第59話 最後の妨害
「待て。この和平など、認められるものか」
ジェラルドが、震える声で叫んだ。
「皆、その女に、騙されているのだ! オーレリア・ヴェントは、ヴェルガを裏切り、サルディアに寝返った女! その女が架ける『橋』など、サルディアに有利な、罠に決まっている!」
彼は、必死だった。和平が成立すれば、自分の捏造の罪が、確定する。だから、なんとしても、この場を、壊そうとしていた。
「この和平案には、裏がある! ヴェルガを油断させ、後で食い物にするための――」
「ジェラルド殿」
私は、静かに、彼の言葉を遮った。
そして、彼の言葉の裏を、会議場の全員に、読み解いてみせた。
「あなたが今、必死に和平を壊そうとしているのは、サルディアを警戒しているからではありません。――和平が成立すれば、あなたの捏造の罪が、確定するからです。あなたは、自分の保身のために、両国を、戦争に追い込もうとしている」
「な……っ」
「あなたの言葉は、いつも、そうでした」
私は、静かに、けれど、容赦なく続けた。
「『口寄せ役』と私を侮ったのも、あなたが、言葉を運ぶ仕事の価値を、理解できなかったから。そして今、和平を壊そうとするのも、自分の罪から逃れたいだけ。あなたの言葉には、いつも、国のためという大義の裏に、自分の保身しか、ありません」
会議場の全員が、ジェラルドを見た。その目に、もはや、彼の言葉を信じる者は、いなかった。
ジェラルドの論理は、私の真意読解の前に、完全に、解体された。彼が言葉でかき乱そうとするほど、その言葉の裏の、卑しい本音が、露わになっていく。
「違う……違う! 私は、国のために……!」
「では、伺います」
私は、まっすぐに、彼を見据えた。
「あなたは、両国の民が、戦争で傷つくことを、一度でも、考えましたか。あなたが守りたいのは、国ですか。それとも――あなた自身の、地位だけですか」
ジェラルドは、答えられなかった。
ただ、わなわなと震え、やがて、力なく、椅子に崩れ落ちた。
彼の最後の妨害は、不発に終わった。いや――彼は、自分の言葉で、自分の卑しさを、衆目に晒しただけだった。
考えてみれば、彼は、いつもそうだった。言葉を、相手を屈服させる武器としてしか、見ていなかった。大きな声で、威圧する。立派な大義を、振りかざす。けれど、その言葉には、中身がなかった。本当の想いも、相手への敬意も、何ひとつ、込められていなかった。だから、いざ追い詰められると、その言葉は、ただの空虚な音となって、崩れ去った。
言葉とは、本来、人と人を、繋ぐためのものだ。理解し合い、歩み寄るための、橋だ。それを、彼は、人を陥れ、欺くための、道具に貶めた。その報いを、彼は今、受けている。私は、彼を憎んだことも、あった。けれど、こうして、すべてを失った彼を前にすると、もはや、憎しみさえ、湧いてこなかった。
完全な、自滅だった。
ヴェルガの代表団でさえ、もはや、彼を庇おうとはしなかった。彼は、両国の和平を妨げようとした、ただ一人の障害として、その場で、見捨てられた。
立会人が、静かに命じた。ジェラルド・モルテーンを、退席させよ、と。衛兵に促され、彼は、よろよろと、立ち上がった。その背は、すっかり、小さくなっていた。かつて、ヴェルガの宮廷で、誰よりも、傲然と胸を張っていた男。私を「口寄せ役」と嘲笑い、足蹴にした男。その面影は、もう、どこにもなかった。
去り際、彼は、一度だけ、私を振り返った。憎しみと、屈辱と、そして――どこか、理解できないものを見るような、戸惑いの混じった目で。なぜ、お前が。なぜ、口寄せ役ごときが。その目は、そう、問うているようだった。彼には、最後まで、分からなかったのだ。言葉を運ぶ仕事の、本当の重さが。人の心を読み、繋ぐことの、本当の価値が。
私は、崩れ落ちたジェラルドを、静かに見下ろした。
かつて、私を侮り、切り捨てた男。けれど、今の私の胸にあったのは、勝利の喜びでも、復讐の満足でもなかった。
ただ――言葉を、人を、軽んじ続けた者の、あまりに虚しい末路への、静かな憐れみだけだった。
彼を、断罪したのは、私ではない。彼自身の、言葉だった。保身のために重ねた嘘が、彼自身を、絡め取った。人を軽んじ、言葉を弄んだ者は、いつか、その言葉に、裁かれる。彼は、その理を、身をもって、証明したのだ。
会議場に、静寂が、戻った。最後の障害は、去った。和平を妨げるものは、もう、何もない。私は、ゆっくりと、息を吐き、両国の代表へと、向き直った。傍らには、殿下が、静かに、頷いていた。さあ、続けよう、と。その目が、語っていた。私たちの、本当の仕事は、これからだ。戦争を止め、和平を、成し遂げる。その、最後の一歩を、踏み出すために。
ジェラルドの退場で、ヴェルガ代表団の空気も、変わっていた。彼という、戦争へ突き進もうとする錘が外れ、人々の顔から、強張りが、消えていく。誰もが、本当は、戦争など望んでいなかったのだ。ただ、引くに引けず、面子に縛られていただけ。その縛めが、今、ほどけていく。私は、その変化を、敏感に、感じ取っていた。今こそ、和平への、最後の橋を、架ける時だと。
長い戦いだった。ヴェルガを追われ、異国の地で、ゼロから信頼を築き、濡れ衣を晴らし、そして今、二つの国の運命を、その手に握っている。すべては、言葉のために。誰かに、必要とされるために。あの頃の、俯いてばかりいた私には、想像もできなかった場所に、私は、立っていた。




