がまとまったとき、会議場に、深い安堵の息が、広がった。
「……成った、な」
殿下が、静かに、けれど、感慨深く、呟いた。
立会人が、厳粛に宣言した。
「ここに、ヴェルガ王国とサルディア王国の、和平が、成立した。両国は、戦争を回避し、新たな友好関係を、築くものとする」
その宣言に、会議場が、湧いた。
戦争は、止まった。言葉のすれ違いから始まった、長く、苦しい対立が、今、言葉によって、終わりを告げた。
武力ではなく、言葉で。憎しみではなく、理解で。私は、二つの国を、繋いだのだ。剣を一度も抜くことなく、一滴の血も流すことなく。それは、私が、生涯をかけて、信じ続けてきたことだった。言葉には、力がある。人を傷つける力も、人を救う力も。そのどちらを選ぶかは、それを使う者の、心次第なのだと。私は、救う方を、選んだ。そして、その選択は、間違っていなかった。
会議場に響く歓声を聞きながら、私は、込み上げるものを、抑えきれずにいた。国境の村々は、焼かれずに済む。若者たちは、剣を取らずに済む。家族が、引き裂かれずに済む。守られた、無数の、名もなき暮らし。その一つひとつが、この、紙の上の合意の、向こうにある。私が守ったのは、抽象的な「和平」ではない。生きた、人々の、明日なのだ。
そして、その立役者が、誰であるかを――その場にいる、誰もが、知っていた。
「ヴェント殿の働きなくして、この和平は、なかった」
ロドリク侯が、皆の前で、はっきりと言った。
「彼女は、サルディアを、いや、両国の民を、戦争から救った。――まさに、国家の要だ」
その言葉に、私は、深く頭を下げた。
胸が、いっぱいだった。
ヴェルガで「替えのきく口寄せ役」と侮られた私が。今、両国の民を救った者として、認められている。私の言葉が、国の運命を、確かに、動かした。
ふと、ヴェルガを追われた、あの日のことを、思い出した。冷たい目で見送られ、誰にも惜しまれず、国を去った。あの時の私は、自分には、何の価値もないのだと、思い込んでいた。替えのきく、ただの道具なのだと。けれど、違った。私の仕事には、確かな価値があった。ただ、ヴェルガが、それを、見ようとしなかっただけ。そのことを、私は今、国家の和平という、最も大きな形で、証明したのだ。涙が、滲みそうになるのを、私は、ぐっと、堪えた。
尊厳の回復は、国家の規模で、完成した。
けれど、それは、私一人の力では、なかった。バルトの導きが、ニナやレナの支えが、そして、何より、私を信じ続けてくれた、殿下の存在が、あったからこそ。異国で孤独だった私を、一人にしなかった人たち。その人たちの想いが、今日の、この和平に、繋がっている。私は、決して、一人ではなかったのだ。
けれど――私の心には、まだ、一つだけ、解けない問いが、残っていた。
大交渉という「すべて」が、片付いた。ならば、殿下が言っていた、「すべてが片付いたら、伝えたいこと」を、聞ける時が、来たのだろうか。
私は、隣に立つ殿下を、そっと見た。
その横顔は、和平の達成に、安堵しながら――けれど、その瞳の奥には、何か、決意のような、熱い光が、宿っていた。
決着の、その先。
会議場を出ると、廊下には、柔らかな夕陽が、差し込んでいた。長い、長い一日だった。いや、長い、長い日々だった。それが、今、ようやく、終わろうとしている。私は、窓辺に立ち、暮れていく空を、見つめた。この空の下で、二つの国の民が、戦火に怯えずに、眠れる。そう思うと、胸が、温かくなった。
背後に、足音が、近づいてきた。振り返らずとも、誰か、分かった。その気配を、私は、もう、知り尽くしていた。隣に立った殿下も、同じように、暮れゆく空を、見つめていた。二人の間に、言葉は、なかった。けれど、その沈黙は、少しも、気まずくなかった。むしろ、満ち足りていた。すべてを、成し遂げた者だけが、分かち合える、静かな充足が、そこにはあった。
二人の、本当の物語が、始まろうとしていた。




